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戦争に対する認識
〜戦争と平和については、その本質を見分けるべきだ〜

中島 健

 私がこれまで、この月刊「健章旗」誌上において記してきた文章の中には、安全保障問題に関するものが比較的多かったように思う。例えば、「我が国は対人地雷全面禁止条約に参加すべきか」だとか、「今月の世界軍事情勢」、あるいは「自衛隊に海外在留邦人の救出任務を」といったものがそうである。これは、私のそもそもの興味分野が外交や安全保障だからでもあり、また現在我が国が抱える問題の中で、安全保障問題が少なくない部分を占めている、と考えるからでもある(もっとも、最近は経済問題に隠れて、あまり論議されなくなって来てしまったが)。
 ところで、私がこのような文章を書いていると、これも戦後民主主義教育や平和学習の欠点によるものなのだが、どうも私のことを「軍国主義者」だとか、「アナクロな奴」「戦争好き」、甚だしくは「軍事オタク」「兵器マニア」などという勘違いした風に考えている人が、ごく少数だがいるようである。そこで今回は、私の戦争に対する認識について書かせて頂きたいと思う。
 結論から先にいこう。私は、戦争は悲惨であり、基本的には避けるべきものであると考える。当然だろう。いかに高尚な理想を掲げ、いかに世界に評価されようとも、実際に戦争を戦う将兵にとってみれば、戦争とは軍隊という組織の任務に過ぎず、自分が死ぬかもしれいないという意味で大層危険な行為である。ましてや、徴兵された兵士にとっては、兵役は義務であり本業とは関わりのないことであって、生命の危険に対する実利的代償はほとんど無い。国民的熱狂によって戦争へと向かうことなく、戦争を兵士の視点から捉え、あるいは戦火に巻き込まれる一般市民の視座で観察することは、大変重要である。その意味において私は、戦争体験者や被害者の生の声を聞く「平和学習」は無意味ではない、と考えている。
 そもそも、現在の我が国は、世界中のあらゆる国々と通商関係で結ばれており、世界中から工業資源を輸入し、加工して付加価値をつけた上で再び世界へ輸出している国家である。国内に物質的な工業資源は無く、唯一の資源は人的資源で、これが生み出す知識集約型、技術集約型の工業が我が国を動かしているといっていい。日本経済は世界の経済と結びついており、我々がもし現在の生活水準を維持したいのであれば、再び鎖国をして世界から隔絶するようなことは全く不可能である。この様な我が国の環境、体質を考慮すれば、我が国の国益、つまり世界を相手にした取り引き関係の維持に必要なのは、戦争のような破壊と無秩序の世界ではなく、安定した平和な世界である(私がこうして、のうのうと月刊「健章旗」を作ることが出来るのも、平和のおかげである)。
 ただし、である。私は以上のような認識を持ってはいるが、だからといって自衛隊を廃止しろだとか、日米安保条約を破棄しろ等という主張には反対であるし、また現行憲法第9条は改正すべきであるという考えを持っている(私の憲法第9条・平和主義に対する見解については、 ここ を御覧下さい)。それは何故かといえば、およそ紛争と名のつく人間活動が存在しないという意味での世界平和は、観念的・理論的にはともかく実際には到底達成できないと考えるからである。
 現在の、冷戦終結後の世界情勢は、それ以前と比べれば比較的平和である。冷戦時代のように、世界の国々がイデオロギーによって2分化され、激しく対峙するようなことは無くなった。しかし、これに代って地域紛争や内戦が多発するようになったことは、つまり世界がたった2つのイデオロギーではなく、それぞれの国家、民族という多様なイデオロギーによって色分けされ、各々の違いというものが戦争を生み出していることを意味している。現に、冷戦時代において、核兵器には「西側の核兵器」と「東側の核兵器」の2種類しか無かったのだが、現在ではそれらに加えて「ヒンズーの核兵器」と「イスラムの核兵器」が加わっている。逆に、「人間の理性に訴えれば完全な世界平和も可能だ」と訴えるのは、理想論としては正しいのかもしれないが、現代の我々が抱く人間不信の思想に対して無頓着であると言わざるを得ない。現代立憲国家体制や三権分立の制度、あるいは軍隊の文民統制といった現代政治の諸原則は、いずれも人間の理性に対する不信や境遇の不平等から生まれているのである。世界平和という概念はあくまで相対的なものであって、人間の闘争本能や欲求というシロップが混ざった水は、いくら水を足してもシロップの濃度を0とすることはできないのである。
