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三軒茶屋
ストーカー犯罪が社会問題化して久しいが、何故ストーカー達は、「愛する」相手に危害を加えたり、時として殺害してしまったりするのであろうか。「愛情の裏返しとしての憎悪」という説明もあろうが、それではやや単純に過ぎる。
以前の原稿の中で、私は「愛」を「相手の効用を最大化する行為」、「恋」を「自己の効用を最大化する行為」とそれぞれ定義したが、この定義の下で御互いに「愛し合っている」関係にある2人は、互いに互いの存在が内面化され、自己の意識の一部として絶対化される。相手に対する称賛は即ち自らに対する称賛に、また相手に対する誹謗は即ち自らに対する誹謗に感じられるのはこのためだが、これがきちんと清算されずに「別れ」に至ると、別れられたほうとしては、あたかも自己の一部を失ったかのような虚脱感に襲われる。そして、その失われた自己の一部を取り返すべく、別れた相手の自宅や勤務先を徘徊する・・・あたかも、足が生えて勝手に逃げ出した自分の片腕を捕まえにいくように。その意味において、ストーカー自身には「犯罪」の意識が全く無い。
では、「憎悪」や「殺意」は何なのか。これは、相手そのものに向けられたものではなく、自分から相手を引き離した別の存在、相手の中に存する「邪悪な存在」に向けられたものではないか。ストーカーは、あたかも戦争未亡人が夫を奪った戦争を憎むように、自己の存在の一部を奪った「存在」を憎むのである。無論、その「存在」は相手の中に存するのであるから、結局その「憎悪」は極めて矛盾しているのだが・・・。中島 健(なかじま・たけし)
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