このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

弁護士に求められるもの
〜職業倫理を再確認すべきではないのか〜

中島 健

 近年、法曹実務家であり、「在野法曹」として市民のために法律的な事務を引き受けることを使命とする「弁護士」に対する信用が急激に低下している。例えば昨年(1998年)12月、「地下鉄サリン事件」など17の事件で刑事裁判を受けているオウム真理教開祖・松本智津夫(自称「麻原彰晃」)被告人の主任弁護人で、東京第2弁護士会に所属する弁護士・安田好弘容疑者が、強制執行妨害の嫌疑で警視庁によって逮捕されるという事件があった。死刑廃止論者としても知られる安田弁護士は、松本被告人の刑事裁判には国選の弁護人として参加し、松本被告人の徹底した弁護を行っていたのでだが、安田氏が旧住専(住宅金融専門会社)の債権回収を妨害するという、弁護士の法的知識を悪用する行為の容疑で逮捕されたことは、未だ裁判で有罪が確定した訳ではなく安田弁護士は単なる被疑者の段階であるとはいえ、社会の松本弁護団に対する不信感を一層増大させたといえるだろう。
 そもそも、松本被告人の国選弁護団に対しては、裁判の日程を巡るトラブルや、検察側の提出した証拠や証人に対する瑣末な質問など、刑事被告人の弁護のあり方としては甚だ疑問な法廷戦術を採用している、として、裁判開始直後から社会的な批判の声が高まっていた。一部では、逮捕された安田弁護士をはじめとする死刑廃止論を唱える弁護士達が、松本被告人の裁判を引き伸ばし、松本被告人を獄死させ死刑を回避することで自己の政治的信条を満足させようとしているのではないか、という批判も為されており、松本弁護団はこのような社会的な批判に対して、きちんと答える義務があるはずである(これは、現在捜査が進んでいる和歌山保険金詐欺事件の弁護団についても、同じである)。

 元来、法律を扱う弁護士という職業は、「国法体系」という一つの価値観の上で、「法律」という名前の膨大な社会的ルールを持って行う論理操作(またはそれに関する相談に応じること)を任務とする専門家であり、元来その根本的な思想や価値観を問いなおすこととは、あまり縁の無い職業である。例えば、ある法律の合憲性が問題となって訴訟が提起された時、原告側の弁護士は、国を被告として、裁判官の前で合憲違憲についての議論を戦わせることになるわけだが、裁判所では、原告側も被告側もそして無論判断を下す裁判官も、予め「近代立憲主義」という一つの近代的価値観を前提として議論をすることになる。また法律上も、裁判所はあくまで「法律上の争訟」のみ扱えるとされており、換言すれば、裁判所は近代立憲主義とその下位構造によって構築された近代的法秩序の世界のみを問題とすることしか出来ないし、またしようとしないのである。勿論、こうした一連の近代的法律制度は、無用な対立を回避して社会を維持してゆくためには当然必要なものであり、「近代国家」である我が国におけるそれらの意義や重要性は否定されるべきでは無い。しかし、近代立憲主義憲法及びその下に成立した法令は、そのような社会的重要性が認められているとはいえ、言ってしまえば単に社会に無数に存在する価値観のうちの、ある特定の一つの価値観に過ぎないことも又事実であり、それ故に、時として社会の中にある別の価値体系との摩擦を生ずる場合があるわけである。
 他方、一歩「法律」という世界から抜け出てみると、普通の社会生活の中で行われる様々な論争や討論は、必ずしも参加者間で価値観が共有されていない場合がある。従って、こうした場合に議論や討論を行うには、まずはその前提条件となる価値観を検証し、吟味をした上ではじめて、その共通基盤の上に成立した論理体系を扱う「討論」に入ることになるのだが、こうした一連の作業を行う事によって、議論や討論は参加者の思想信条を研鑚し、自己の依拠する哲学を改めて問いなおすよい契機となる。言い換えれば、異なる前提条件について検討を加えるところに討論の意味があるのであり、またそれ故に、議論や討論を基調とする政策決定方式が、現代でもなお最も支持される方法となっているのである(もっとも、言うまでも無いことだが、そうした方法が正しく機能するためには、参加者達が予めそうした討論の在り方を了解している必要がある)。
 ところが、近代法制度に立脚した上で「法律上の」議論を行っている弁護士たちは、(法学者を兼ねている場合は別として)こうした価値観や思想信条の研磨といった行為を必要とはしない。無論、最終的な結論として「どちらの弁護をするのか」ということを判断する際に、弁護士には法律以外の価値観を働かせる余地が残されているのであるが、一旦「法律上の争訟」を行う裁判に入ってしまえば、もはや既に証明された強力な価値体系として「近代法制度」を利用するだけで必要かつ十分なのであり、哲学者ではない以上仕事としてはそちらのほうが重視される(事実、弁護士の報酬は裁判で勝つからこそ支払われるのであって、「味方についてくれたから」支払われるのではない)(つまり、裁判とはディベートであって討論ではないのである)。これは、「特定の価値体系が所与のものとして与えられている」という意味で医者や科学者、宗教家といった職業も同じ傾向を持つのであるが、私は、こうした弁護士業の特性が、社会的に問題とされる弁護士が後を立たない理由ではないかと考えるのである。無論、私を含む一般人のほとんどは、先に述べたような価値観の再検討を常時行っているわけではなく、また例え各自の価値観に誤謬が含まれていてもそれほど大きな影響は無いのであるが、こと弁護士業に関しては、それがある価値観と別の価値観が究極的な対立を迎えた時、第3者的価値観としての近代法制度を持ち出して判断を加える職業であって、その社会的責任は大きくその過ちは他者に大きな影響を与える可能性がある。それゆえ、弁護士とは本来、最も厳格なる自己分析と自己批判の精神とを必要とする職業なのであるが、しかし、現在問題となっている一部の弁護士達の中には、そうした職業倫理としての厳しい批判精神を忘れ、悪しき法実証主義に陥っていると思われる人々が散見されるように思われるのである。

 松本弁護団に対する報道や社会から寄せられた批判に対して、弁護団側は「刑事訴訟制度に対する無理解である」として反発し、中にはそういった弁護団側の主張をそのまま伝えている新聞もあると聞く。勿論、このような弁護団側の主張は「法的には」全く正しく、いかに弁護側がイジワルな法廷戦術を採用したとしても、それは刑事訴訟法制度という一つの基盤の上での合法的な訴訟の戦い方である以上、弁護側が今後そうした法廷戦術を止めるかどうかは一重に弁護団自身の職業倫理(批判精神)にかかっている。ちょうど、将棋の棋士がどんなにいやらしい手で敵の「王手」から逃れようとも、将棋のルールに合致している限りはその棋士を非難できないのと同じことである。しかし、将棋やトランプ等の遊戯ならばともかく、刑事訴訟の弁護という社会に深い関係性を持っている行為の場合には、一旦誤謬を犯した場合の事の重大性を考慮すれば、外野からの「野次」は決して無視されるべきものではない。その意味で、弁護団側の「法制度に対する無理解」という反論は反論としては不十分であって、弁護士個人の価値観に依拠した「本音の意見」(何故、私は松本被告人に対して法的技術サービスを提供するのか、ということ)こそが表明されるべきであり、社会も又それを期待しているのである。
 最後に私は、松本弁護団に参加している国選弁護人を初めとする全ての法曹実務家の人々に、法曹の職業倫理とは常に自己を省みる精神態度を持つことであり、また社会からの意義ある批判に対して誠実に応答することであるということをここに強く訴えて、筆を置くことにしたい。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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