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コートジボワール小史 
アフリカ象牙海岸の安定と混乱

菊地 光

 コートジボワール共和国(Republic of Cote d'Ivoireは、アフリカ中南部・ギニア湾に面した人口1660万人の国で、国名の「コートジボワール」とは同国の公用語・フランス語で「象牙海岸」を意味する(そのため、日本の外務省は、つい最近まで、公文書の表記を「コートジボワール共和国」ではなく「象牙海岸共和国」としていた)。首都は人口約30万人のヤムスクロ(Yamoussoukro)だが、1983年までは同国最大の都市アビジャン(Abidjan、約320万人)が首都であった。通貨にはCFAフラン(Communaute Financiere Africaine Francs。旧仏領系諸国と旧ポルトガル領のギニアビザオで流通しており、「西アフリカ諸国中央銀行」が発行)を使用しており、1ユーロ=655.9CFAフランの固定レートである。
 経済的には、世界第一位のカカオの生産国であり、コーヒー、木材、石油製品等が主要な輸出品になっている。1人あたりGDPは630ドル(2001年)と低いが、1999年の軍事クーデター前までは西アフリカ諸国の中では随一の安定と繁栄を誇っていた。

コートジボワール地図

▲コートジボワール地図

1、植民地支配から独立、ウフエ=ボワニ体制へ
 象牙海岸には、古くは様々な部族によるグリシャボ、ベチェ、アンデニュ等の王国が栄えていたが、15世紀からポルトガル人(彼らの進出の名残りで、今でも西部海岸に「Sassandra」「San Pedro」というポルトガル語の都市名が残っている )、イギリス人等が海岸に現れるようになり、欧米列強の力が徐々に進出してきた。17世紀にはフランスの勢力下に入り、1893年、フランスの植民地に編入された(1917年には全土がフランスに制圧された)。
 仏領西アフリカ(AOF=l'Afrique occidentale francaise、French West Africa)植民地(首都:ダカール)の一員となったコートジボワールは、第二次世界大戦では、途中からシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaule)准将率いる自由フランス政府に帰属し、枢軸国及びそれに降伏した本国政府(ペタン元帥のいわゆるヴィシー政府)と交戦した。終戦後の1946年、植民地の自治拡大の一環として植民地からフランス海外県(DOM)に昇格し、1958年9月には「フランス共同体」内の自治共和国となった。しかし、他の仏領西アフリカ諸国と同様、コートジボワールもフランス支配下に留まることを潔しとせず、1960年8月7日、遂に完全独立を達成した(1961年「フランス共同体」から脱退)。
 しかしフランスからの独立は、フェリックス・ウーフエ=ボワニ(Felix Houphouet-Boigny)大統領率いるアフリカ民主連合コートジボワール支部・コートジボワール民主党(Partie democratique de Cote d'Ivoire、Rassemblement Democratique Africain PDCI-RDA).の一党独裁政治の始まりでもあった。植民地時代、仏領西アフリカの首都ダカールの医学学校で学び(医師となる)、フランス総督の下で自治共和国首相の座にあったウーフエ=ボワニは、独立した年の11月に大統領に選出されると、自身の権力に服しない官僚や支持者、更にはその家族らを次々に逮捕・拷問し、2度にわたる反乱を鎮圧。しかし、同時に、自身を「反植民地闘争のヒーロー」「アフリカの賢慮」と位置づけ、一部の反政府勢力には復権の機会を与えて寛容さをアピールし、首尾よくカリスマ支配体制を確立した(ちなみに、ウーフェ・ボワニ大統領は日本との関係では親日的で、機会あるごとにコートジボワールの国家建設の模範として日本を挙げていたとも言われている。
 こうした硬軟とりまぜた政治に1970年代の経済成長が重なり、コートジボワールは西アフリカ随一の経済を築く。経済発展に伴う一手不足を補うために周辺諸国の出稼ぎ労働者の入国を許し、更には居住権や選挙権まで認めた結果、60以上の民族を束ねたコートジボワールは脱植民地後のモデル、西アフリカ地方の旗手とさえ言われた(しかし、この外国人労働者の導入が、後の政治的対立の火種となる)。外交的には親西側路線をとり、1980年代には経済の停滞で学生による民主化運動や政権幹部による反政府活動も発生したが、ウーフエ=ボワニ体制の下で政治情勢は総じて安定的に推移した。1989年には主力商品のカカオの国際価格が大幅に下落し、経済に大打撃を与えたが、政治体制が揺らぐことはなかった。1990年10月、初の複数候補を認める大統領選挙が行われたものの、現職ウーフエ=ボワニ大統領が80%以上の得票を得て7選し、同年11月の初の複数政党制による総選挙でも与党・コートジボワール民主党が圧勝している。

