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義務教育再構築への道筋
〜「自分」の中の「日本人」と「言語人」〜

飯島 要介

 昨今、来年度より本格化する、新学習指導要領に基づく初等・中等教育の新カリキュラムの是非を問う議論が断続的に行なわれています。また、中学校の歴史/公民の教科書として扶桑社より発行された、「新しい歴史/公民教科書」が国内のみならず、アジア諸国に反響を与えました。これらが意味することは、学校教育、とりわけ義務教育と呼ばれるものに対して、人々が非常に期待している、或いは期待しているが故に、その義務教育の内容によっては大きな不安を抱えるようになるということでしょう。
 しかし、その期待、或いは不安の中には、一つの社会におけるあらゆる機能不全を「学校教育」によって長期的に改善すればよいという安直な考えの下、その機能を改善し得る教育内容を義務教育に導入するべきとするという期待、或いはそれがなされないことに対する不安があります。これらの期待や不安というものの中には、別の手段によって解消していかなければならないか、或いはそもそもそのような期待や不安と抱えること自体に無理があるものもあります。
今回の演説では、まず私が考察した義務教育の意義を論じた後に、これからの義務教育に求めるべき内容を主張したいと思います。
 では、最初に私の考察した義務教育の意義を論じていきます。
義務教育という制度はそもそも近代の産物であると私は考えます。何故ならば、前近代においては現在日本国の領域内にいる人々が一律した内容の教育を受けていなかったという事実があるからです。当時は行政機能が藩を単位とし、社会がいわゆる村落共同体を単位としていて、藩・村落共同体という領域を越える関係というものは武士階級や一部の裕福な地位にあった町人や農民が漢文を用いて行なっていたに過ぎなかったのです。従って、日本列島に住んでいた人々全てが共通して学ぶという必要性がなかったのです。
 しかし、明治維新以降、日本は欧米の植民地化政策に対抗するために、欧米の近代制度に合わせることを急務とし、国境の画定と国民の育成に力を入れました。そこで用いられたものが学校でした。そこでは政府が定めた標準語の指導を行ない、近代産業や軍事などの近代的制度・組織に対応できる最低限のコミュニケーション能力や運動能力を有しているという意味での有能さと、大日本帝国に対する強い帰属意識をもっているというという意味での忠実さを育んでいました。
 戦後においても、義務教育は戦前と本質は一切変わっていません。まずGHQによる強制力を伴った民主化政策の一貫として現行の義務教育制度が敷かれました。その後は経済成長を国家の最重要目的と位置付け、その目的に国民を巻き込むことのできるカリキュラムの編成がなされました。そしてオイルショック以後、高度経済成長を見込めなくなると、そのカリキュラムは批判的に受け取られるようになりました。そして、来年度より導入される新たなカリキュラムはこの流れから作られたものであるといえるでしょう。そのカリキュラムは情報化社会・グローバリゼーション・個々の学習への意欲向上などを目的として作られていると言われています。以上から分かるように、義務教育というものが国家の現実的な目的に即し、必要最低限の教育内容を盛り込んでおり、国民の義務教育に対する要望というものも、国家が必要と判断する範囲で採用されているのです。以上が私の考察した義務教育の意義です。
 では、以上を踏まえて、これからの義務教育に求めるべき内容を主張したいと思います。
 昨今、国家の枠組みが揺らいでいるという主張が方々で見られます。情報・経済のグローバリゼーションにおいては既に多く指摘されてきています。さらに、昨年9月に起こったアメリカ同時多発テロは、外交・軍事の分野においても国家の枠組みでは解決しきれない状況が生じてきたことを示唆しているといえるでしょう。
 このような揺らぎに対しては教育界においても様々な試みが見られました。その代表例が冒頭でも触れました、「新しい歴史/公民教科書」であったといえます。この教科書は、日本人という概念を前近代に用いて、各時代において特徴的な営みとして現代にその跡を残している文化を日本人の文化として規定して紹介することで、日本人としての一体感を取り戻そうとする試みの産物であるといえるでしょう。
