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外来語について考える
〜外来語の安易な使用は避けるべきだ〜

中島  健

●はじめに
 戦後半世紀を経過して、我が国は、有史以来世界各国との交流が最も盛んな時代を迎えている。特に、近年の情報通信産業の爆発的な拡大と普及で、我々はインターネットをはじめとする電子通信網を通して、日本にいながらにして世界各地の情報を収集することができるようになり、従来の国土・民族の概念を越えた情報のやり取りが世界的規模で行われている。そして、それに連れて日本語に由来しない多数の外来語が、日常的に使用されるようになってきている。
 しかし、我が国における昨今の外来語の使用状況を見てみると、そこには利便性や解り易さを通り越して、単に安易な格好づけから、外来語をそのままカタカナ語若しくはローマ字表記にして使っている例が多々見受けられる。勿論、外来語の普及はそれだけ日本語の表現性を豊かにするのであり、それがただちに批判されるべきものではないかもしれない。例えば、外来語と日本語を区別して使用することで商品の好感度をあげたり、購入対象を限定させたりすることが出来、またそれが国産商品の海外輸出にもよい影響を与えている。だが、もしその傾向が、単に商品の固有名詞のみに止まらずに、それに付属する取扱説明書や保証書その他の重要書類にまで見られるのであれば、それは外来語に疎い消費者の利益が害される事態を招いていることになる。また、以上は主に大衆社会における外来語に関してであったが、学術的な分野、公的な分野での外来語の乱用も又、問題がある。端的に言えば、それは外国の新技術や新概念の理解を通り越して、ひたすらその世界の閉鎖性と特殊性を高めることに奉仕しており、ひいてはその相乗効果によって、外来語を理解できない国民の利益を損ねているのである。
 果して、この様な状態が正常なのであろうか。我々は、外来語の見かけ倒しの格好よさや外国に対するあこがれから、表音文字と表意文字の絶妙な組み合わせにより大情報量と利便性の双方を併せ持つ、世界で最も使いやすい言語・日本語を、不当に軽視しているのではないだろうか。以下に、現代の我が国における外来語の使用の実態と、その問題点について考察する。

●外来語の使用環境
 外来語の使用される環境には、3種類あり、それぞれ使用される領域も異なる。一つ目は、あくまで大衆文化的な分野における外来語であり、二つ目は比較的学術的な分野におけるそれである。そして、それらの中間に位置するものとして、第3の類型である公的・御役所言葉的な分野における外来語がある。また、外来語そのものにも、2つの種類がある。一つは外国語(ことに英語)の音及び概念を直輸入したものであり、いま一つは外国語を日本語の感覚で造語・誤用したものである。便宜のため、本稿では前者を「直輸入語」、後者を「和製英語」と名づける。但し、直輸入語と和製英語の区別は絶対的なものではなく、中には直輸入語であったものが和製英語に転化したものも多い。

●大衆環境の外来語
 第1類型の環境で使用される外来語は、戦後の我が国の高度に情報化・大衆消費化した社会にあって、欧米ことにアメリカの清新な文化が流入し、生活のあらゆる局面において欧米化が推進された結果発生したものである。新たな習慣、文物が外国語のまま導入され、多用されるに及んで、人々の間にその語の異質性に対する認識そのものが失われ、しまいには自国の文化を軽んじてまでこの麻薬に身を委ねようとする。この現象は、何も我が国が戦後の一時期アメリカの占領下に置かれたことがあるからではなく、イスラム原理主義諸国を除く全世界のほぼどこでも見られる現象であって、特にかつての冷戦時代に於いてアメリカを盟主と仰いでいた自由主義諸国において顕著である。それだけ、若々しく大衆的なアメリカ文化には世界の人々を誘惑する活力と魅力があったということになるだろうか(直輸入語に英語以外の語が入り難いのもこのためである)。しかし、同じくアメリカの文化的影響下に置かれたフランスにおいては、例えば「フランス語使用法」の制定のように独自文化を防衛しようとする積極的な動きが見られるのに対して、我が国においてはその様な傾向は見られないばかりか、依然として「欧米こそ見習うべき対象である」との、まるで明治維新当時の我が国の如き固定観念が強く残されている。フランス文化がアメリカ文化に類似した文字・宗教観念(キリスト教旧教と新教の違いはあるが)を持つのに対して、日本文化は文字も哲学も全く異なるのに、である。