2、ウフエ=ボワニ体制の終焉とバクボの登場
 ところが、1993年12月、建国以来33年間政権の座にあったウーフエ=ボワニ大統領が病死(葬儀に、日本からは高円宮同妃両殿下が出席された)して後、事態は流動化をはじめた。アンリ・コナン・ベディエ(Henri Konan Bedie)国民議会議長が大統領に就任し、1995年10月の大統領選挙で再選を果たした(任期5年)ものの、1999年12月24日、FANCI(Forces Armees Nationlaes de Cote d'Ivoiriennes、コートジボワール国軍)ロベール・ゲイ(Robert Guei)元参謀長がクーデターを起こし、軍事政権「国家国民救済委員会」を樹立。2000年1月にはゲイ元参謀長自身が大統領に就任し暫定政権が発足した。このとき、イボワール人民戦線(Front populaire ivoirien、FPI)党首のローラン・バクボ(Laurent Gbagbo(現大統領)と、共和主義者連合(Rassemblement des republicains、RDR)党首のアラサン・ドラマン・ウアタラ(Alassane Dramane Ouattaraは、民政移管後の政権獲得を狙う立場から、この軍事クーデターを承認している。
 その後、10月に民政移管に伴う正式な大統領選挙が行われた。しかし、それに先立って2000年7月23日に国民投票で制定された新憲法により、大統領選挙には2代遡ってイボワール国籍を持つイボワール人にのみ出馬できるとの規定が設けられたため(この規定は、投票権を持つ外国人の存在を疎ましく思っていたバクボの賛同を得ていた)、ウアタラをはじめとする野党の有力候補はのきなみ立候補できなくなった(ウアタラ自身は、29日に立候補を宣言)。それでも中間発表ではゲイ大統領不利が伝えられていたが、10月22日、軍事政権当局は開票作業を中止させ、ゲイ大統領が「当選」したと発表した。しかし、バクボは、反対する市民や一部兵士(ウアタラ派の国家憲兵)に抗議行動を起こさせ、ゲイ大統領は亡命を余儀なくされた。結局、選挙管理委員会(CNE)が、得票数を、バクボ候補59.4%、ゲイ前大統領32.7%、フランシス・ウォディ(Francis WODIE)候補5.7%、その他2.2%、投票率37%と発表し、イボワール人民戦線のバクボの当選を発表、ウアタラを差し置いてバクボが大統領に就任した(10月26日)。
 これに対し、ウアタラら野党陣営は、事実上ゲイとバクボしか立候補できなかったこの選挙そのものが不当だとして抗議を続けていたが、バクボ大統領は12月4日、国家緊急事態を布告して夜間外出禁止令を発令。野党・市民の行動を抑え、12月10日に行われた国民議会(225議席、任期5年)の総選挙では、大統領与党・イボワール人民戦線(FPI)が91議席を獲得して第一党となった。ウーフエ=ボワニ政権の与党・コートジボワール民主党(PDCI)は70議席)を獲得したが、ウアタラ率いる共和主義者連合(RDR)は選挙自体をボイコットした(2001年1月に行われた補欠選挙の結果は、イボワール人民戦線96議席、コートジボワール民主党94議席、共和主義者連合5議席、イボワール労働者党4議席、その他2議席、無所属22議席、欠員2議席であった)。
 結局、2001年9月10日、全ての政党代表が参加した和解会議が開催され、12月18日、ウアタラをイボワール人と認定するかわりに2001年の大統領選挙を正統と認めるとの取引が成立して、バクボ大統領はひとまず政権の座を確保した。2002年8月5日には、合意に基づいて、ウアタラ率いる共和主義者連合(RDR)を含む全ての政党勢力(その他の主要政党として、イボワール労働者党(PIT=Parti Ivoirien des Travailleurs)がある)が参加する内閣が組織された。

