このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

21世紀の教育に求められるもの
〜真の応用力、真の創造力を身につけさせるために〜

舟橋智久

 舟橋智久、ただいまから「21世紀の教育に求められるもの —真の応用力、真の創造力を身につけさせるために—」との演題の下、弁論させていただきます。
 「教育の目的は何か」、教育を論じるに当たっては、まず教育の目的をしっかり認識することが必要です。教育は大きく「家庭教育」と「学校教育」とに分けることができますが、この弁論では、より社会的な学校教育に照準をあててみたいと思います。
私は、いわゆる学校教育の目的は、「社会にとって有為な人物を形成し、社会に供給すること」であると考えます。社会を維持・発展し続けるためには、新たなる人材の補充が必要ですし、社会が維持・発展することは、個々人にとっても利益が大きい、というのがこのように考える理由です。この目的は、21世紀に入っても変わらない、と考えます。
 さて、21世紀の社会を維持・発展させていくためにはどのような能力が必要なのでしょうか。必要とされる能力をはっきりさせることが、21世紀の教育に何が求められるのか、ということをはっきりさせます。私は、社会を維持・発展させていくのに必要なのは、「幅広い分野にわたる、正確な知識・理解を基にした、応用力や創造力」であると考えます。社会においては既知の知識・理解をそのまま適応できることは少なく、既知の知識・理解を個々の事象に適応する「応用力」が必要です。また、時には既知の知識・理解のみでは対応できない事態に遭遇することがあり、その際には、新たなる知識・理解を発見する「創造力」が必要です。これらの能力は、社会を維持・発展させていくために、不可欠な能力です。とりわけ、過去と異なり、目指すべきお手本がなくなったこれからの日本人には「創造力」が求められる、ということは、文部省を始め、多くの機関、識者が主張しています。以上より、21世紀の教育に求められるものは、「正確な知識・理解を基にした応用力、創造力」であると考えます。
 ただし、ここで忘れてはならない重要な点があります。それは、「応用」にせよ「創造」にせよ、それは「正確な、既存の事項の知識・理解」を基にしていなければ生まれない、ということです。応用とは、既存の知識・理解を個々の事象に対し、適切に用いることであり、基となる知識・理解がなくては「応用する」ことはできません。創造についても、時には「無から無を生む」創造があるかもしれませんが、大多数の創造は既存の知識・理解を基にした「有から無を生む」創造です。正確な知識・理解を基にしていなければ、それは応用でも創造でもなく、妄想にすぎません。すなわち、正確な知識・理解を有していなければ、応用・創造は行えません。正確な知識・理解を基にしていて、初めて真の応用や創造が行えるのです。
 ところが最近、教育において、この「正確な、既存の事項の知識・理解」が軽視される、という傾向があります。「詰め込み教育はよくない」、「暗記中心の教育は間違っている」などの批判が、初頭・中等教育に対しなされています。文部省もこの意見に迎合し、「教科書において、網羅的な記述をやめる」、「教える事項を減らす」といった考えに基づいた学習指導要綱の改定を行い、更にそれを徹底させようと現在学習指導要綱の再改定に取り組んでいます。しかし、正確な知識・理解がなくして、応用や創造は行い得ません。知識・理解の応用訓練を行わせたり、それを創造に結び付けさせたりすることは必要ですが、そのことは知識・理解を軽視することと同値ではありません。むしろ、現代社会の高度化・複雑化を背景に、社会を生き抜くに必要な知識・理解は増加しており、私は、知識・理解のために今まで以上に多くの教育を施す必要があると考えます。
 また、連関を深める現代社会を生きる我々は、自分の専門分野以外の事項を知っておかないと、社会にとって適切な応用・創造を行うことが出来ません。現代ほど、幅広い分野にわたる知識・理解が求められている時代はかつてありません。この必要性は、今後21世紀にはますます高まるでしょう。しかし、現在の文部行政は、全く逆の方向に向かっています。「個人の選択を尊重する」という美名の下、文部省は相次ぐ学習指導要綱の改正により、生徒が学習する必要がある科目数を次第に減らしています。文部省の見識を疑わざるを得ません。私は、生徒と社会のために、生徒により幅広い事項を教える必要があると考えます。