 しかし、先に述べました通り、日本人という概念は近代以降に作られた概念であり、現在日本人が日本人であると自覚しているのは近代教育における努力の結果なのです。また、文化と呼ばれるものが日本人全員に共有されるようになったのは、ラジオ・新聞、そしてテレビによる情報共有が日本人全体に及ぼされたことによるものです。仮に、日本人の文化というものが存在し得るとすれば、それは情報伝達技術が急速に発達した高度経済成長期以降ということがいえるでしょう。そしてその文化も時を経て変化しているのです。さらに日本人と呼ばれる人々の中には、祖先が明らかに日本列島に居住していない人々もいるのです。
 従って、前近代における文化というものを教科書という手段によって日本人全員に日本人の文化として伝承することは困難であるし、もし強引に行なうことがあれば、その目的である日本人に日本人としての帰属意識を高めるということが実現するどころか、逆効果をもたらすことになるのです。
 以上のような主張は近代の限界性を示した点で一定の評価を私はしています。しかし、ポストモダンと呼ばれる学派を中心に、この限界性を理由に国民国家を不要とする主張が、度々なされています。しかし、これらの主張はあくまでアンチ国民国家論の域を出ず、国民国家のオルタナティヴとしての積極的な世界像を提示している哲学とは言い難いものです。そうである以上、秩序ある世界を模索していくためには、こうしたポストモダン学派の主張する近代の限界性というものを踏まえた上で、国民国家というものを捉え直すべきであると私は考えます。それでは、以上を踏まえて、これからの義務教育のあるべき姿を述べていきたいと思います。
 来年度より本格的に導入される新学習指導要領において、最低限とされるカリキュラム内容・授業時間が共に削減されたということがマスコミを中心に取り上げられ、批判の対象になっています。しかし、国民全員が共通して必要とする基礎能力というものは減らしていくべきであると私は考えます。何故ならば、将来的に単純な作業は技術革新によってオートメーション化していき、社会の各分野において求められる能力は専門化・高度化していくでしょう。それによって、今まで学歴社会と呼ばれる社会において求められていた能力、即ち与えられた課題を忠実にこなす能力は人間に対しては余り求められなくなっていくと考えられるからです。日本社会に限定すれば、オートメーション化が進行せずとも、そうした能力は海外の安い労働力に求められるようになるので、より早い段階で高度な能力が日本人には求められることになるでしょう。つまり、全員が同じことを学ぶことによって日本人を意識させる教育というものは不適切になりつつあるということがいえます。
 これからの義務教育においては各人が個々の能力を最大限に発揮しつつ、社会に参画していくことのできるカリキュラムに転換していくべきであると私は考えます。そのために国家が義務付けるべき最低限のカリキュラムは以下の二点に絞られると私は考えます。それは基礎的なコミュニケーション能力の養成と主権者としての政治参加能力の育成です。
 まず、基礎的なコミュニケーション能力というものは、直接的な対話を行なう能力であるとここでは定義します。この能力は個々の価値観の差異を知る手段として有効であり、秩序ある社会を形成するためには個々の価値観の差異を知ることは不可欠であると私は考えます。昨今、電子メールなどによる間接的なやりとりが盛んに行なわれています。しかし、このようなやりとりは現実の社会には厳然として存在する価値観の相違を意識する機会を避けることができます。このようなやりとりしか行なっていない人間は、場合によっては、その中で形成された、他者を内面化していない価値観によって自己の正当化をはかるべく、破壊活動等を平然と行なえてしまえるのです。異なる価値観を知り、それを前提として社会とどのように関わっていくかということを考える、そういう機会を与える必要性があると私は考えます。
 次に主権者としての政治参加能力というものは、社会のあり方をアウトプットするプロセスに関する知識であるとここでは定義します。社会との関わり方を考え、社会のあり方を模索したとしてもそれを他者にアウトプットする場・能力がなければ、そこには秩序は期待できないでしょう。その場において、各人の考える社会のあり方を吟味し、社会を改善していくことが必要であり、それによって各人はその社会に積極的にコミットしていこうという意識が生まれてくると私は考えます。
 以上の義務教育を国民に課すことによって、国民一人一人が自他双方向への批判精神を持ち、自らの目的意識に立脚した社会生活を営める日本国が訪れることを期待して終わらせていただきます。

飯島 要介(いいじま・ようすけ) 大学生


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