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援助交際を考える
〜やはり少女売春は規制されるべきだ〜

中島 健

■1、はじめに
 女子高生、女子中学生たちによる援助交際が社会問題化して久しい。既に、街角には「アムラー」と呼ばれる(及びそれを継承した)享楽的な格好の女子生徒が闊歩し、低俗な雑誌には少女売春についての記事が氾濫している。彼女らの行動は極めて幼稚かつ刹那的であり、今現在この瞬間の物欲を満たすために行動していて、そこには十代後半の女性としての人生観や将来像といった若者らしさが、決定的に欠如している。更に悪いことに、最近では援助交際を「必ずしも悪いことではない」とする論調が、こともあろうに女権主義者(フェミニスト)の中からさえ発生してきている。例えば、女権主義者の上野千鶴子氏は、あれだけ所謂「従軍慰安婦」問題に関する慰安婦否定派を徹底的に批判しておきながら、現代の売春についてはこれを肯定し、売春婦を「セックスワーカー」という今時の意味不明のカタカナ語になおして、売春婦への蔑視を軽減しようとしている。同じく、社会学者の宮台真司氏は、売春や低年齢の性を「悪くない」と主張し、個人の自己決定権の拡張を訴えている。平素は、我が国の戦前(正確には戦後まで続いたが)における公娼制度の存在を、日本社会の女性蔑視、社会的差別構造の典型的な例だと論う人々の中に、逆に公娼制度を復活させよう等と考えている者が混じっているのは甚だ滑稽なことだが、いずれにせよこれらの主張は、到底私の納得できるものではない。以下に、「論座」98年4月号に掲載された宮台真司氏の論文「援助交際問題から何を学ぶか」への反論を中心として、援助交際問題について考えて行きたいと思う。

■2、自己決定権は無限ではない
  宮台真司氏は、人間の自己決定権を(国家からの)「消極的な自由」であるとし、「積極的な自由」たる自己決定能力と区別した上で、自己決定権は自己決定能力の前提条件であって、自己決定能力の無さを理由に自己決定権を制限するのは、両者に対する誤解であると言う。そして、近代憲法は消極的自由の保障に重点を置くのであり、それに依拠して積極的自由の増進をはかる政治部門は、消極的自由=自己決定権を侵害してはならないのである、とする。
だが、このような論議が破綻しているのは既に明らかである。例えば、刑法の定める犯罪構成要件の中には、所謂「被害者の無い犯罪」というものがあり、公然猥褻罪や賭博行為、薬物の使用の罪等はこれにあたる。確かに、刑法を「被害者の法益保護のためにある」と規定すれば、被害者無き犯罪は非犯罪化されるべきことになるだろう。しかしながら、法益とは何も個人のみに発生するものではなく、社会的、抽象的な法益というのも存在している。例えば、通貨や有価証券の偽造が犯罪となるのは、それを許せば通貨の社会的信用秩序という、抽象的ではあるが保護に値する社会的法益が侵害されるからである。同じように、刑法は「被害者の無い犯罪」を、その反倫理性、反道徳性故に処罰しているのではなく、社会の健全な精神的・文化的環境を維持する、という社会的法益を保護するために処罰しているのである。また、禁止規定の中には、それを法的に禁じることで、誘惑に弱い人間が自己の健全性を維持するという効果を持つものもある。例えば、麻薬の処罰規定は、単に社会の麻薬中毒化による混乱を避けることができるのみならず、それだけで麻薬常習者への抑止力となり得る。いずれにせよ、自己決定権といえども権利の一種である以上、濫用は禁止されているのであり、またそれを社会福祉上、法秩序の合理的な範囲で制限することは何等憲法に抵触しないのであって、ましてや宮台氏が言うように、政治部門が着手してはならないことではないのである。