 それでは、大衆環境における外来語を探してみることとしよう。素材として、講談社が刊行する若者向け情報誌「TOKYO一週間」、株式会社オリコンが刊行する音楽情報誌「オリコンウィークTheIchiban」(「L' Ichiban」【フランス語】でも「O Ichiban」【ポルトガル語】でもなく、「The Ichiban」であるところに、大衆環境におけるアメリカ文化の強さが見られる)、そしてメディアワークスが刊行するテレビゲーム雑誌「電撃G`Sマガジン」を見てみることとする。
 例えば、「TOKYO一週間」(以下、「一週間」と表記)1998年2月17日号の表紙に書かれた名詞62語(事務的な表記を除く)の内、カタカナ語が30語、全くのローマ字表記が6語ある。つまり、実に全名詞の68%が外来語表記なのである。勿論、この中には「ラーメン」だとか「カラオケ」「コンサート」「スポーツ」といった、我が国に極めて定着した語も含まれてはいるが、逆に「イタモノ」(イタリアの物産)、「イタメシ」(イタリア料理)といった、極めて安易な造語・和製英語も又多く見られる。「イタモノ」など、単独では何のことだか解らない語であろう。目次を見ると、「激安イタモノ・イタメシ王国」、「『犬&猫住みやすさ』大調査」、「埼玉VS神奈川」、「エビチリのレシピ」、「フロントGOODS」等々、英語もしくはローマ字が何等かのかたちで必ず混入されているのが目につく。「フロントGOODS」とは記事内容から判断してどうやら「流行の最先端をゆく品物」ということらしいが、一見して意味不明である。しかも、英語「front」は「〜に面している」だとか「〜の前」という意味(更には「戦線」の意味も)はあっても「先進的な」という意味は無い。典型的な誤用に基づく和製英語の一つであろう。「一週間」誌は若者むけの雑誌であるとはいえ、この様な誤用法を当然の如く、さも格好良い語であるかの如く使うようでは、外来語に対する安易な迎合と評されても致し方あるまい。
 「オリコンウィークThe Ichiban」(以下、「オリコン」と表記)誌は更に激しい。例えば、「オリコン」誌1998年3月30日号の表紙に記載された音楽家(アーティスト)21人(グループ)のうち、カタカナ語であるものは4人、ローマ字であるものは9人、日本語であるものは8人であった。外来語率は62%であるが、ここで特徴的なのが、ローマ字表記がカタカナ語はおろか日本語まで上回っていることである。外人であるエリック・クランプトンを除けば、「ローマ字音楽家」は「カタカナ音楽家」の実に3倍もいる。勿論、これは単に1雑誌の表紙を調査した結果に過ぎないので、この結果をただちに一般化することは出来ないが、少なくともここまでローマ字・カタカナの浸透が激しいことの根拠にはなり得るだろう。更に、雑誌それ自体の記事企画名も「MONTHLY ARTIST」、「SPECIALINTERVIEW」、「表紙&巻頭 INTERVIEW」、「Girls Weekly」など、ローマ字が目につく。つまり、「オリコン」誌においては、外来語を転用する手段としては、カタカナ語ですらもはや陳腐であり、ローマ字表記によるより直接的な(あるいは、より露骨な)外来語表記が為されているのである。「オリコン」誌は表紙でも「総合エンターテインメントメディア情報誌」(何のこっちゃ?)と名乗り、目次(といってもそれは「もくじ」でも「コンテンツ」でもなく「Contents」と表記されていたが)に「The Ichibanはイノベーターに最新情報を発信するマガジン」であると銘打っており、流行の最先端を自負(自称?)しているだけあって、この外来語充満現象は、現代の大衆文化・若者文化の最先端部分の現状、つまり欧米文化への露骨な迎合姿勢を素直に体現しているといえよう。
