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同時多発テロに対する米国の軍事行動に賛同する
〜説得のために〜

田口 達朗

はじめに

 2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件への対処として、米のアフガニスタンに対する空爆をはじめとした軍事戦略が展開されている。空爆開始から一月以上が経過しているが、現在までのところテロリスト捕縛は成功しないまま、誤爆等の民間人の被害が報じられている。さらに事件の解決が見られない中で米国内では新たなテロへの警戒態勢が続いているが、現に郵便物を媒介した炭疽菌による新たなテロが生じている。このような状況下において、「テロ被害と空爆被害は変わらないではないか」、「平和的解決手段をとるべきだ」等の主張がなされ、アメリカの空爆に対する国際世論の支持が相対的に減少している。この点につき、今回のテロに対する米の対処がいまなお正当性を持っているか、そうであるならば、空爆反対の声の高まる国際世論を説得させるための条件が問題となる。
 そもそもテロリズムは国際的に普遍な問題であり、だからこそ各国政府が支持をした米の軍事戦略は国際的な正当性を持つのである。ゆえに、米がテロ問題解決に必要とされる範疇を超えた行動をとる場合、その正当性は損なわれることとなる。例えば、空爆による民間人の被害、イスラム教義における断食の時期(ラマダン)には攻撃を控えるといった宗教への配慮など、周辺各国から要請の声が揚がっている。これに適切な対応が米とそのテロ対策支援国家によって諮られなければ、テロという犯罪を是正する健全な国際社会の行動こそが犯罪であるということとなる。
 以下においては、まず①正当性の観点からテロリズムとそれに対する報復攻撃とを峻別する事を試み、②特に今回のテロ事件と、米の軍事攻撃の態様に即して、正当性の当否を検討して、アメリカの報復攻撃が賛同されるべきものであることを主張する。最後に③その上で今後の米国及びテロ対策を支援する国が取るべき行動について提言する。

第1章 「テロリズム」と「報復攻撃」(※注1)は同じではないと主張する事は可能か?

 今回のテロに関して、ウサマ・ビン・ラディン氏率いる武装集団アルカイダは、米の空爆直後の2001年10月7日にVTRによる声明を発表した。そこでアルカイダのザワヒリ参謀は、「米は50年間イスラエルを支えつづけた犯罪国家である」と発言している。テロリズム行為の是非を別にすると、テロリストにもテロ被害を受け報復する側にも応酬の気持があるということが分かる。『テロリズムと報復攻撃とに共通するもの』があるとすれば、それは何であろうか。様々なテロ事件の一切の具体的な態様に目を向けずに考えると、『積極的に問題の是正を行うのだという意思』であると考えられる。そこには、自己防衛を読み込むことができる。
 では、テロとそれに対する報復攻撃という構図は循環したもので、単純に正義VS悪の図式では捉えられないもの、ということになるのであろうか。
 この点につき、そもそもどのような行動が『テロリズム』の名で非難され、反対にどのような行動が正当性ある『報復攻撃』となるのか、ということが問題となる。
 そこで、『テロリズム』とは何であるかを以下に論じる。