■3、宮台氏の歪んだ共同体観
  また、宮台氏は、自己決定能力と自己決定権について、それらを「尊厳」と「自由」という形で論じてき近代欧州哲学を援用して解説しているが、その中で、ドイツ国家学的な立場である「尊厳とは理想的共同体への統合から得られる自尊心である」という説を既に歴史的に退潮したものであるとし、英国自由主義的な立場である「尊厳とは自己表出の成功による自尊心である」という定義をとるべきである、と言う。そして、自分自身は後者の説を採用すると宣言した上で、その尊厳保護のための法制措置は認めるものの、それがもたらす自己決定権の制限という矛盾に敏感であるべきである、とする。更に彼は、青少年への保護規制については、社会的法益保護のためには行うべきではないとする。社会的法益保護の立場は、個人の尊厳をドイツ国家学的な「理想の共同体」に接近するものだと彼は考えるからである。「共同体の理想」を「枢軸国的伝統」と表現して読者に負の直感を与えるのは如何にも宮台氏らしいが、はたして社会的な法益保護は、個人主義を基調とする現代立憲体制下で不可とされるべきものなのであろうか。いや、そもそも「共同体の理想」と「個性」とは、本当に相反する概念なのであろうか。私には、宮台氏が前者の共同体志向と後者の個人志向を意図的に先鋭化させて、二者択一を迫っているようにしか思えないのである。
社会的法益保護とは一体何のためになされているのか。端的にいえば、それは我々が構成する社会共同体の秩序維持のためである。それは単に社会の利益となるだけでなく、最終的には共同体の構成員である個人の利益にも還元される性質のものである。個人は、(広い意味での)社会共同体の中ではじめて個性を伸長できるのであって、共同体内部の秩序維持に無関心でいることは許されない。人間は一人では生きては行けない以上、共同体から完全に無関係ではいられないし、また逆に個人は共同体を欲している。換言すれば、個人と共同体は対立する構造をとるものではなく、究極的には個人のために共同体が存在するのである。例えば、宮台氏のこれ迄生存してきた近代立憲体制も、個人を尊重するという目的の下に国家の規範たる憲法を制定し、国民の権利と統治機構、つまり共同体の樹立を規定するのであって、決して共同体のために国民を定義した訳ではないのである。共同体が個人と相反するものではないことが明確であれば、社会的法益保護が個人的法益保護と矛盾しないこともまた自明である。つまり、社会的法益保護は結果として個人的法益の保護につながるのであり、最終的には自己表出の成功による自尊心を制度的に保障するものなのであって、決して理想の共同体の追求が個人の抑圧を生むわけではないのである。従って、私が個人の尊厳を定義するとすれば、それは「理想の共同体がもたらす自己表出の成功からくる自尊心」となるであろう。
翻って宮台氏は、一見個人の法益保護のための法規制に賛成する立場をとっているように見えるが、「公序良俗」や売春防止法を「敵側としての共同体のためのもの」と断定して反対することで、結果として個人の法益保護にすら無頓着な態度をとっているのである。第一、そもそも「法」とは社会共同体を維持していく規範のことだが、他人を社会共同体の秩序維持のために縛るその「法」よって、個人の法益を保護しようというのは自己矛盾ではないだろうか。他者がいるから規範がいるのであり、他者に効力を及ぼすから規範なのであって、純粋に個人のための「法」など有り得ず、「法」は常に個人を最終目標とする共同体との関連を断ち切れないのである。
  確かに宮台氏の指摘する通り、ドイツ国家学的立場の本来の意味は、単一の価値しか認めない偏狭な全体主義的発想に近く、個人の価値のための共同体を追求しているものではないだろう。しかし、だからといって、それを根拠に現代日本国憲法下の我が国に於いて、社会的法益保護のための立法を否定するのは明らかに論理が飛躍している。「枢軸国的伝統」という表現の裏側には、国家社会主義や全体主義の文脈で満ち溢れているが、彼がナチス・ドイツの極端な感覚によって共同体説を否定しようとするのなら、それは特殊事例を一般化して説明するの愚を犯していることになる。各々の制度主張を、その時代背景を考慮せぬまま直結してみせて、現憲法下においてなお、合理的な社会的法益保護すら全体主義につながるものであるかの如く記すのは、あまりにも扇動的ではないだろうか。

