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映画「プライド」を見る
〜映画は東條英機の評価を変えることができたか〜

中島 健

 5月下旬、都内の映画館で、映画「プライド〜運命の瞬間〜」を観覧した。本作品は、第2次世界大戦中総理大臣の座にあり、戦後東京裁判でA級戦犯として処刑されたことで有名な東條英樹元首相(陸軍大将)の、戦後から処刑までを描いたもので、その賛否を巡って、上映前より左右両陣営で議論があったものである。
 私自身は元来、極東国際軍事裁判(東京裁判)やいわゆる「東京裁判史観」については、疑問視している者だが、そうした内容面、歴史観の側面を論じる以前の問題として、この映画をあまり「面白い」と思うことができなかった。というのも、この映画において、映画製作者が伝えたかったメッセージ、東條英機のプライドが一体何であったのか、あまり伝わってこなかったからである。
 そもそも、上映時間が2時間40分もあるのに、内容が冗長で薄いという印象がある。一見、東條英機という人物個人に焦点をあわせているのかと思えば、インドのパール判事(極東国際軍事裁判で、ただ一人、国際法を厳格に解釈して「全員無罪」の判決を下した裁判官)や、同じくインドの独立運動指導者チャンドラ・ボース(戦時中、日本の支援で「インド国民軍」を編成し、イギリスの植民地支配に抵抗したことで知られる)について扱ったり、余計な登場人物がでしゃばっていたり、無駄な回想シーンがあったり・・・そうでなれば、本映画は専ら「東條一家の運命」とでも題すべき内容であり、公人としての東條英機、特に先の戦争中内閣総理大臣であった東條英機について描いているようには見えなかったのである。
 「東條英機のプライド」とは何なのか?かわいい娘や妻を置いて戦犯として処刑されても、なお家族に笑顔を振りまく父親を演じることなのか?それとも、自己の戦争指導がもたらした結果如何に関わらず、なお自分の信念を貫くことなのか?しかし、そのようなものが彼のプライドの中核なのであれば、それはあくまで彼個人の私的な問題であって、これを映画にして広く一般に公開する意義は、あまり見出せない。想像するに、彼のプライドとして映画化に値するものとは、「自己の身がどうなろうと、天皇陛下が戦争責任の追及(の形式をとった復讐)に晒されないよう、臣下として努力すること」ではないのだろうか。あるいは、一人の軍事官僚として、敗戦を反省しつつ、「それでも自分は職責を果した、これで死刑になるならそれも職責の内だ」と考え、潔く刑を受け容れるという、陸軍軍人のプライドを堅持することなのではないだろうか。
 私は、先の大戦に関して、東條英機元首相を擁護する気は無い(理由はどうであれ、国家の滅亡に至る戦争を開始した政治的責任は、免れ得ない)。だが、もし仮に、私が東條元首相を擁護するつもりで映画をつくるなら、彼の幼少時代から総理大臣時代までを描き、当時の日本が置かれた国際状況、あるいは当時の政治状況(政党政治に対する世論の失望や、それに反比例して高まっていた陸軍・右翼に対する期待感)を指摘した上で、ドイツのヒットラー総統やイタリアのムッソリーニ統領との違いを強調するであろう(東條元首相は、しばしばヒットラーやムッソリーニに比類する、枢軸国側の独裁者であるかのように語られている。しかし、独伊の指導者たちは、職業軍人というよりは政治家であり、ヒットラーなどむしろドイツ国防軍の懐柔に腐心したのが事実である。これに対して、東條元首相は、当時の日本の一大政治勢力である陸軍のメンバーであり、その点で軍に対する影響力は強かったが、元来政治家ではなく、むしろ職業軍人、軍事官僚といった側面が強い。自身の政権基盤にしても、天皇から大命が降下したからこそ首相に就任したもので、現に、戦争中サイパン失陥の責任をとって政権を追われている)。
 この映画が公開された5月23日当日、各映画館では、この映画の趣旨に反対する一部の政治団体、暴力集団によって、妨害行為が行われることを懸念して、多数の警備員が配備されたという。また、映画館関係の労働組合が、この映画の上映中止を求めて運動を進めているとも伝えられている。しかし、果たしてそうまでして上映を阻止する価値があるのか。日本人の歴史観について議論を生んだ映画だけに、残念である。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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