1、テロリズムの本質
 まず、テロリストではない者から観た『テロリズム』は犯罪行為(※注2)として類別化される。目的遂行のために正規の手続きを経ず、社会的に(相手側に)認められ得ないような強制力を行使する。認められ得ない行為を選択するがゆえに『テロリズム』と称され、『報復攻撃』とは区別されるのである。テロリズムはテロリズムであるがゆえに悪とされる。したがって、その判断は政治的なものである。また近代刑法を備えた国においては一つ一つの犯罪事件に厳格な要件を課しているため、テロリズムの動機が直接その犯罪行為に結びついているといえる程度の因果関係が立証できなければ、テロの正当化は難しい。後述するが、テロリズムは因果関係を破壊してなされるものであるから、平和秩序を希求する現代社会とは相容れ得ないものなのである。
 次に、テロリストにとってのテロリズムとは何であろうか。多くのテロ事件が犯行声明や要求などによって明らかにしてきたことは、それが政治目的をもってなされた行為である、ということである。この点につき、テロとは、政府等の正当性のある権力に対して、その被支配者が行う対抗権力の行使である、と大まかに捉える事ができる。『テロリズム』と称される行為類型は、国家や社会が認めているような正当な手続きを、一つ一つ経て行われるものではない。Aが裕福であるのはBという社会制度のためであり、Cはその制度の下では経済的な発展が困難であるという場合を考えよう。Cが制度Bを改革することを訴えるという合法的な手段を用いた自助努力を選択せず、きわめて人間くさい要因から直接、競争相手Aを破壊するような不法行為を選択したとする。これこそがテロリズムが因果関係を無視して民間人を対象とする場合の基本形である。
 また、テロリストにとっての『テロリズム』は、犯行手段の一つである。要するに、自らの姿を明らかにしない『謀略』なのである。様々な物理的強制力の行使の中でテロリズムが選択される理由は、過激派の持つ軍事力が国家の持つ軍事力に到底及ばないもので、またその組織が小さい為に、相手の攻撃をまともに受ければ壊滅してしまうからと言える。
 とくに、テロの事前、事後を問わずテロリストが自己の主張を掲げて行動しない場合、たとえば「奇襲戦」「ゲリラ戦」という目的・大儀のある『戦争』の戦略とは区別できる。「目的がある」とは、自己完結的なものではなく、相手にも認知される(※注3)、という意味である。従ってテロリズムは「戦争行為(Act of War)」とはいえず(※注4)、「武装闘争」だとか、あるいは9・11テロのように甚大な被害が生じた場合にしても、ただ「破壊行為」と呼ぶより他はないと考える。
 以上の二つの視点をまとめると、次のように言える。
 テロ被害者となる側Xは、国際社会におけるマジョリティーの立場なり、何らかの正当で、合法的な立場にいる。よって、社会の中に根の深い問題が存在しても、それが顕在化するのはテロリストが起こす事件による。平和的に暮らしている人々の『予期の連鎖からなる社会秩序』は『機能的』に破壊される。これを受けて『報復』が始まる事となる。
 一方テロリストは、何らかの不満を抱えている。しかし通常の手段を用いてXに対抗するだけの力を持たないがために、「弱者の戦法」としてのテロリズムを選択する。また、必ずしも主張を掲げることがなくとも憎き対象が破壊されればよし、とする。テロリストにとってのテロリズムは、『正義の為の不正義』である。さらに、テロの始まりは潜在的なものである。時間をかけて準備をし、いきなり殺しにやってくる『暗殺者』のようなものである。
 この点につき、通常の犯罪事件とテロとは、しばしば政治目的が窺われ、その犯罪による被害規模が大きい特別な事件がテロと呼ばれる関係にある。