■4、社会的法益を認定するもの
  では、保護されるべき社会的法益はどのような基準で選定されるのか。それを端的に表現したのが「公序良俗」の4文字であり、更に短縮すれば「伝統」や「倫理」や「道徳」といったものである。元来、伝統的規範には無意味でないものが少なくない。その最大のものが「人を殺すな」というものであり、より広汎な意味を持つものとしては「暴力を忌み嫌う」というものがある。
 何故、人間は戦争より平和を好むのか。あるいは、何故暴力を忌み嫌うのか。私は、その答えを、「人間の無限の欲求と傲慢さ」ということに求める。人間は、誰でも欲求を持っており、それに従って人生を歩んでゆく。それも、子供時代には安全だとか物質といったものを欲求対象にもっていたのが、次第に名誉とか自己実現といったかたちをとるようになり、要求範囲も膨大なものになってくる。これは、人間の一つの性質であり、誰しも否定することはできない。事実、このような意欲、欲求こそが、古代文明の出現以来我々の生活を改善し、科学技術を発達させてきたのであり、現代人はその利益の最大の享受者である。
 だが、人間の欲求は、限度を知らない。それが為に、欲求にのみとらわれる人間は傲慢となり、本来自己の生存には無視できないはずの他者をも、競争相手として敵対関係に転化させ、遂には暴力によって相手を屈伏させる弱肉強食の世界となる。しかし、恐怖と暴力とによって共同体を支配するよりも、個性の尊重と自由によって共同体を維持したほうが、結果としてより多数の欲求を解放することになり、集団としてはより豊かになっていく。第2次世界大戦の前後や、東西冷戦を指摘する迄もなく、これは既に歴史が証明していることである。換言すれば、個人の欲求は、他者の欲求の自由な発露を阻害してまで追求することは許されず、その限度を提示するのが人間社会に伝わっている伝統や公序良俗の観念なのである。暴力を忌み嫌う人間の性格は、人類誕生以来の長い間の慣習によって維持されてきたものであり、かつ、ごく少数の例外を除けば、各時代、各世代によって何度も承認されてきたことであって、何人もこれを否定できない。勿論伝統や公序良俗の概念は、時代や地域によって若干異なる。例えば、イスラム世界において飲酒が禁止されている理由の一つは、アラブ世界の長期的、人間的な経験から、アラブでは飲酒という行為が暴力と同様、社会秩序の維持に好ましくないものとされてきたからである。したがって、そういう伝統の無かったアメリカで禁酒法を制定してみても、何等定着はしないのである。

■5、売春は否定されている
  では売春はどうか。確かに、一部の学者は、日本人が性について抑制的になったのは明治維新以後であり、それ以前は比較的奔放だったと指摘している。しかし、封建社会の下で基本的人権という概念の無い時代において、果して真の意味で女性は性について奔放、つまり両性の対等の自由意志の下で性行為が開放されていたのだろうか。むしろ「奔放」の実態とは、生活苦のためにやむなく売春が行われ、それが一般化していたに過ぎないのではないだろうか。いずれにせよ、近代社会以前の時代でも、売春という行為が否定的な扱いを受けていたのは明らかであろう。ましてや近代以後において、売春業は最も蔑視された職業であったことは間違いない。公娼制度の導入も、国家が売春を管理することによって必要最小限度の社会秩序維持、つまり公娼世界以外においては(理念として)売春を全否定する体制を目指したものだったと理解すべきであろう。
  売春が否定的感情で受け止められていた背景には、様々な理由が考えられるが、恐らく性交行為の特殊性が考慮された結果であろう。本来、性交は人間が生物として子孫を残すために行うものである。その意味で、性交時の快感も、子孫を残さなくてはならない生物の本質を「推奨」するためにあるのだろう、と推測できる。もし性交が苦痛だったならば、誰もが性交を止めてしまい、その生物は滅びてしまうからである。また、男性の方が女性よりも性欲が強烈なのも、弱肉強食の動物世界の名残であろう。換言すれば、性感とは本来生物的機能の為にあるのであり、それは決して人間のために神様が与えてくれた娯楽などではない。それを、快楽と金銭の為に売買すれば、生殖機能に障害をもたらし、結果として人間社会維持に害を及ぼす可能性があることを、我々の祖先は経験的に知っていたのである。その意味で、売春の本質は人体実験や人身売買に近いといえるだろう。
にもかかわらず今、宮台氏ら売春肯定派は、人類の歴史の重みを無視しようとしている。例えば、前述の上野千鶴子氏は、売春婦をセックスワーカーと呼称することで、我々人類が持っている売春に対する否定的感情を払拭し、売春行為への侮蔑を「差別だ」と糾弾。売春婦の人権回復を訴えることで、伝統的な規範の改変を目論んでいるのである。勿論、人間は無謬な存在ではない以上、時として伝統的な慣習も修正される必要が出てくる。しかしながら、それには人類の長い伝統を覆い隠すだけの社会的な、大規模な合意と、慎重にも慎重を期した長い期間に渡る論議が必要である。決して、上野氏の一言で可能となるような代物ではない。上野氏はつまり、殺人者が社会的に非難されている状況に対して、これを差別である、人権侵害であると主張して、殺人は必ずしも否定的感情を生むべきものではない、と主張しているのと同じくらいの困難性を伴うものだからである。

