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非暴力平和解決論が背負う重い課題
〜非暴力主義は形式的正義を超えられるか〜

中島 健

1、はじめに
 今年9月11日の同時テロ攻撃事件に対するアメリカの軍事行動について、今、我が国で、そして世界ではその是非を巡って様々な議論が繰り広げられている。10月にはじまったアフガニスタンにおける米軍機の空爆は1ヶ月を超え、軍事作戦の長期化が明らかになるにつれて、当初は一致結束していた国際世論にも変化の兆しが見られ、特に米軍事作戦の拠点となっているパキスタンの情勢がやや流動的になっている。また、タリバン政権側の報道機関が「民間人に犠牲者が出ている」と報じたり、いくつかの国連やNGO施設が誤って爆撃される事件が新聞報道で大きく取り上げられたりすることで、我が国の中で空爆の正当性に疑問を呈する意見も根強く残っている。

煙を上げる世界貿易センタービル
(9月11日午前10時20分頃撮影)

 しかし、「報復戦争は新たな暴力の連鎖を生む」「暴力では何も解決しない」といった主張は、その理想主義的な響きにも関わらず未だに多くの支持を集めるに至っていない。現に、アメリカでも我が国でも、軍事的手段によってテロ攻撃事件の首謀者とされるアル・カイーダとその支援国(タリバン政権)を殲滅することについては圧倒的多数がこれを支持しており、せいぜい誤爆に伴う非戦闘員への被害や食糧援助の停滞に懸念が示される程度である。イスラム諸国の中にはアメリカの空爆に反対する動きも根強いが、それは暴力的手法を否定するためではなく、反米感情が根強いからに過ぎない(例えば、空爆を批判するイラクのフセイン大統領が非暴力主義者だとは到底言えない)。
 何故、非暴力・平和解決論は説得力を持ち得ていないのか。無論、その原因を「世論が感情的になっている」とか「暴力主義者が聞く耳を持っていない」といった点に求めることは容易であるが、しかしそれでは何も進展が無い。非暴力論者が指摘するように、歴史を振り返って見れば過去にそうした非暴力論が支持された時期も存在するのであり、その原因(=非暴力的手段が現実的妥当性を持ち得た理由)を注意深く探ることは(それが今回の事件に適用可能かどうかはともかく)平和解決論の説得力を高めることになろう。一定の範囲で暴力=軍事作戦に意義を見出す論者が非暴力平和解決論を拒絶するのも、彼らが暴力を愛好するからではなくそこに現実的妥当性が欠如しているからに他ならない。
 そこで本小論では、典型的な非暴力・平和的解決論が何故現実的妥当性を持ち得ていないのかを考察し、非暴力主義運動のかかえる課題を提示する。

2、非暴力平和解決論の陥穽
 今回のテロ攻撃事件における非暴力平和解決論者は、概要次のように主張する。即ち、今回のテロ事件の背景には、アラブ産油国や内戦国における貧富の格差の増大、極端な貧困、それに都合のよいときだけ都合のよい勢力を支援するアメリカ外交の失敗があり、更には先進国と途上国との間の経済格差に伴う構造的な問題がある。アラブ諸国の自治に委ねられるべき湾岸周辺諸国の問題についてアメリカが権力的に介入しイラクを侵略国として排撃する一方で、パレスチナではイスラエルの非合法的な占領地拡大を黙認するのはダブルスタンダードであり、オサマ・ビン・ラディンらはそうした強者としてのアメリカに対する捨て身の抵抗を行ったのである。それにも関わらずアメリカ自身がこうした問題について反省することなく暴力でアフガニスタンを襲撃し、罪のない民間人の被害者を多数作ることは、暴力と憎悪の再生産を招くだけでテロ問題の根本的な解決にはならない、と。
 これらの主張の中には、説得力のあるものもあればそうでないものもある。例えば、アメリカ外交の失敗については、確かに同国の対外政策が右往左往しているように見えることもあるが、その結果アメリカをはじめとする西側諸国が共産主義陣営に勝利し得たことは忘れてはならないアメリカ外交の勝利であり、自由民主主義を支持する全ての人間はこの功績を無視することは出来ない。中東和平問題にしても、イスラエルが不法行為を働いているからといってイラクのクウェート侵略が是認されるわけではないし、アフガン民間人被害者の発生についても、それを伝えているのがタリバン政権側の報道(アフガン・イスラム通信)である以上、信頼度は著しく低いと言わなければなるまい。その一方で、こうしたテロ組織が内戦等で中央権力が消滅し、無政府状態になった貧困国にその戦力の供給源を求めていることは事実であり、こうした国に対する国際的な内戦終結・復興支援が長期的な視点からみてテロ根絶に不可欠であるというのはその通りである。
 だが、それにも関わらずこうした問題提起がアメリカ世論の中で主流を占めることは無いし、我が国においても、長期的な課題としてテロ根絶にむけた国際協力に賛成する議論はあっても、短期的な問題としてアメリカの空爆に反対する意見は少数派である。それどころか、アメリカでは「ブッシュ政権の空爆作戦は手ぬるい」として、大規模な地上部隊の派遣を強硬に主張する政治家も少なくない数存在する。
 何故、アメリカ世論はアフガン空爆を望むのか。何故、アメリカ人は暴力を是認するのか。非暴力論者はその理由を「アメリカ人が感情的になっているから」であると説明するが、テロ攻撃の日から1〜2ヶ月が経過し当初の心理的衝撃が緩和されたと思われる現在に至ってもアメリカ世論が変化していないことは、彼らの主張が単なる感情論ではなく、背景に何らかの理念を有することを示唆する(そして、その理念にまで言及できなかったが故に、非暴力平和解決論はアメリカ世論に対し説得力を持ち得なかったのである)。
 では、その理念とは何か。それは、軍事力を持って自国を攻撃してきた者に対して軍事力を行使することこそ正義の概念(正義理念)に合致する、という形式的正義論である。