2、『テロリズム』と『報復攻撃』とを区別するもの
 先の議論では、『テロリズム』は社会から正当性を与えられないものであるとした。
 しかし、私たちが何かを正しい、あるいは間違っていると判断する時、ただ単純にある行為の類型だけで即断できる事は稀である。例えば、通常犯罪としての『殺人』であっても、情状が全く酌まれず審判されることはない。この点につき、今回のテロ事件に関してはいまだその全貌が解明されてはいないので議論を尽くす事はできないが、一般にテロの本質を構造面だけではなく、事件に即してその内容に立入って考える場合、やはり背景にある歴史的・文化的側面についての検討が必要となると考える。
 なぜなら、事情の如何によっては国際社会がテロを正当なものとして追認してしまうことが無いでもないのである。例えば、アラブ人でなくともイスラエル建国はテロリズムの成功例である、と評価することのできる事例がある。イギリスは大戦後、パレスチナへのユダヤ人移住を拒否する政策を行っていた。これに対しユダヤ人テロ組織『イルグ−ン』が反英テロを実行し、英の駐留は終了、1948年5月14日にイスラエルは独立したのである。
 このテロリズムは、①国際世論、とくに米の支持があった②国家の独立を獲得するという明確な動機を目的があった③イスラエル市民のテロリストに対する支持があった④英国の過剰な報復を誘発し、国際世論に訴える方法が効果的であった、という四つの要因により成功したと言われる。ここでは、テロリズムが『抵抗権』のように、正当性のある暴力として容認されている。
イスラエルは、特にWWⅡのホロコーストに対する同情から、国際社会、特に西欧諸国が主体となって今日までその正当性を認められている国であるといえる。この点につき、国際社会の評価、即ち政治的視点は認知的なものであるが、規範的でしばしば抗事実的な原理主義者にとってそれは受け入れがたいものであろうことが指摘できる。
 結局のところ、『テロリズム』と『報復攻撃』を区別することは可能であり、それは政治的な決断によると考える。その際の判断基準としては『国際社会における正当性』があるのかないのか、というものである。正当性を主張しようとする側は、何らかの被害を受けた段階で、迅速で積極的な対応と、自らがその行為の責任を引き受けることを明らかにした態度とを国際社会に向けて訴えなければならない。テロ報復攻撃によって世界秩序に不安を与えてしまうことを補う分、信頼を得る為の誠実さが求められるのである(※注5)
 なお、テロ事件発生とそれに対する対応までの時間的な問題は重要である。正当性を主張する側は、悪事に対して適切な時期までに行動せねばならない。何もしない事は『黙認』であり、『テロに比較的寛容なアメリカ』という印象を与え、新たなテロリズムを呼び込むことになるからである(※注6)

※注釈
1:
『テロリズム』と『報復攻撃』という図式は一般的な理論構成ということに注意されたい。今回の米の軍事攻撃は、まさに9・11テロで受けた被害と同規模の被害を「仕返し」する目的で行われているのではない。あくまでテロリストの捕縛ないし殺害という事件解決の目的である。よって、特に今回の米のテロ対策を『報復攻撃』の位置付けで使用する場合、『報復』の意味は、広く解される必要がある。
2:しかし、テロリズムを単純に犯罪と見なすことについては、批判的な見解がある。例えば、1996年12月18日(日本時間)在ペルー日本大使館がMRTAに占拠された事件である。MRTAはペルー政府に対し政治犯の釈放などを求めたが、日本政府に対しては何ら要求が無かった。そこで日本政府は「ペルー国内の犯罪事件であり、事件処理の責任はペルー政府にある」という対応を取ったのである。しかも、経済援助を受けているペルーとしては、日本の要求が「人命尊重、平和的解決」である以上、なかなか強行手段に踏み切れなかった。結局事件は4ヶ月間も継続し、強行突入の際、犠牲になったのは日本人ではなく現地の警察及び機動部隊である。これが米国大使館にて起こったならば、直ちに米軍が駆けつけたことであろう。大事な点は、私たちにとってテロリズムとは日常を破壊する行為であり、誰しもその巻き添えから逃れられない国際的な、国境により区切られる事のない重大な犯罪であるということである。
3:例えば、今回の米の炭疽菌「事件」は、9・11テロとの因果関係が明らかではなく、もしかするとその影響を受けて米国内の微生物取扱関係者が自己組織的に行った「犯罪事件」であるのかもしれないが、米政府は炭疽菌による『生物テロ』と断じて対処しており、私達は9・11テロに続く一連のテロ事件として認識しているのである。
4:そもそも『戦争』は国と国が行うものである。現在のアメリカの攻撃は米対アフガン政権(タリバン)の戦争攻撃では本来無く、タリバンの協力が得られれば、米対テロリストの構図が有り得た。が、タリバンにしても麻薬売買などを行う「犯罪国家」としての側面を持っている。この点につき、アメリカの『報復攻撃』の対象が事実上今回のテロの範疇を超えているのではないかということが問題となりうる。これについては後述する。

