このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

大学の教師は授業に専念すべきだ
〜不真面目な学生を叱責している場合ではない〜

中島 健

 何時の時代でも、若者を嘆く大人の声というものは存在する。そして勿論、現代においても、若者の社会性の無さに対する嘆きと批判は大きい。いわく、我慢できない、敬語の使い方を知らない、地べたに怠惰に座りこんでいる、服装が乱れている、生活が乱れている、等々。勿論、これらの嘆きの中には、大人の視点から見た場合の正論であり、「人生の先輩」の示唆に富む指摘として、我々若者はこれに耳を傾ける必要がある。また大人達も、そういった「しつけ」をもっと積極的に行ってゆくことによって、若者の社会化に貢献すべきであろう。
 但し、である。私は、確かに大人の方々にはこういった社会的儀礼やマナーについてもっと積極的に働きかけてもいいのではないか、とは思っているが、しかし、だからといって度を過ぎた「老人の嘆き」のようなボヤキまで聞きたいとは考えていないのである。
 話を具体化しよう。現在、多くの大学では生徒の授業出席率の悪さに頭を痛めている。そこで、これは各授業担当者レベルでの話だが、大学の教授や専任講師の中には、毎週出席確認のための小テストを課したり、出席カードを(しかも抜打ち的に)配布したりして生徒の出席状況を把握し、これを成績評価に反映させようという者がかなりいる。欠席が発覚した場合、「サボリ」としてその学生の成績評価を問答無用で一段階下げる、ということである。しかし、果たしてこのような「反面調査」的措置は、大学における授業の在り方として妥当なものなのだろうか。
 そもそも、大学は義務教育の課程ではなく、そこには、大学教育を受けたいと志望する者が通学して来る。学生は、あくまで自発的に来校し受講するのであり、大学側が成績評価を武器として半ば強制的に授業に出席させるというのは、小学校や中学校ならともかく高等教育においては正当な方法ではない。欠席によって授業を逃すという不利益は、学生自身が「大人の責任」として受けるのであり、それに加えてパターナリズム的出席調査をするのは明らかに大学生を小馬鹿にした扱いである。大学当局としては、学生が出席しようと欠席しようと関知しないという姿勢をとるべきである(勿論、出席した者に利益を与えるのは当然だが)。
 また、出席調査等で成績評価上欠席者を不利に扱うことは、正当な理由で欠席した者を不当に扱うことになる。例えば、ちょっとした風邪(つまり医者にかかるまでも無い程度の病気)や生理で出席を取りやめるといった事態は、一般人の生活の中では十分に考えられることである。例えそれが軽い症状であっても、無理をして登下校すれば悪化して更なる欠席を招くかもしれないから、こうした軽症の場合でも欠席には正当性がある。しかし、出席調査や小テストによる規制は、こうした正当な、しかし一見それ程重大では無い理由での欠席を「サボリ」と同一視し、当該学生に不利益を与えるものであって到底妥当な措置とは言うことができない。「個人の健康管理は個人の責任。大人ならそれも自己の責任」等と反論する者も居るかもしれないが、栄養失調や睡眠不足といった個人に責任のある原因ならともかく、伝染する病気や食中毒、生理現象といったものについては、それを自己の健康管理で解決できるものではなく、自己責任の範囲内とは到底言うことができない。勿論、良心的な講師の中には、病気・忌引き等正当な理由についての欠席は考慮する、という態度をとっている者もいる(当然だが)。但しこうした正当化措置も、学生を信頼して自己申告制にしなければ意味が無い。自らの欠席の正当性を、態々医者に高額の診断書作成費を払ってまで証明させることは、明らかに不利益な扱いだからである。いわんや、どんな理由であろうとも欠席を同一扱いする講師に至っては、彼をむしろ社会性の無い人物とさえ評価することができる。病気欠席を認めないのであれば、学生は必然的に出席調査上の不利益(授業欠損上の不利益ではない)を自分で負担するか、病を押してでも出席して無理矢理聴講することになる。だが、そのようにして強制的に出席させた学生の聴講が、その学生にとっても、またその授業にとってもよい結果をもたらすとは到底思えない(これは無論、サボリの学生についても言えることである)し、逆にそうした講師の態度は、病人に対する思いやりを著しく欠いた幼児的な態度であるとすら評価できるのではないだろうか。
 あるいは、最近一部の心ある講師達の中には、授業中に積極的に生徒の聴講態度について、態々叱責したり怒鳴ったりする者も見られる。例えば、授業中に携帯電話がなろうものなら「コラ!」と一喝し、また飲食・睡眠を禁止したり、脱帽させたり等である。確かに、これらの礼儀知らずの学生達にこのような「社会化」教育を施すことは有意義であり、実際に携帯電話の着信音など授業の妨害となるのであるから、積極的に授業を受けたい学生の利益を守るという意味でも正当性がある。しかし、注意を学期のはじめに一度二度するならともかく、毎回授業中に1回は大声を出して怒鳴ったり、生活態度について長々と叱責したりするのは、そういった一部の怠惰な学生達の教育にはなるのかも知れないが、他の真面目な学生、即ちある程度礼儀作法も心得ており、大人としての社会的常識を持ちあわせている学生達にとってみれば、聞きたくも無い罵声につき合わされ、授業が中断するという意味でも極めて不都合かつ不愉快である。「人生の中にはそういった不合理や不都合なことが時として起こるのであり、それを経験するいい機会だ」と反論する(居直る?)者も居るかもしれないが、それはまるでジャイアンがのび太からおもちゃを強奪しておいて、「人生楽ありゃ苦もあるさ」等と言って自らの盗みを正当化しているようなものであり、説得力を欠くと言わざるを得ない。第一、真面目な学生にとっては不愉快なことに変わりはなく、真面目な学生の受忍限度を超えるものである。また不真面目な学生としても、「礼儀作法」を無礼な方法で説いているに等しいこうした叱責に、説得されないのも当然であろう。叱責や礼儀作法のしつけも、手段、方法や真面目な学生に対する配慮が適当でなければ、単なるイヤミになるのである。
 そもそも大学という組織それ自体、学生を二重基準(ダブル・スタンダード)で取り扱っているというべきである。典型的な例が前述の「授業中の叱責」で、一方で「君達はもう大人なんだから礼儀を知りなさい」等とのたまっておきながら、他方では不真面目な学生という特殊例を一般化し、学生を子ども扱いして叱責したり、出席調査等パターナリズム的な拘束を施している。大学事務当局にしても同様で、一方で学生を大人扱いして締め切り等を厳格に設定しておきながら、他方で自らに不利益なことについては「学生はまだ子供だから」という理由で規制したり不利益を正当化したりする。これを不条理と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。「それが社会の現実さ」等という格好いい台詞で流してしまうのは簡単だが、しかしそれが妥当でないことに変わりはないのである。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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