このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

野良猫問題について思う
〜好悪で野良猫問題を論ずるなかれ〜

中島 健

 そもそも、社会のどのような分野、どのような階層にも、世間にはおおむね二つのグループが存在している。一つは、きちんとした道徳(モラル)を守れる人々であり、もう一方はそれが欠如している人々である。そして、世間を騒がせる「問題」の多くは、これらのモラル欠如人間の行動によるところが大きい。電車内・運転中での携帯電話使用、信越本線横川〜軽井沢間(碓氷峠)廃止による鉄道ファンの「暴走」、サバイバルゲーム愛好者によるゴミ問題・・・そして猫問題についても、全くこの原則が受け入れられる。
 すなわち、今日の野良猫増殖の最大の原因は、やはり「飼うのが面倒」「転居先がペット禁止だから」という理由で飼い猫を捨ててしまう、一部の心無い人たちの行為である(どんな事情があろうとも、最小限、去勢してから捨てるべき)。また、貸家の家主さんがペットの飼育を嫌う最大の理由は、「動物の臭いがつくから」なのだが、これもきちんとトイレ等の世話をしていれば抑えられるものであり、つまりは如何に世間にはペットの世話が出来ない人々が多いかを物語っているのである(ちなみに、かつて筆者が旅行したフランスでは、マンションでのペットの飼育は全く自由だそうである)。だから、野良猫問題の根本はやはり「飼い主のモラルの喚起」というところからはじめられるべきである。具体的には、ペット店側でのアドバイス体制強化や、以前ペットを理由なく手放した人に対する新規のペットの販売抑制等が考えられるが、ペットショップもペットを売ることが商売である以上、なかなか「責任ある顧客」を選別するのはむずかしかろう。
 しかし、だからといって、最近一部の野良猫規制を求める市民らが要求するような、飼い猫の強制登録、野良猫の去勢処分・屠殺処分強化を推進することには、私は強い抵抗を感じるのである。

 まず第一に、現在我が国における飼い猫の飼育形態は、室内に閉じ込めておく方式と戸外への出入りが自由な方式の2つがあるのだが、戸外方式を認める限り、壁や塀を自由に歩き回り、時には人様の庭を通過する事もある。従って、これら飼い猫の「存在感」は野良猫のそれとあまり変わらないのであって、多くの野良猫規制派が「猫嫌い」派であることからすれば、仮に野良猫を100%絶滅させたとしても、やはり猫(他人の飼い猫)を自分の家の庭に発見することになる可能性が高い。従って、たとえ飼い猫が強制登録制となり、「自分の庭を荒らされた」といって飼い主へ管理責任を問うて損害賠償を求める訴訟を起こしても、戸外方式が世間的に認知されている以上、飼い主が飼い猫を戸外に自由に出入りさせておく事は何等「過失」とは言えず、法的な責任は問えないはずである。飼い猫の強制登録制も結局は、飼い主の「飼い主意識」を高揚させる程度の効果しかないのである。
 また、現在既に「公衆衛生」を名目に行われている野良猫の大量屠殺処分、あるいは野良猫規制派による強制去勢処分は、いかにも人間の傲慢な行為に思えるのである。そもそも、猫は鼠を捕獲させる目的で他ならぬ人間が増殖させたのであって、これは猫嫌い派も認めざるを得ない事実である。しかるに、それを今度は「庭を荒らす」「猫が嫌いだ」などの、如何にも人間本意の不遜な考えに従って、「公衆衛生」の美名の下に殺害する。これは、何とも自分勝手な話ではないか。牛や豚等の家畜は、人間の生物的本能である「摂食」が目的であるから屠殺するのもやむをえないが、猫の場合は明らかにこれとは一線を画す。去勢にしても、生物最大の機能の一つであるところの生殖機能を損壊させる以上、明確な動物虐待と言わねばなるまい(賃貸住宅の家主の中には、ペットの飼育を認める代わりに、去勢手術を強要するところもあるという)。地球環境保全が叫ばれている昨今、(地球環境保全とは、人間本意の思考によって自然を破壊するのをやめよう、ということなのに)これに明瞭に反する行為が仮にも文明国たる我が国で公然と行われているのは、一体どうしたことだろうか。「猫は人工的に増殖したのだから人工的に減少させてもよいではないか」という反論が聞こえてきそうだが、既に猫の実用的価値が失われてから久しいにも関わらず、これだけ野良猫が存在しているということは、つまり野良猫が残飯を漁る等して人間の都市生活に適応して生きているからであり(仮に適応できなかったとすれば、人工的な増殖の奨励を停止した事で個体数が減少するはずである)、カラスともども既に「都市」という人工的な生態系(?)の中の一員になっているのである。それに、増殖させたら無闇に葬っていいものでもない。猫の増殖に関する人工的な行為はあくまで増殖段階に止まるのであって、そこから生まれた命を、ハエや蚊の如く勝手に奪うことは、できないはずである。

 

 以上のようなことは、そもそも野良猫問題が、猫に対する好悪から論じられていることに原因がある。猫嫌い派にとって、野良猫は抹殺しても一向に構わないものになってしまっているが、これも猫に対する嫌悪感のなせる技である。野良猫問題はもっと、好悪を越えた社会的見地から論じられるべきではないだろうか(ちなみに私は猫大好き人間であるが・・・)。私としては、野良猫問題の解決は、飼い主への啓発運動と、猫嫌い派の方の自衛(障害物を設置する、など)によるべきなのではないか、と考える。それに、子供に対する教育的見地からも、家庭で動物を飼育することは奨励されるべきである。少なくとも、猫そのものを抹殺して問題を解決しようという姿勢には、賛成しかねる。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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