5:テロリストの立場はちょうど電車の中で痴漢行為を行う犯罪者の立場であり、これに対しては被害者や周囲の者からの積極的な行動が最も有効なのである。衆人環境の中で、疑わしい者を犯人であると「追呼」なり「誰何」することで被害者は公に正当性を主張できる(参考:刑事訴訟法212条1号4号)。だが一方で、近年明るみになってきたこととして、痴漢詐欺の問題も存在する。この場合、相手の日常生活を破壊するテロリストは、偽装された被害者の立場に相当する。 
6:しかし、パレスチナ問題のように、ある根深い原因が解決されないまま、テロ事件が継続して歴史化した問題については、ある一つの事件を起点とした問題解決は、背景にあるすべての問題までを射程に収められないことがほとんどである。結果、怨恨を新たに一つ積み重ねることになってしまう。
同じような構造は、我が国の抱える歴史教科書問題、靖国神社公式参拝問題についても見受けられる。しかし、たまに耳にすることだが「秀吉以来」日本は侵略国家として隣国を苦しめてきたという主張について、これは妥当するのであろうか。日本にしても「元寇」を受けた。また、国際社会に組み込まれる過程で、不平等条約や金の資本流出を経験するなどの不条理を経験している。がしかし現在においてこの遺失利益を主張する事はナンセンスである。
重要なこととして、発展的な国際関係のためには、ある程度の時間が経過した問題はすでに「克服」されたものでなければならないと考える。そして、比較的近時に発生した現在進行形の問題に関しても、すでに着実に解決の方向に向っている例もあるのである。世界的な核兵器削減の実践は、『No more HIROSHIMA, No more NAGASAKI』の主張に叶うものである。そしてこれもイスラエル建国とおなじくWWⅡ以降、半世紀続いているものである。また、ホロコースト、生物兵器の使用禁止なども、国際社会が解決の方向へといまなお努力を続け、その成果の見受けられる例である。

第2章 今回の同時多発テロ事件における正当性の所在

  前章においては、『テロリズム』と『報復攻撃』とを区別するのは『国際社会の賛同』であるとした。そして、そのための前提として、主体側からの積極的で誠実な姿勢が必要であるとした。
 このような視点を基本として、この章においては、まず今回の9・11テロ事件のテロリズムとしての性格を確認した後で、米の報復攻撃(※注1)の正当性について見解を対立させる形で論じる事とする。

1、「9・11テロ」は特別なテロか
 「今回の同時多発テロの前後で国際社会が一変した」という学者の言葉をよく耳にする。すなわち、9・11テロを契機として米に各国からの支持声明が集中したことである。例えば、NATOがユーゴ・ベオグラードの中国大使館を誤爆した件や、偵察機衝突事件によって米中関係は9.11以前では悪化していた。しかし、テロ後は中国側から対テロ政策を支持する迅速な親米的態度がとられた。短期的なことであろうが、米が覇権的な中心としてではなく、国際社会の一員として、関係各国により支持されているのが現状である。
 通常、一つのテロ事件がここまでの効果をもたらす事は稀であるが、今回のテロ事件は、WTCの喪失という経済機能の損害もさることながら、それ以上に人的被害が甚大であったと言う事が指摘できる。
 では、結果がテロリズムの本質そのものを転倒させてしまう、という意味で9・11テロが特別であるかと言うと、そうではない。これにあたるのは、当該テロリズムが国際社会によって容認されるような場合のことである。今回のテロ事件はテロリズムが社会的にますます凶悪化した形態のものであり、テロリズムの現代的な変容という文脈で捉える事ができる。例えば70年代までのテロリズムは、ハイジャック、立てこもりなどで人質をとり、政治犯の釈放と要求するなど、ローテクで、かつ目的と主体とを明らかにして行われていたと言われる。
 だが近年のテロリズムは、かつてのように規模が比較的小さく、そして一国内の「犯罪事件」として扱えるようなものではなくなってきている。これの大きな要因としては、①通信、交通など国際社会のグローバル化②悪用できる技術水準が高度になったこと③国際政治が大局的に安定してきたなかで、国家レベルでの対立の下では目に付かなかった地域的な紛争が注目され易くなったこと、などが考えられる。特に最近のテロリズムの二大潮流として、『国家支援型』と『宗教型』が指摘されることがある。『国家支援型』は国家が外交の形態としてテロ組織を雇い、裏工作を試みるというものである。例えば1983年の「ベイルート米国海兵隊・仏軍司令部爆破事件」がある。
 また、現在9・11テロが該当するとされているものは、『宗教型』である。これは宗教的動機からテロを行うもので、テロリストにとっては『正義のための戦い』という事になる。とくに、『宗教型』には『自爆テロ』が多く見受けられるのである。
 今回の同時多発テロの特徴を挙げると、次のようになる。
 事前・事後の犯行声明がなく、具体的な背景問題が明らかではない、航空機をハイジャックの後、民間人を人質に交渉することなく、高度な機能を果たしている施設へ自爆突入して甚大な損害を引き起こしている、必要とされる技能、犯行の同時複数など周到な事前準備が窺われる、などの点が挙げられる。
 これらの点から窺われる事は、9.11テロとは、組織的な宗教型テロリズムであり、政治的目的と言うよりはむしろ破壊目的の、極めて高度な社会文明を悪事に転用したもの、である。