3、「愛国運動」の反乱と南北分裂
 こうして、1999年の軍事クーデター以来、コートジボワールの政情は一旦は安定したかに見えたが、これも長くは続かなかった。
 2002年9月19日、イブラヒム・クーリバリー(Ibrahim Coulibaly)軍曹長ら国軍兵士による「コートジボワール愛国運動」Mouvement patriotique de Cote d'Ivoire、MPCI)が武装蜂起。最大都市アビジャンでクーデターを起こして失敗したが(この時点では、コートジボワール駐留仏軍(第43海兵隊歩兵大隊など)は介入せず)、その後は内陸部で支配地域を広げ、北部の要衝ブアケ(Bouake、人口約46万人)、コルホゴ(Korhogo、人口約10万人)を占領。国土は一気に内戦状態となった。北部に住むコートジボワール国民の多くは、かつてウフエ=ボワニ政権時代、不足した労働力を補う外国人労働者としてマリやブルキナ・ファソから来た人々であったが、ゲイ元大統領が制定した新憲法により、自分たちを代表する者をヤムスクロに送り出すことができず、これが不満に繋がったという。実際、コートジボワール愛国運動に参加した一部のイボワール国軍は、ブルキナファソ(Burkina Faso)領内に拠点を設け、そこで反乱の準備をしていた(他方、不思議なことに、愛国運動幹部の多くはかつてゲイ大統領やバクボ現大統領、更にはウアタラの共和主義者連合(RDR)に近い立場に居た人々も含まれているという)。愛国運動軍は相当程度充実した武器を装備しているが、これらの武器の供給源は今もって謎とされており、ブルキナファソ軍が密かに支援しているとの説もある。
 これを受けて、旧宗主国フランスは、第43海兵隊歩兵大隊(BIMA)等の駐留仏軍を使って在留外国人の撤退を支援する「ユニコーン作戦」(operation Licornを発動(9月22日には最初の増援部隊が入国した)。また、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS、仏語ではCEDEAO)も、9月29日、ナイジェリア軍等を主体とするECOWAS軍を派遣。2003年2月4日の国連安保理決議第1464号で、これらの仏軍・ECOWAS軍部隊は国連平和維持軍となった。ちなみに、コートジボワール国軍(FANCI)の兵力(2003年)は、陸軍6500人、海軍900人、空軍700人、大統領警備隊1350人、憲兵団7600人の合計1万7050人である。
 他方、同年10月28日には、別の反政府組織「西部イボワール人民運動」(Mouvement populaire ivoirien du grand ouest、MPIGO「正義と平和のための運動」(Mouvement pour la justice et de la paix、MJPが中西部マン(Man)とダナネ(Danane)の占領を発表。ユニコーン作戦のために駐留する仏軍部隊と交戦し、数十人の死者を出した。政府(バクボ政権)は、一連の反乱の鎮圧を試みたものの、軍事的に勝利が収められないと悟るや、一転して和平交渉を応諾。10月17日、ブアケでの戦闘を経て、政府軍と愛国運動軍との間に停戦協定が結ばれ、30日からは政府とイボワール愛国運動との政治交渉がはじまった。その後、12月から場所をフランス・パリ南郊リナ=マルクシ(Linas-Marcoussis)に移し(マルクシ和平会議)、フランスの仲介の下で和平交渉が続けられた。
 2003年1月24日、リナ=マルコシスでマルクシ和平協定(Linas-Marcoussis Peace Accordが締結され、内戦の停止と和解が実現した。協定では、現大統領であるバグボの大統領続投が認められた一方、反政府勢力(野党)からの閣僚も含めた挙国一致(国民和解)内閣を組織すること、次の大統領選挙までに憲法(特に大統領選挙への立候補資格をイボワール人に厳しく制限した条項)の改正を行うこと、国軍を再編成すること、大量殺戮を行った容疑者を国際刑事裁判所に訴追すること等が決められた。
 協定調印直後の2月、アビジャンで協定に反対する反仏デモが行われ、協定実施が早くも危ぶまれた。事態を重く見た国連安全保障理事会は、決議第1464号を採択して駐留仏軍とECOWAS軍を国連平和維持軍に認定(国連コートジボワール派遣団、MINUCIMission des Nations Unies en Cote d'Ivoire)。フランス自身も、ユニコーン作戦強化のために兵力を3000人にまで増強した。さすがに事態沈静化の必要性を感じた与野党は、3月8日、ガーナ(Ghana)の首都アクラ(Accra)に集まり、マルクシ協定に基づいて野党の入閣を実施することを決また。これを受けてバクボ大統領は、野党よりのセイドゥ・ディアラ(Seydou Diarra)氏を首相に任命したり、野党出身者を主要閣僚に任命する等して一旦は和平実現の姿勢を示したものの、その後の和平プロセスを実行に移さず、また反政府勢力が支配する北部地方の軍事的解放もまだあきらめてはいなかった。

