このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 三軒茶屋 

 「 健論法学 」でも触れたように、司法裁判において原告又は被告は、自らの主張が認められるということは即ち自身の主張する主観的正義が客観的・社会的にも正義である、ということで、矛を収めて紛争が処理される。即ち、裁判所において「適法な行為」と認められる行為は即ち社会の全ての構成員にとって「正義の行為」であり、「適法性」を主張することは社会全体を動員することに等しい意味を持つ。そして、弁護士をはじめとする法律家は、社会における紛争を理性によって処理することを手助けする専門家である。
 それにもかかわらず法律家に対する印象が悪いのは、一つには、彼らが援用する「法」が「正義」とともに「権力」的な要素を含むため、あたかも彼らが「権力の侍女」であるかのような印象を持つからであろう。実際、我々が接する「法」の多くはそうした「社会紛争を処理する準則」ではなく「行政の手段としての法律」である。これは、日本国憲法が「法律による行政の原理」を採用し、少なくとも国民の権利を制限する行為については法律による裏づけが必要であるということになっていることも深く関連する。
 しかし、私はより重大な理由があると考える。それは、法律家が、実定法をあたかも自らが制定した知恵であるかのように扱い、「法を知っている」というだけで自らを権威づけようとするからではないか。「法」に書き記された「正義」は、近代法であれば古くローマ時代に遡るものであるし、更に現代では国民の過半数の賛同を得ているが故に「法的効力」を有する。しかし、一部の心無い法律家は、そうして制定された法をあたかも自らのものであるかのようにして扱い、「社会の威」を借りて物事を語るかのような態度をとっているのではないだろうか。「いやいや、民法ではこう規定されています」と得意げに説明する時の法律家は、あたかも万人の代表者であるかのように傲慢に振舞う。本当は、そうした態度をとることによって、万人を敵に回しているというのに・・・。
 司法制度改革が議論されている昨今、真の意味でよき社会生活のまとめ役としての法律家が養成されることを望む。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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