 最後に、「電撃G'sマガジン」(以下、「電撃」と表記)である。1998年10月号の目次に掲載されたゲームソフト23本のうち、カタカナ語であるもの15本、ローマ字表記であるもの2本、日本語であるものは6本で、外来語率は74%である。コンピューターゲームは元来アメリカ生まれの文化で、その分日本語のものが少なくなってしまうのは致し方の無いことだが、これだけテレビゲームが根づいているにも関らずゲーム機本体の名称が100%外来語である(「ニンテンドウ64」という例外もあるが、これは「ニンテンドウ」というカタカナ語が海外で普及しているため採用された名前で、純粋に日本語と考えるには無理がある)ことも含め、外来語化による差別化は著しいものがある。なお、雑誌に限らず、現在我が国で開発・販売されている商品のほとんどが外来語であり、しかもそれらに関連した語(純粋な固有名詞としての商品名ではないもの。取り扱い説明書や紹介カタログ等)も又、多くが不必要なカタカナ表現を使う傾向にあることを指摘しておく。
 以上の様な大衆環境における外来語の乱用は、次のような問題を生むと考えられる。
 第1に、表現すべき言語の喪失である。以上見てきたように、現代の我が国大衆文化、特に若者文化においては、アメリカのそれが最も大きな影響力を発揮している(学校教育における事実上の英語単独必修も、アメリカに対する親近感を生んでいるのかもしれない)。そこで「流行の最先端」を自負する雑誌やテレビ番組はカタカナ、更にローマ字へと流れ、若者達もこれらのメディアに沿って自ら進んで漢字を放棄してゆくのだが、しかし、このようにして獲得したカタカナ語・ローマ字表記は、当然のことながらあくまで断片的な、表層的なものでしかない。流行の最先端に居る若者達は、英語をネイティブ・スピーカーの様に流暢に操れる訳でもない。そこで得た外来語の知識はあくまで軽薄な、瞬間的なものに過ぎないのであり、真の意味でアメリカ人的な思考力や哲学を身につけた訳ではないのである。換言すれば、流行の最先端に外国ばりの格好よさが感じられるのは、あくまで大衆消費社会で利益を獲得しようとする企業の戦略に、多くの消費者が乗せられているに過ぎないのである。
 ところで、こうして漢字を放棄し、カタカナ語に飛びついた若者達は、自己を表現する手段としては、完全な日本語も又完全な英語も持ち合わせない、非常に不自由な状態に置かれる。最悪の場合、彼等は「漢字かなまじり」という奥深い表現方法も中途半端なまま、米英で通用する実践的英語表現も出来ない状態に追いやられてしまうのである。これは、日本語の未来にとって決してよいことでは無い。
 第2に、上にも書いたように、本来商品の固有名詞の世界に止まっていた外来語表現が、それ以外の分野にも広まるということである。例えば、後述する公的環境における外来語の乱用は、正にこの大衆環境における乱用の結果「ソフトイメージを醸成するために」生み出された現象であり、結果国民生活に影響を与える公文書の中に、却って国民が理解し難い表現が混入してしまっているのである。これは何も公的環境における問題だけでなく、学術環境、あるいは大衆環境における正式かつ重要な
文書においても同様である。

●学術環境の外来語
 さて、第2類型の外来語は、学術環境における外来語である。これは、前述した通り、現代の高度かつ複雑に発達した諸科学が、我が国において外国語の早期の直輸入を生じせしめ、広まったために生まれた環境である。だが、近年の学術外来語の中には、明らかにそれ程高度な概念(つまり、日本語では表現できない概念)であるために外来語にしたのではなく、単にわざと専門性、特殊性を高め、「インテリぶる」ことだけを目指しているのではないかと推測したくなるような、実に不合理な用法
をされているものが多々見受けられるのである。
 例として、現代日本における学術の権威である東京大学が、その文科系学部で基礎的な学術探究の方法論を教える「基礎演習」の教科書として編集した本「知の技法」(小林康夫・船曵建夫編集、東京大学出版会、1994年)における外来語について見てゆくことにする。