■6、無責任な援助交際肯定派
  以上は援助交際及び売春肯定派に対する批判であったが、援助交際を否定すべき理由はこの他にも枚挙に暇が無い。まず、援助交際は、その実態がれっきとした少女売春であるにも関わらず、「援助交際」なる肯定的価値観を含んだ用語によって、禁断の一線を越え易いように「配慮」されている。一体誰が援助交際という都合のよい名称を考案したのだろうか。援助とは、恵まれない者を助けることであり、交際とはつきあうことである。強いて挙げれば、海外青年協力隊員が発展途上国の農村で友人を作ることぐらいが、援助交際という名前に値するだろう。いずれにせよ、実態に即していない名称であることは間違いない。上野氏や宮台氏といった進歩的な思考の持ち主で、例えば所謂「従軍慰安婦」問題について、慰安婦らを「従軍慰安婦」とは言わずに「軍用性奴隷」と呼ぼうとするその心意気が、何故に自国の少女達に適用されないのか、疑問に苦しむところである。いくら宮台氏が「売春は悪くない」と言おうとも、現在のところ社会における売春婦の地位は相当低いのは事実であって、「援助交際」という名称に騙され、売春の道に身を投じて人生を台無しにしてしまった少女に対して、宮台氏らの態度はあまりにも無責任に過ぎる、と言えるだろう。
  また、宮台氏は常々「売春は悪くない」と主張しているが、その最大の理由を彼は「家父長制的二重規範」に求める。つまり、彼は、男性の半数が買春経験があるにも関わらず、男性の側がそれを不問にして、ただ売春防止法によって売春婦への偏見や処罰を行うのは、両性の平等を規定した憲法に違反している、と説き、更に現在では実際の性行為を遂げられない男性が多く、売春婦側は売り手市場であって、決して売る女=弱者ではなくなっている、と主張するのである。確かに、買春側の男性の責任を追及しないまま、売春婦を責めることは出来ないだろう。買春側の責任に関しては、売春否定側の考えは既に明確であり、誰も男だけを免責にしろ等とは主張していない。例えば賄賂の罪も、贈賄側と収賄側、双方処罰の対象になっているのと同じ事である。
  しかし、だからといって売春婦側を免責としていい理由はどこにも無いのではないだろうか。たとえて言うなら、いくらアメリカ合衆国がかつてインディアンの居住地であった北米大陸を侵略して成立し、ハワイやフィリピンを支配しつつもなおそれらに関する道義的責任が明確にされていないからといって、我が国の台湾・朝鮮の植民地支配の歴史に対する道義的責任(法的責任ではないことに注意)が免責されるのではないのと同じである。こういった植民地支配の問題については、上野氏らはむしろ我が国の道義的責任を追及する論陣を常日頃から張っているのだが、それが何故売春に関して適用されないのか、苦しむところである。良妻賢母主義への批判にしても同様であり、売春肯定派からすれば良妻賢母主義は売春肯定を阻害する要因なのかもしれないが、否定派としてはまさに売春肯定主義の対局に位置しているものと言ってよく、何等問題とする必要の無いことである。少なくとも、売春婦であることよりも、良妻賢母であることのほうが、余程女性の地位向上に役立つことだろう。(なお、良妻賢母主義は本来の意味に於いては、たしかに女性の役割を規定してしまうことになるのかもしれないが、しかし女性は良き妻であり良き母親であるべきだ、という思考は夫婦共働き家庭でも適用できる原則である。)宮台氏らが本当に男女の公平や女性の地位向上を考えるなら、売春側・買春側双方の処罰や、良妻賢母主義への攻撃中止こそ、本来あるべき売春防止法の姿なのではないだろうか。