以上より、21世紀の教育において、生徒が「幅広い分野にわたる、正確な知識・理解」を有することが出来る様教育することが、最も必要なことの一つであると考えます。これは、国民の基礎的素養の教育とも言えるのではないでしょうか。そして生徒は、基礎的素養を身につけて、初めて応用・創造を行うことができるのです。
 そこで、生徒に基礎的素養を身につけさせるには、生徒をどのように教育すればよいのでしょうか。まず始めることは、学習指導要綱改悪の流れを中止し、真の意味で学習指導要綱を改正することです。すなわち、教育内容の質と量の拡大です。これは必要不可欠なことですし、文部省は今すぐ学習指導要綱を真の意味で改正すべきです。しかし、これだけでは、問題は一向に解決しません。それは、「入試」が教育、とりわけ高校教育にとって非常な阻害要因となっているからです。阻害要因となっているとは、つまり、大学受験生は入試科目以外を勉強しない、ということです。その結果、ほとんどの高校生は、たたでさえ薄っぺらな高校学習課程の内容も、全てを修めていません。文科系を例に考えてみますと、ほとんどの私立大学では、英語・国語・社会一科目の入試が行われています。国公立大学でもセンター試験のアラカルト利用が進み、私大文系型で受験できる国公立大学が増加しています。大学生の方は自らの受験生時代を振り返ってみればわかると思いますが、一般に、受験生は試験に出ない科目を勉強しません。結果として、高校で習ったはずの数学・理科などの素養に欠いた人間が多数、形成されています。
 以上より、真に教育を改革するには、大学入試を改革しなければなりません。具体的に改革案を述べますと、大学は、入試でもっと広範な科目を課すべきです。少なくとも、高校で教えられている、外国語、数学、国語、理科、地理歴史、公民からすべての教科にわたって、一科目は最低課すべきです。高校で教えられているこれらの科目は、いずれも基礎的な内容であり、各科目を幅広く学ぶことで各科目の基礎を修得することができます。この改革を行うことによって、初めて学習指導要綱改正は生きてくるのです。
 このように述べますと、「入試科目数を増加すると、受験戦争が激化する」と危惧される方がいるかもしれません。しかし、入試は競争試験、すなわち「落とす」試験であり、入試科目数により競争状態が変化することはありません。逆に、入試科目を増やすことは、入試問題の正常化につながる、とさえ考えます。現在の少科目の入試では、多くの受験生の間に差を付けるには、細かい知識を問う問題を出題するしかなく、その結果、例えば「法隆寺の玉虫厨子の羽の数は何本か」などという、まったく本質的でない問題が出題されています。反対に、科目数を増やすことにより、個々の科目の問題が基本的な出題となると予想され、大学入試の正常化にも好影響を及ぼします。
 大学は、高校に及ぼす入試の影響力を十分に認識し、入試科目を決定すべきです。もっと、社会的責任を自覚すべきです。少科目入試を課す大学は、私の意見に対し「入学後、学問をするのに必要な科目のみを入試に課している」と反論するかもしれません。しかし、これは、大学の社会的責任を放棄した、大学入試が高校教育に及ぼす影響への想像力を欠いた態度で、社会的に許されるものではありません。
この改革を実行するには、文部省の後押しが欠かせません。なぜなら、少数の大学のみがこの改革を実行すると、その大学の人気は必然的に下がり、大学経営にも関わってくるからです。ですから、文部省は、助成金を盾にとってでも、この改革を全大学に実行させるべきです。
 現在、将来の日本人の基礎的素養が危機にあります。このことは、これから派生する応用力・想像力の危機をも意味しています。この知識・理解の軽視の傾向を止めなければ、21世紀にわれわれの社会を発展させることはおろか、維持することさえ困難になるかもしれません。まさに、教育の興廃が、社会の興廃を決定するのです。
 今すぐ、将来の日本人に基礎的素養を教育すべく、学習指導要綱を真の意味で改正すべきです。そして、学習指導要綱を生かすために、大学入試を改革すべきです。このことは決して不可能なことではありません。かつて日本は、高度な教育内容を定めた学習指導要綱を有し、同時にそれを生かす多科目の入試を行っていました。現在の危機は、すべからく、1970年代以降の学習指導要綱、入試の改悪によって引き起こされたものです。
 最後に、「生徒に真の応用力、真の創造力を身につけさせるために、学習指導要綱を改正せよ、入試を改革せよ」、と今一度強く訴えまして、私の弁論のおわりとさせていただきます。
 ご静聴、ありがとうございました。

舟橋智久(ふなはし・あきひさ) 大学生


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