3、形式的正義としての軍事報復
 形式的正義論とは、如何なるものか。それは、「自己の権利は主張しながら、他者の権利を尊重しない者」、他者を理由無く差別的に扱っている「エゴイスト(二重基準の者)」を悪とするということである。即ち、二つの事例をその個体的同一性における相違のみに基づいて差別的に取扱うことは法の「平等な適用」という根本的理念に反するのであって、差別的取扱いが許されるのは、両者の間に普遍的特徴における重要な相違が存在する場合に限られる。例えば、通勤電車の車内で老人にシルバーシート(優先席)を譲ろうとしなかった若者が、後日自分が足を怪我したときにはシルバーシートで座席を譲るよう要求したとすれば、彼の行動は如何にもエゴイスティック(わがまま)であり、周囲の乗客から大いに批判を招くことは想像に難くない。何故ならば、彼は健康体であったときには座席譲与を拒むことで「シルバーシートといえども先に占拠した者に使う権利が与えられ、非健常者に譲る必要は無い」というルールを支持する態度をとっていたのに、いざ自分が非健常者となったときには、自分で支持していたはずのルールの適用を拒絶し他者を理由無く差別したからである。
 こうした形式的正義論(あるいはメタ正義概念)は、人間の自然的な平等観念によって支えられ、イスラム教徒であろうとキリスト教徒であろうと共有可能な考え方である。実際、西欧諸国では、ローマ法の時代から「各人に各人の権利を分配せよ」という法格言の中で形式的正義の重要性が説かれていたし、現代の民法でも、「エストッペル(禁反言)の原則」等にその理論が受け継がれている。アラブの「目には目を、歯には歯を」という格言も、「目を向けてきた相手には目で反撃することを許す」という意味と共に「目以上のもので反撃してはならない」という制限を課すものであり、形式的正義に即した考え方である。無論、その妥当範囲は必ずしも無限界ではなく、例えば現代の国際社会では積極的な経済・福祉の問題については事実上各主権国家の範囲で形式的正義が遮断されている(それ故に、我々はアフリカの難民に対してよりも国内の日本人失業者に対して、より多くの予算を割り当てる)が、その一方で、消極的な政治的平等の獲得(反植民地主義、人種差別撤廃等「スタートラインの平等」)には大きな役割を果たしてきた(同じ理由から、消極的な意味での「男女差別撤廃」を求める声は男女双方の支持を得られるが、積極的差別是正措置=アファーマティブアクションまでいくと必ずしもそうではなくなる)。
 以上を踏まえてアメリカ人の理念を分析すると、次の如くになる。即ち、アメリカ人としては、自国民の「生命・財産を尊重しない」という態度をテロリスト達が表明した以上、アメリカ側もまた彼ら(及び彼らを支援する政権、更にはその政権を支援する民衆)の「生命・財産を尊重すべでない」ことになり、武力行使が容認されるのである。無論、このことは「相手の生命・財産を破壊しなくてはならない」という意味ではないが、少なくとも、非暴力平和解決論者が主張するような「相手の生命を尊重しなければならない」という論理には賛同できない。「相手は自分の命を狙ってくるが、こちらはその相手の命は狙わない」と言えるのは、形式的正義を捨てて「正のエゴイズム(不平等)」を実践できる「悟り」を開いた一部の宗教指導者だけである。

アメリカ世論は軍事行動支持に傾いている
(写真はニューヨークのウォール街)

 付言すれば、平和解決論者が「非暴力運動が成功した事例」としてよく引き合いに出すマハトマ・ガンジーの「非暴力・不服従運動」は、形式的正義の実現を求めるアメリカ人を説得するだけの材料に乏しい。何故ならば、ガンジーに率いられたインド人達は、同じ人間でありながら自分達を差別してくるイギリス人達に平等=形式的正義の徹底を求め、形式的正義に向かう主張であるが故に共感を得られたのであり、その主張は形式的正義に適合していたからである。これに対して、現在のアメリカ世論に非暴力を説くことは、既に見てきたように「形式的正義から遠ざかれ」と主張することに等しく、ガンジーの事例をそのまま適用できるものではない。繰り返しになるが、アメリカ人に対するそうした主張は人間が持っている自然的な平等観念を敢えて捨てさせ、自己を不利な地位に置くことを意味するのである以上、極めて困難なものにならざるを得ないのである。

4、おわりに:非暴力平和解決論の課題
 このように、現在のアメリカ世論に対し「非暴力的・平和的手段を以ってテロに対処せよ」と説くことは、その実現可能性を議論する前に、そもそも形式的正義論に照らしても説得力を持ちづらいことが明らかとなった。これに対して一部の非暴力論者は「生命の尊厳」といった具体的正義を持ち出して武力行使を批判し続けるが、テロ組織側とアメリカ側が等しくその価値観を受け入れない限りその具体的正義は形式的正義と合致しない。形式的正義はあらゆる具体的正義に適用可能な一般理論であり、単に具体的正義を唱えただけではこれを超克することは出来ないのである。
 今、非暴力・平和解決論者らに求められていることは、現実主義者から容易に反駁されるような現実妥当性が無い論拠を出して神学論争を続けることではなく、広汎な人々に支持され得るような考え方、即ち人々の自然的観念である形式的正義の考え方を上回るような新しい一般理論を提示することである。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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