■7、ラベリングに勤しむ宮台氏
  更に、現在「援助交際」という言葉には必ず「女子高生」という言葉が一組になって使用されている。これは、多分に報道機関、特に低俗な週刊雑誌の興味本位的な扇動記事によるところが大きいのだが、逆に「女子高生」という単語から「援助交際」を連想させる程、社会によるラベリング(レッテル貼り)が進行し、両者の結びつきは固定化してしまっている。従って、仮に宮台氏の言うように今後援助交際を合法化すれば、女子高生は否応なしに買春する男達の「草狩り場」と化してしまうであろうことは想像に難くない。このような事態は「普通の女子高生」、つまり当然として貞淑を守っている普通の女性にとっては、全く迷惑な話ではないだろうか。殊に、情報化社会と呼ばれて久しい現在の我が国の社会において、女子高生売春を解禁してしまえば、望むと望まないとに関わらず、全ての女子高生が忌むべき売春文化に強制的に編入されてしまうことになるだろう。その社会的ラベリングの先頭を、得意げに前進しているのが宮台氏なのだが、果して宮台氏にそのような権利があるのだろうか。
  むしろ、宮台氏の意見を読んでいくと、そこには男性は誰でも必ずや「買春夫」となり、女性は誰でも必ずや「売春婦」となるかのように考えているように感じるが、そのような傲慢で誤謬に満ちた考えこそ、貞淑を維持しようとしている女性・男性に対する冒涜である。個人的なことで恐縮だが、例えば私個人としては、性行為はあくまで恋愛の対象者との、愛情の高揚があったときに行われるものだ、と考えており、無闇に水商売の女性の相手などして、売春婦とその胴元に自分の金をふんだくられたい等とは思わない。むしろ、私としては、金を支払って「性交させて頂く」のは私ではなく風俗嬢の方であり、そう簡単に「やらせてあげないヨ」という立場ですらある。これは特殊事例に過ぎないとしても、少なくとも一般的に男性は売春をしたがるものであり、女性は売春をされたがらないものである、(乃至は、「人間は一般的に性を商品化したがる」)という決め付けで話をすすめる宮台氏には、私のような人間は同性としても不信感を抱かざるを得ない。換言すれば、私には、一見女性の立場を擁護している彼自身が、実は男女の性格という固定観念を拡大再生産させ、憲法の規定する両性の平等どころか、決定的なレッテル貼りを実行しているように思えてならないのである。もっとも、繰り返すようだが、宮台氏ら進歩的思考の持ち主が、冷戦時代あれ程社会主義を擁護していたにも関わらず、「性の商品化」という資本主義の害悪を今更支持していること自体、滑稽ではある。

■8、おわりに:やはり少女売春は禁止されるべきだ
  以上、様々な分野から売春と援助交際について考察してきた。しかし、私はたとえどのような論拠によろうとも、やはり売春は禁止されるべきであるとの結論にたどり着く。売春の公認は、貞淑な男女、真面目な高校生に対する侮辱以外の何物でもなく、歴史的教訓は我々に売春の「悪さ」を何度も教示しているのである。今こそ、我が国の性道徳を正常化させ、性行為に伴う責任ということについて、改めて考察してみる必要があるのではなだろうか。売春防止法への買春防止規定の盛り込みは勿論、将来的には両性について姦通罪を復活させ、男女を問わず不倫を為した者には(妻もしくは夫が従容した場合を除いて)刑事罰を与えるべきではないだろうか。そして、無論少女売春としての援助交際も、法律によって禁止されるべきであろう。
かつて、「不倫は文化だ」等とブチ上げた俳優がいたらしいが、このような人物の乱れた感覚の拡大再生産こそ、親の子女教育義務の放棄(憲法で規定されいるにも関わらず)や家族共同体の破壊をもたらし、社会を混乱させるものであり、究極的には日本の文化や伝統そのものを破壊する要因となるであろう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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