 例えば、第1部「学問の行為論」において使用された外来語を拾っていくと以下の通りであるが、この中の語は、どれも外国語的観念を損なうことなく容易に日本語に変換できるものばかりである。実際に読んでいくと、読みづらくは無いものの、時に定義があいまいな外来語(「アクチュアリティ」「コミュニケーション」「ステータス」等)が混入されているので、読んでいて戸惑うことが少なくない。例えば、「アクチュアリティ」はこの場合「現実性」を意味して使われているのだが、英語の「Actuality」には「時事性」という意味もあり、文脈から判断できるものの紛らわしい。しかも、この中には明らかにカタカナ語として浸透していない語(「インフォームド・コンセント」「アクチュアリティ」「オペレーター(この文脈上の意味)」「ファクター」)やそれ程なじみの無い語(「イニシエーション」)まで含まれており、日本語の文章として到底最良のものとは言い難い。
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▲第1部に使用された外来語
「ポイント」「プロセス」「コミュニケーション」「テクノロジー」「イニシエーション」「キー・ワード」「ポジション」「ステータス」「パラドックス」「インフォームド・コンセント」「アクチュアリティ」「レベル」「スタート」「オペレーター」「センス」「ファクター」「オリジナリティ」「ダイナミズム」
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 外来語の乱用傾向は、何も文書上の用語に限ったことではない。例えば研究成果の発表に関する用語にも、謎のカタカナ語が多く使用されている。例えば、口頭発表の形式として「プレゼンテーション」というものがあり、よく「プレゼン」等という醜悪な和製英語に略されているが、これを一体何故カタカナ語で表記しなくてはならないのだろうか。元来ビジネス用語であり、「発表」の意味に過ぎない「プレゼンテーション」は、現在我が国では「口頭発表」つまり「オーラル・プレゼンテーション」の意味で使用されているが、「プレゼン」等という不正確な略語を使用するより「(口頭)発表」という単純明快な用語を使用した方が、遥かに有用かつ簡明である。
 あるいは、近年初等中等教育での導入が議論されている「ディベート」についても、「討論」という単純明快な日本語があり、態々カタカナ語に頼る理由はない。我が国において「ディベート」とは、自己の信条の如何に関らず賛成派と反対派にチーム分けし、「第1反駁」「第2反駁」といった形式的な司会進行で行う特殊なゲームのことを指すのだから、この場合はむしろ、形式に囚われない「討論」や「弁論」という語を使用すべきではないだろうか。我が国において「スピーチ」を「演説」、「ディベート」を「弁論」「討論」と和訳したのは福沢諭吉だったが、このような良い和訳語があるのにも関らず安易に外来語を使用することは、ひいては母国語を軽視することになり兼ねない。
 その他にも、謎の外来語はある。例えば、「レジュメ」である。この言葉は、日本語における「配布資料」を指している訳だが、何故か意味なくフランス語を使用している。しかも、それを作成することを「レジュメを切る」という。一体、これをフランス語で表現する意義は奈辺にあるのだろうか。その他、「配布資料」を表す言葉として「シュラバス」(!?魚かと思った)、「ペーパー」があり、
しかも「ペーパー」は試験の意味でも使われることがあるからややこしい。「ペーパーの作成」を「紙漉き」と間違えても文句は言えまい。
 以上の様な学術環境における外来語の乱用も又、次のような問題を生むと考えられる。
 第1の問題点は、専門用語的な外来語が乱用されることによって、学問の閉鎖性と特殊性を高めることに奉仕している、ということである。勿論、学問が各分野毎に専門的に行われている以上、一般に流通している言語より専門性の高い(なじみの薄い)言葉を、使わざるを得ない場合も出てくるだろう。しかし、それはあくまで必要最小限度に留めるべきであって、その成果の社会への還元に支障を来すような語は避けるべきである。例えば、何も『知の技法』のような平易な解説書において、「アクチュアリティ」の様な無駄なカタカナ語を繰り返し使用してよい訳では無いのである。