2、同時多発テロのこれまでの経緯と、米の報復攻撃(※注1)の正当性
 以降の経緯を簡単に示すと、次のようになる。
 とくに、事件直後の報道は93年のWTC駐車場爆破事件、97年のケニア・タンザニア米大使館爆破事件などとの連続性から、ウサマ・ビン・ラディン氏の関与を疑っていた。その後のFBIによる捜査の結果、厳密には不十分な点もあろうが幾つかの証拠が米から各国へと提示され、実行犯の特定、ラディン氏の母親との通信内容などが報じられたのである。
 これに対して、ラディン氏周辺、またはタリバンから積極的に弁明がされる事はなかった。
 また、空爆後になるが「イスラム教徒は高いビルや航空機を利用するな!」というアルカイダのスポークスマンの発言は極めて挑発的なものであった。
 アメリカは国際社会からの積極的な支持の下で、「テロリストを匿う者も同罪」としてタリバン政権にラディン氏引渡しを要求したが、タリバン側からは第三国においてラディン氏の裁判を行うこと等の主張をした。結局のところ交渉は成立せず、米はタリバンを含めたアフガニスタン広域への空爆を開始したのである。
 以上のことから、前章における議論を適用すると、次のようにまとめられる。
 まずアメリカの『報復攻撃(※注1)』は『迅速かつ誠実』であり、『国際社会からの賛同』を得ており正当性がある。一方、テロリスト側には何らの主張もなく(※注7)、国際的にみて正当化できる要素が全く存在しない。そして、タリバン政権には国際社会の秩序、自国民の安全確保の観点から、ゲストであるラディン氏の引渡しに応じる義務があったと考える。
 しかしなお問題となる点が存在する。それは、米の報復攻撃(※注1)の手段・態様が現状に鑑みて『妥当』なものであるか、という点である。現実に問題となっているのは、米の空爆により誤爆や民間人への被害である。アフガニスタン周辺国のみならず、国際世論の同情を誘っている。検討に値するのは、空爆を一時中断して人道援助活動を行うというものであるが、軍事戦略としては望ましくはない。この点につき、今後の米の対テロ政策の指針が問題となる。
 以下では、まず、米国の報復攻撃(※注1)、とくに空爆について賛成する立場と、反対する立場の二翼の意見を提示し、賛成説の肯定を行う。そして、次章において米国及びそのテロ対策支援国家がとるべき指針について提言を行う。

3、アメリカの同時多発テロに関する対アフガニスタン攻撃は妥当なものであるか?