4、政府軍のブワケ空爆とフランスの対抗措置
 バクボ大統領の和平に対する不明確な対応は、野党側の強い反発を招いた。業を煮やした野党側は、41人の閣僚中野党出身者等26人が辞職。マルコシス和平協定は風前の灯となった。
 2004年4月、国連コートジボワール派遣団(MINUCI)は国連コートジボワール活動(UNOCI=United Nations Operation in Cote d'Ivoire。仏語ではONUCI=Operation des Nations Unies en Cote d’Ivoire)に改組され、国連安保理によって軍事要員6240名(軍事監視員、文民警察官、その他の文民要員を含む)の派遣が認められた(2004年10月現在の実員は軍人5834人、軍事監視要員168人、文民警察官216人、国際文民要員226人、現地文民要員155人)。
 緊張が高まる中、2004年11月46日、バクボ大統領が支配するコートジボワール空軍機が反政府勢力「新軍」Forces Nouvelles。コートジボワール愛国戦線等の反政府勢力の総称)の主要都市ブアケを3度にわたり爆撃。続いて6日午後、空軍の(ロシア製スホーイ25戦闘機)2機がブアケとコルホゴに駐留するフランス軍を空爆、フランス兵9人、アメリカ人民間人1人の10人が死亡した。

コートジボワール情勢(2004年11月15日現在)
北側(赤色)が反政府勢力「新軍」(Forces Nouvelles)の支配地域、南側が政府支配地域、緑色が国連による中立地帯。三色旗は「ユニコーン作戦」のため展開中のフランス軍、国連旗は国連平和維持軍として展開中のECOWAS軍。

コートジボワールの現況(2004年11月15日現在)

 これを受けてジャック・シラク(Jaques Chirac仏大統領はただちに反撃を命令し、コートジボワール空軍の主力作戦機7機を全て破壊するとともに、駐留仏軍の増強を指示した。合計6000人がコートジボワール国内に勢ぞろいした。フランス軍にとっては、1991年の湾岸戦争以来の大規模な海外派兵となった。仏軍の反撃後、ヤムスクロやアビジャンでは反仏デモが発生し、外国人(特に白人)が襲われたりフランス人商店が略奪されたりしたため、フランス人の大規模な脱出がはじまり、最終的にはこの危機で8000人が脱出した。
 だが、バクボ大統領側も、一歩も引いていない。事件後、公式には、バクボは「攻撃を命令したのは自分ではない」「偶発的な事件だ」と釈明(実際は、空爆は事前に綿密に計画されていた)。バクボはまた、事件後アメリカに特使を派遣し、「駐留仏軍を撤退させ、代わりに米軍に介入してほしい」とのメッセージを伝えさせ、イラク戦争以来ギクシャクしている米仏関係の間隙を突く巧妙さを発揮している(そのせいではないが、国連安保理では、フランス他6カ国提案のコートジボワール制裁決議案の採択が、ムベキ南アフリカ大統領らの仲介工作を見守るために延期されている)。他方で、事件後、バクボ大統領は強硬派として知られるフィリップ・マングー(Philippe Mangou)大佐を国軍総司令官に任命(11月14日)。体制側の引き締めを図っている。

菊地 光(きくち・ひかる) 本会会長

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