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「官民論争」の愚かしさ
〜ワイドショー的扇動からは何も生産されない〜

中島 健

 ここのところ、中央省庁(厚生省、大蔵省、日本銀行等)の不祥事が大々的に報道されている。また、行政改革や経済問題の議論も盛んであるが、これらの議論の中で、必ずといっていいほど出てくるのが、「行政が悪い」「官僚が悪い」といった「官僚批判」、あるいは、「官から民へ」「官僚主導から市民主導へ」といった「官民論争」である。中には、「官僚に任せているから失敗する。市場原理に任せて効性を上げるべきだ」と言わんばかりの「官僚悪玉論」「市場原理至上主義」の議論も聞かれる。
 しかし、こうした「官僚批判」「官民論争」は、よくよく聞いてみても、結局のところあまり具体的な根拠や理由づけがなく、ただただイメージだけでなく語られていることが少なくない。即ち、その内容は常に行政批判、政権批判、そしてときには東大法学部卒批判であり、識者といわれる人々は「今こそ官から民へ」「官僚政治から市民政治へ」という題目を挙って唱和している。確かに、バブル経済崩壊後の我が国において、政治、経済、社会の様々な局面で改革やリストラクチャリングが行われている中で、行政についても従来のあり方に見直しが求められているのは理解できる。しかし、最近の官僚批判は、もっぱら官僚の不祥事を奇貨としたあてこすりか、感情的な非難であり、ワイドショーにおける芸能情報とそう違わないものである。このような批判の拡大再生産が、果して我が国の官僚制度、更には行政機構の正しき将来像を提示するのであろうか。

▲特定の社会福祉法人との癒着が指摘され事務次官が逮捕された厚生省

 霞ヶ関の事情に少しでも知識がある人であれば知っていることであるが(筆者は、複数の知人からこれを聞いた)、我が国の中央省庁で働く公務員の労働環境は、決して恵まれたものとは言えないという。まず、彼らには原則として労働基準法が適用されず、労働三権も認められず、労働時間は極めて長い。残業手当てはあくまで予算の範囲内でしか支払われない。行政需要の拡大もあって、それぞれの担当官が抱える仕事は膨大にあるが、それに対して人員の方は、行革論議で公務員削減が叫ばれている状態である。結果、特に若い官僚達は、労働基準法を完璧に無視し切った、一日12時間を越える労働に従事している(市役所の窓口の役人の勤務態度を見て、公務員が皆怠惰な生活を送っていると考えてはならない)。通商産業省が「通常残業省」と呼ばれ、徹夜で残業を続ける職員が多い大蔵省が「ホテル大蔵」と呼ばれ、労働基準法を所管する労働省の職員自身が労働基準法を守っていないのは、霞ヶ関では有名な笑い話である。平日に余暇の時間は皆無で、終電で帰宅できれば御の字(終電を逃した場合は、タクシーで帰宅する)・・・。それでいて、勤労の対価としての給料(俸給)は、決して高くない。最近あったように、昇給を求める人事院の勧告すら守られていない(これでは、何のための人事院なのだろうかわからなくなる)。予算案作成や国会審議の際にはサービス残業のオンパレード。育児休暇も、何もあったものではない。その上、東京大学法学部卒・国家公務員試験合格という、少なくとも平均以上の勉学に励んで勝ち取ったであろう頭脳の代償にしては、給料は不当に安く、住まいは事務次官であろうとも(遺産が無ければ)貧弱な公務員宿舎である(ちなみに、誤解を招かぬようにここで明かすと、筆者は「平均的な勉学」しかしなかったためか?、東大生ではない)。かの岡光序治元厚生事務次官が、受け取った賄賂を自宅購入資金にあて、たかだか国産中型車を、賄賂性を承知で借りていたのも、霞ヶ関では「無理も無い」と思われているのかもしれない。更に、接待や歳暮は原則禁止だから(良識のある官僚は、年賀状はともかく、歳暮等はよほど親交のある人で、しかも所掌する事務と無関連のものに限っている)、民間人のように接待や歳暮といった楽しみも無い。そのうえ今、生涯所得の格差を是正する最後のチャンスである天下りを禁止された日には、はたして日本の国政は機能しているのだろうか心配である。優秀な人物が事実上の「サボタージュ」に入るか、さもなければさほど優秀ではない人物によって霞ヶ関が占領されることになるだろう。これは見物だろう。一層の「手抜き行政」が行われ、国会議員の質問にもなかなか答えず、予算案作成期でもキッチリ5時に退庁、自宅では一切仕事の事をせず、1週間40時間以上は絶対に働こうとしなくなれば(しかも手強いことに、これらの行為は労働争議でも何でもなく、ただただ労働基準法を遵守しているだけなのだ!)、国家機能停止は眼にみえている。危機管理など夢のまた夢であろう。
 何が彼らを駆り立てているのか。私は、それを「選良意識」に求める。そう、官僚世界では、一般人よりも激しく仕事をすることこそ、選良の基準となっているのである。大袈裟に言えば、「滅私奉公の精神」である。しかし、この一見使用者たる国民にとってはありがたいこの過剰労働意識こそ、知らず知らずの内に官僚らに選良意識の裏返し、つまり「自分は求められた以上のことをこなしているのだから、相応の待遇を受ける資格があるのだ」という意識を生み出す。そして、その意識を満足させるだけの給与が無いことに気づいた時、官僚は汚職街道への道を歩みはじめるのである。

▲金融業界との癒着が問題視された大蔵省

 最近、とみに官僚の不祥事が注目されている。しかし、その代表的な標語が「ノーパンしゃぶしゃぶ」であってみれば、その「注目」の度合いも知れたものである。「官僚=悪」という議論は、しばしば「民間=市場原理=善」という概念と対となっているが、贈収賄事件では1人の官僚とセットで1人の民間人が関連しているのであり、「民の側は潔白」「官僚は悪、民間は善」等という図式は破綻しているのである。最近の金融不祥事や大企業の総会屋への利益提供事件、バブル時代の乱脈融資・乱脈経営等を想起すれば、日本で腐敗しているのは決して「官」だけとは言い切れないのである。「行政運営の効率を上げる」のはよいとしても、本来、行政の機能は経済活動とは異なるのだから、そこへ無理に市場原理を持ち込めば却って問題を大きくする可能性もある。バブル期に民間企業が景気の上昇(言い換えればインフレ)でわが世を謳歌していたころ、ただでさえ安月給でなかなか昇給しない官僚達は、生活苦とは言えないまでもかなりイヤな思いをしたそうである。それが今、世間が不景気となったとたん、今度は一見雇用も万全で給与水準も下がらない官僚が、批判の対象となっているのである。不満を募らせている官僚も多かろう。第一、官僚の給与を民間所得の平均と調整させていること自体、不利益なことである。
 天下りを廃止するなら、公務員の給与を、職責に見合った水準に引き上げるべきであり、そうしないのなら、天下りは廃止してはならない。第一、仕事量や能力に見合った給与を支給しないで、あれこれいうのはあまりにも身勝手ではないか。確かに汚職は忌むべき犯罪なのかもしれないが、それはワイドショーのような扇動報道、バッシング報道で治るようなものではない。そでれで視聴率は上昇するかもしれないが、公務員制度の構造的な改革など、建設的なことは何もないのである。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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