 第2の問題点は、学術環境におけるこの様な状況は、最終的には大衆環境及び公的環境に影響を与え、それらが相乗効果となって再び学術環境における外来語乱用傾向を助長している、ということである。しかも、各段階を経て戻ってきた外来語は、当初の高度に学問的に定義された用語とは明らかに異なったものに変貌している場合も多い。例えば、「環境ホルモン(環境エストロゲン、又は内分泌撹乱物質)」※という言葉は当初は学術環境において使用されていたが、それが報道で大きく採り上げられて大衆環境に移行し、座視出来なくなった政府が取り扱って公的環境に取り込まれ、そしてそれが再び学術環境に戻ってきている(最近出版された立花隆『環境ホルモン入門』などは、戻ってきた方の「環境ホルモン」を使っていると言えるだろう)。いずれにせよ、このような悪循環はどこかで切断しなくてはなるまい。
※但し、ここで例に挙げた「ホルモン」という言葉は、カタカナのままで構わない。

●公的環境の外来語
 以上の大衆環境及び学術環境の中間に位置し、正式な場面だけに極力新語や外来語を避けることが期待されるのが公的な分野(お役所及び報道機関を含む)である。しかし実際には、この分野でも企業の商品名の如き軽薄な外来語が乱用されており、今や「大多数の国民にとって解りやすい文章」とは到底言えないものまで散見されるようになってきている。
 公的環境における惨状の好例として、読売新聞1998年8月21日朝刊号に掲載された川崎市の事例を挙げることができる。記事によると、神奈川県川崎市(政令指定都市)が、市民向けの資料に注釈なしで使おうとした591語のカタカナ語について、市民モニター(この表現も気になる表現だ。英語で「モニター」とは、①警告者=ここでの使用法、②教師の代理、③通信監視者・監視機、④状況表示機、⑤放射能探知器、⑥海防戦艦といった多彩な意味を持つ語である)139人にアンケート調査したところ、9割以上の語を注釈なしで理解した市民はたったの2.4%で、8割〜9割理解が7.2%、7割〜8割理解が17.6%と、7割以上の語を理解した市民はたったの4分の1に過ぎなかったという。川崎市の調査で問題となったのは以下の語句である。
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▲(A)7割以上が「理解できない」
:「ポートセールス」(港湾施設の利用促進活動)、「サイバースペース」(コンピューター網上の仮想空間)、「サーベイランス」(<感染症についての>調査)、「キーテナント」(店舗の中核入居者)、「コンテンツ」(パソコン通信の情報内容)、「ノーマライゼーション」(障害者を健常者と同様に受け容れるという概念)
▲(B)5割以上が「理解できない」
:「インフォームドコンセント」(患者に説明・同意の上の治療)、「ケーススタディー」(事例研究)、「コンセンサス」(意見の一致、合意)、「ターミナルケア」(末期患者の治療)、「ディベート」(討論、論争モ)、「ニタリング」(監視、観察)、「リーフレット」(パンフレット)
▲(C)説明なしで使用可
:「アドバイザー」、「イベント」、「イメージ」、「ポイント」、「ホール」、「メリット」
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これらの語は、いずれも難解な英単語(もしくは英米人にとっては通常使用する英単語)を、そのままカタカナ語に転用した直輸入語で、他国人から「理解不能」と指摘されるのは当然である。
 (A)群の「サーベイランス(surveillance)」や「コンテンツ(contents)」などは特にその傾向が強い。しかも、「サーベイランス(surveillance)」とは「調査」という意味ではなく「監視、観察」の意味であり、実は川崎市の用法は誤用(和製英語)であって、恐らくこの言葉は英米人ですら理解できなかったであろう。ちなみに、川崎市が使いたかった「調査」を表す語は、「サーベイランス」