<肯定説>
 空爆攻撃を肯定する立場からは、テロ被害国からの積極的行動を肯定する。なぜなら、テロリズムは国際秩序および人間の生命に対する破壊活動であり、その背景にある問題に関わらずそれがテロであるという理由だけで否定される。宗教自体は『正義』でありえても、他者との共存を不可能とする暴力は『不正義』である。ゆえに原理主義者の言うジハードという宗教的対立構造は妥当しない。そして、犯人引渡しによる迅速な平和的解決が望めない以上、事態の重大性から軍事力のカードは必要である。そして軍事戦略上、通常兵器による空爆のほか、有効な選択肢が考えられない以上は、空爆対象国のある程度の戦争被害はこれを是認すべきである。

<否定説>
 否定説は、アメリカに批判的な見解を採る。これまでの米国の中東政策は当該諸国に強い不満を与える不公平なものである。アメリカの国際関係におけるユニラテラリズムのしわ寄せが『テロリズム』という犯罪として表面化したに過ぎない。したがって、米のアフガニスタンに対する武力行使は一時的な国際社会の同調を笠にしたものであり、一方的な暴挙の延長線上にある。特に、テロリスト捕縛を建前として、米が「犯罪集団」と見なすタリバン政権をも一石二鳥で潰してしまおうとする政治的目的があり、タリバンにとっては米こそがテロリストである。さらに、誤爆・難民問題などを米は軽視しており、ただでさえ貧しい国をより一層疲弊させてしまう点につき、アメリカの正当性は疑われる。

 次に、<肯定説>を肯定する理由を提示する。

<否定説への反芻>
▲アメリカの横暴という点について

 まず、国際問題は基本的に政治問題である。とくに、今回のテロ事件においても窺われるように、テロリストを引き釣り出してくれる各国政府の上位権力は存在しないのである。したがって各国は各国の思惑で賛成・反対の判断をすることになるため、国際社会の賛同が重要なものとなる。しかし、国際社会は認知的なものであり、妥協する事のできない主張を抱えたまま国際社会から孤立する者の『正義』に対して、それを軽んじる事は妥当ではない。この点につき、そのような者との関係のあり方について問題となる。
 しかし、これは一般的な国際関係の問題であり、焦点となる今回のテロ事件の範疇を超える。とくに、米の政策とテロ事件との因果関係は明確ではなく、また、テロリストが主張しない以上は、それが認められるものかどうかという争点よりも、それ以前の問題である。ここでは今回の事件に関してのみ言及する。タリバンが空爆回避のための積極的な姿勢を選択しなかったことが、タリバンの無責任として帰責性が存在する。とりわけ今回のテロは甚大な被害を起こした破壊活動であり、テロリストの信条の如何に関わらず、人類一般に対する脅威に他ならない。ゆえに、必ず効果的な対処が全世界的に,義務的に必要とされる。国家としては、自国民の安全を担保すること、対外・対内的に自国でのテロリズム発生を抑止する事が期待される。これには、隠れているテロリストを表舞台に引きずり出すための協力も当然含まれていると見るべきなのである。
 以上の事から、今回のテロ事件とこれまでの米の国際関係のあり方との因果関係を認めず、今回のテロ一件の問題として各国は対応すべきである。それが実行できないタリバン政権は、一国の国政を預かるにふさわしくない勢力である、という事に過ぎない。
▲民間人への戦争被害、米の提示した証拠の不十分さなど、正当性への疑問に対して
 一度武力行使が実行されるとしたら、それに付随した悲劇が避けられない。あらかじめこのことを真摯に受け止めておくべきである。この点につき、タリバンの責任は重い。少なくとも、アメリカは何らかの責任を採ることのできる国家である。また、事後的な援助活動などが期待できる。従って、問題は今後のアメリカの対テロ政策がどのように進められるべきか、という点に尽きる。
 また、米が空爆に踏み切った後に提示した『証拠』については、提示後も各国政府が依然として支持表明をし、また報道されている内容、またこれまでのアルカイダの対応の様子からも状況証拠は固まりつつあるので、問題にならない。

 以上の事から、<肯定説>の立場を肯定するが、今後の米の正当性を考える時、これからの対テロ政策の具体的内容が問題となる、と結論付ける。

※注釈
7:
アルカイダは2001年11月6日現在までに、民間報道であるアルジャジーラを通じて、二回ほど声明を出している。一度目は10月7日付けのもので、ラディン氏ほか、ザワヒリ参謀、ムハマド・マテフ軍指令などがイスラム教徒に協力を呼びかける内容であったが、イスラム各国にも同調の様子は見られなかった。二度目は11月5日付けで、ラディン氏のみの声明であった。ここにきてようやく「いまのところ証拠がない」という、今回のテロ事件との因果関係に関する発言がなされたが、状況証拠を裏付けるものでしかない。『自分達は無実だ』とは発言しない理由の一つには、テロリズムの手法の一つに虚偽のプロパガンダが存在することを指摘できる。