 この様な状況の中で、我が国に対してなお急迫不正の侵略がおこる可能性は否定されないし、また前述の国益を守るために、世界の安定に対し挑戦的な行為を為した国家に対して、国連主導の下で制裁を加えることは、国連加盟国たる我が国の義務でもある。そしてその様な可能性や義務に備える為に、私は、我が国が軍事力を保持すべきであると考えるのである。
 このように軍事力の重要性を解説すると、読者の中には、我が国が再び軍隊を公認すれば必ずや「いつか来た道」を辿ってしまう、つまり泥沼の侵略戦争への道を歩んでしまうとして、これに断固反対する、という意見を御持ちの方もいらっしゃることだろう。しかし、このような「いつか来た道」論は、私にとっては、戦前と戦後の、憲法をはじめとする政治体制、国家経済の置かれた環境、国民の意識といった社会的背景を一切無視した、説得力に欠ける暴論のように思える。勿論、このような説を説く識者がいうように、我が国が民主主義国家として自国の軍事力(自衛隊)を統制する文民統制の制度は、重要である。だが、それ以外の部分、たとえば現在の政府に軍事力行使の正式な権限を与えてしまえば、我が国は必ずや戦争に突き進むだろう、等という議論は、少なくとも戦後半世紀以上が経過した我が国においてはもはや説得力を持たない。そもそも、国家統治の基本原理を定めた憲法が、大幅に異なる。大日本帝国憲法下においては、政府と軍隊が独立した存在であり、いわば京都の朝廷と鎌倉幕府のような状態だった。軍隊は主権者たる天皇に直隷し、国民(臣民)の制御の及ぶものではなかった。そして、昭和の恐慌時代と世界の帝国主義時代によって、我が国は経済発展のために大陸中国の市場を獲得しようと企図し、更に重要なことに、腐敗した政党にあいそをつかした国民は、軍部を熱狂的に支持していたのである。これに対して戦後の我が国では、憲法上軍事力に対しては既に極めて重い制約が課せられ、軍隊(自衛隊)と政府が並立するような状況ではないのは勿論、両者とも我々国民の監督下に置かれている(最近の低投票率を見るまでもなく、国民が実際監督しているかどうかはなお疑問の余地があるが・・・)。(また、私は戦前のような軍隊が国民から独立した状況を求めているわけでもない。)更に、現在では(当然過ぎることだが)帝国主義的政策はもはや時代遅れの政策でしかない。そもそも、我が国の経済は世界との貿易に大きく依存しているのであり、再び侵略戦争を実行して現在の生活水準を維持できるようなものではない。そして国民は、良かれ悪かれ民主主義について、既に散々耳にしているのであり、かつ戦後の我が国の発展が歴史的に証明している通り、我が国は暴力的手段より平和的手段によった方がより発展することができる、ということを、肌で感じて知っているのである。
 勿論、はじめに書いたように、如何に上記のような理想論を掲げたところで、戦場で兵士は死んでゆく。しかし、だからといって、戦争の悲惨さから目を背けるために自己の軍事力を放棄してみたり、侵略を甘んじて受けるなどということは、基本的には無法地帯である国際社会の認識を正しくしていない、と言わざるを得ない。非武装中立下の我が国が一旦悪意を持った敵国の支配下に入ってしまえば、戦争の悲惨さ以上の悲惨な事態がおきるだろう。最悪の場合、民族浄化の名の下に虐殺されてしまう可能性すらある。重要なのは、「戦争の悲惨さ」を大前提として理解した上で、出来るだけそれを避けるために、抑止力として、あるいは迅速な侵略排除の手段として軍事力を持つ、ということではないのだろうか。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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