ではなく「サーベイ(survey)」である。「サーベイ(survey)」とは測量、検査の意味であって、例えばアメリカの火星探査船は「マーズ・グローバル・サーベイヤー(Mars Global Surveyor)」と名づけられている。(B)群の語句も、最近報道等で乱用されている「コンセンサス」や「ターミナルケア」等の語が、実はそれ程浸透していなかったことがハッキリと証明された。「インフォームドコンセント(informed consent)」など相当難解な単語であり、しかも英語だけでは「教えられた上での同意」の意味でしかなく、それが医療用語であるとはどこにも書いていない。ましてや、「ケーススタディー」(事例研究)、「ターミナルケア」(末期医療)、「ディベート」(討論、論争)、「モニタリング」(監視、観察)のように、簡単に日本語に置換できる語句を態々カタカナ語になおして使うのは、行政機関の公的な文書としては適切ではない。(C)群の語句でも、例えば「ホール」のように、「whole(全体)」なのか「hall(会堂)」なのか「hole(穴)」なのか不明であって(私も一瞬迷った)、(C)群だからといって無条件に使用してよいわけではない。
 はじめに述べた2つの環境は、対象を若者若しくは研究者に限定しており、それらの外来語は各分野における専門用語としてまだしも許容することができる。しかし、対象を広く国民一般とし、若者からお年寄りまで、幅広い層に理解してもらう必要のある行政の公文書において、この様な難解な語(直輸入語)や出鱈目な外来語(和製英語)を乱用することは、問題が多いといわなければなるまい。

●おわりに
 勿論、何度も指摘するように、外来語の導入は必ずしも負の効果だけとは言い切れない。特に、外国で生まれた新しい分野の言葉や概念を、正確に日本語に置き換えることが難しい場合には、外来語表記はむしろ勧奨されるべきであろう。例えば、パソコン関連用語などは、なかなか翻訳しにくいものの一つである。ただし、だからといってパソコン関連用語に無規範的なカタカナ語の氾濫を許してしまえば、それは結局パソコンをとっつきにくいものにし、消費者・国民の利益を害するだけである。
 又、陳腐な外来語の乱用傾向が続けば、前述したように若者達は表現すべき言語を失い、最終的には漢字仮名交じり表記の衰退、母国語の軽視といった事態を招いてしまう可能性も否定できない。特に、自国文化を表現し説明する手段としては、自国語は欠くことの出来ないものであり、又一度失われたらなかなか復活できないのが言語である。我々は、純粋な英単語を日本語に置換するのは場合によっては難しい、ということを了解するのと同様に、「わび」「さび」といった純粋な日本語単語は決して外国語では表記できない、ということを肝に命じておくべきであろう。
 私は、かつて我が国で実際に行われた「敵性国語の禁止」のような、過激な文化防衛策を望んでいる訳ではない。前述したとおり、日本語の表現方法がより豊かになることは歓迎すべきであり、カタカナ語は商品名等のカジュアルな場面で、又普通の日本語は公文書、学術論文等の正式な場面で、きちんと使い分けられれば全く問題は無いのである。しかし、再三にわたって指摘した通り、現在我が国においては、正式な場面においてすら軽薄かつ陳腐な外来語が幅を利かせはじめており、「正式」と「カジュアル」の区別が曖昧になって外来語の使用のけじめがつけられなくなってしまっている。又、それに伴って国民の利益も害されている。ならば、少なくとも正式な環境(学術環境及び公的環境)において、日本語に変えられる外来語は出来るだけ日本語に直し、日本人なら誰にでも解るような文書を作成することを、それらの環境で文書を作る立場にある者は努力すべきではないだろうか。
 幸い、最近では漢字のよさが見直され、漢字検定や漢字電報の人気が高まっているといわれている。漢字検定試験が注目されるようになった理由としては、単にそれが1992年から文部省公認となり、厳しさを増す就職戦線に備えて少しでも資格を獲得したいと考える受験者が増えたからだという説もあるが、それに加えて漢字の情報量の多さや読みやすさが見直され、カタカナ語の持つ安っぽさや安易さが嫌われはじめたからということもできる。この他にも、ある専門家は、ワープロの普及でかえって正確な漢字の知識が必要になったからだ、と分析している。いずれにせよ、今まで疎まれていた漢字の固有性や有効性が見直されつつあるのは、大変喜ばしいことであろう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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