3、米国及びそのテロ対策支援国家がとるべき指針

 これまでの議論から、アメリカが今回のテロ事件に対して採った対応は適切なものであり、テロ対策を支援する形で各国政府もそれを適切に評価できているものと考える。
 しかしながら、現在のところ空爆をはじめとした戦争被害に対する国際世論の同情の声が高まっている。米のアフガニスタン空爆に対して様々な条件を求める主張が聞かれる。例えば、①被害が大きくなったから、一時空爆を停止して人道援助活動を行う②ラマダン(イスラム教の断食の習慣)の期間は戦闘は控える③空爆はもう十分であり、あとは地上特殊部隊、または対地下ミサイル(燃料気化爆弾)等の特殊攻撃に限定すべきだ、などが挙げられる。
 これらの国際世論の主張に米国がどのように対処できるかによって、今後の米国の対アフガニスタン軍事行動の正当性が影響を受ける事となるだろう。
 そこで失ってはならない視点は、『米国は、テロリズムへの対策・報復として妥当な範囲の中で行動する以上は、正当である』ということである。従って、今のところラムズフェルド米国防長官の主張するように②に反して米国が空爆を続行するとしても、その政策の必要性と結果の妥当性とを国際世論に対して誠意を持って説明する態度を示すのであれば、国際世論は依然として米国の報復攻撃を支持するべきであると考える。また、米のテロ対策支援国は積極的に米国を支援するべきであるといえる(※注8)。なぜなら、国際社会の承認という正当性を与えることについて、各国は責任を持つからである。具体的には、我が国はアフガニスタンに対する人道支援活動に参加すべきであるし、事後の復興活動をも支援するべきものと考える。それは、資金提供から人的支援に至るまで、幅広く行われるべきである。
 重要な事は、平和的生存のための国際秩序を希求するのであれば、常にその時々に適切な選択とは何かを熟慮したうえで、将来を積み重ねて行く態度が必要である。もしも『現在』の情勢を省みることなく、自らの正当性をあたりまえのものとして国際社会に訴えることを忘れてしまうとすれば、次に正当性を失うのは米国という事になってしまうのである。

※注釈
8:
しかしこのことは、例えばエジプトのようなイスラム系の米支援国にとっては負担となる。また、タリバンのザイ−フ大使は「国連は人道援助もしないで政治的駆け引きにふけっている」と発言している。これらの点は真摯に受け止めるべき事柄であると思われる。

さいごに
 90年代において世界で120の軍事的争いがあったといわれるが、そのうち純粋に国と国とが争ったのは、10を数えるほどでしかない。すなわち、残りの多くは(主に安全保障という観点で)国家の機能が消滅ないしうまく作動できないでいる次元における争いなのである。
 この事実は、我が国の安全保障の問題に対しても、自ら国際秩序を創り出していこうとする積極的な実践が絶対的に必要である事を示唆している。
 そのような観点からは、テロ対策支援立法、自衛隊派遣決定、ASEAN+3に見られた日中韓の平和的関係改善にイニシアチブを発揮している点など、今回のテロ事件に関係する我が国の対応には、かなりの評価を与える事ができるだろう。

※参考文献
Samuel P. Huntington(鈴木主税訳) 『文明の衝突と二十一世紀の日本』 集英社新書、2000年
宮田 律 『現代イスラムの潮流』 集英社新書、2001年
佐渡龍己 『テロリズムとは何か』 文藝新書、2000年
Niklas Luhmann(長岡克行訳) 『権力』 勁草書房、1986年
斎藤純一 『公共性』 岩波書店、2000年

田口 達朗(たぐち・たつろう) 大学生


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