このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

教育私論
〜自らの知的育成を自力に帰すことのできない者に発言する資格はない〜

田口達朗

 私は最近、自分が他人に期待しすぎているのだろうかと思うことがしばしばある。例えば田舎の親に私物の郵送を頼んでいるのに1月以上も経、年も明けてしまったというのにいまだにこの手に届いていなかったり、という時にとりわけそのように思う。親にしてみれば見慣れた我が子に対してなぜわざわざこんながらくたを何度も郵送しなくてはならないの!と鬱憤をためていることだろう。
 一般に、日常生活においてわれわれが最も煩わされるのは対人関係においてである。かゆいところまで手が届く様に細やかな心を使ってくれる人はそうはいないし、むしろ他人の横柄さ、無分別に閉口することの方が遙かに多い。聞こえは悪いかもしれないが、私自身も割とそのような性質を持つことを認めるものである。そして幾分かそんな自分に満足もしている。なぜなら、あまりの貞淑さにはある種の異様さを感ずるし、又、道徳は脳髄の堕落であるとまで言い切る詩人もいることであるし。ただ誤解して頂きたくないことは、別に私が独自の倫理観を持った上で反逆的に生きるといったことを至上としている訳ではない、ということである。憧れはあるのだが。
 さて、道徳といえば宗教がまず思い浮かぶ。「おお主よ、私の罪をお許しください」という台詞は映画や小説でたびたびお目にかかるものであるが、現代において、あるいは我が国においてはその根拠の所在が曖昧であるといえる。それは「世間様」と呼ばれるものであったり、単に両親のしつけであったりするのである。教典を持たない分だけ自由な面もあれば、手前勝手で未熟極まりない「道徳」もまた個的に蔓延する。しかしここでは「世間はおまえじゃないか」などということは問うべきものではない。道徳に限るものではないが問題といえるのは、思いこみそこで思考が足踏みしていることなのである。
 一般に論理の進展がないところのものを感性だとか、生理的なものだ、それが個性だ、と言って片づけてしまうことは易いだろう。もちろん極限的にはそうなのであり、そこでそれを次元と程度などという言葉を持ち出し他人の価値観を値踏みをしたりする者もいれば、その深みなどは問題にせず最高級の讃辞を贈る者もいる。しかし知と愚がそこには共生していることに疑う余地はない。『護美』、その文字面とそう呼ばれる物とのミスマッチにふと驚かされたときのように。
 「皆さん、疑いなさい。疑ってかかりなさい。子供は批判能力がありませんからね、すぐに受け入れてしまうんですよ。皆さんにはできるはずです。」と説く某法学部教授の意図に自己懐疑の教授までが含まれているかは別として、哲学のはじまりはやはり疑うことからであろう。「神とは裁く者なのか?」といった具合に。しかしながら思考力としての批判を訴える彼の言葉は、どうやら彼の言うところの元神童達の、ややもすれば消えてしまいそうな自尊心を慰めるだけに終わってしまっている感もある。自分を問い直してみることにしろ、今まさになされようとしている教授に対して懐疑的な目を持つことにしろ、必要なのは自分の頭と、目と、耳。おわかりか、口は要らないのである!故にペットボトルも不要。あの教授のあの言動も学生への親切心あればこそなのである。
 ところで、思想言論の自由市場という言葉がある。そもそもすべての思想はともかくも公にされるべきであり、公の場において意見を戦わせることによって初めてより正義や真理に近づくという考え方である。初等中等教育にあてはめるなら教科書の検定などの事前抑制の問題であるが、大学教育においては止揚の部分が該当するはずであろう。最近、将来の大学全入時代を見越し入口管理から出口管理へといった大学改革の動きがみられるようになったこともあってか、学生の間でも指導者層の教育のあり方などのついての議論がきかれる。細分化された知識の再統合、学習指導要綱改革の是非など様々なことが言われているがいずれにしても進歩は競合から生まれるものであることから口を閉ざせなどというのは一見ナンセンスである。
 では、競合としての批判がその論理の上で進歩であり得るときとはどういう場合であるか。まずはその批判に確かな論理性が存することが必要である。価値観のぶつかり合いなどでは話は前には進まない。また、主張の根拠が不見識なものではそのような競合は競合足り得ず、まさに虫も食わない夫婦喧嘩である。
 そして話は必ずしも批判してくる人間がいる場合にとどまる必要はない。自然を相手に、ときには「驚くべき証明を発見したがここに記すにはスペースがない」などと付された未証明の定理に一生を費やすような科学者達が(中には初めから手を着けなかった天才もいたが)否定と想定を繰り返しながら歩みを進めてきたこともまたそうである。そしてそれは妄想や下世話な詮索心などでは決してなく、それこそまさしく好奇心とよべるものなのである。なぜなら自らあらゆる側面からの厳しい目を、自らの想定に向けているのだから!彼らは現実という真理を相手取っているのだから!
 けれども「想像するって楽しいことよ」と言う文学少女が、「まねごとは罪ですよ」と諭す大人など知らぬ顔で、自ら小船に両の手をあわせ横たわり、友人たちの弔いを受け、独り川を下りつつその至福のひとときを過ごすこともまた妄想ではないし、たとえそれがある小説の二番煎じであろうがなんらのケチのつくものではない。しかし彼女が、想像が現実からの否応なしの否定を受けないからと言って、隣の青年を「あの人は色彩と存在とで私達に語りかけてくる、帰る宇宙船を亡くした火星人よ」などと言い指さしあざ笑っているのであればただの狂言であり、その言葉を疑うことなく信じる彼女の友人は木偶である。そこには宗教を尊守した地動説のように、現実からのある種の逃避すら見受けられる場合もある。そう思いたいから自ら思考をとどまらせ、ひどい者になるとその愚かな言動を所かまわずまき散らし公共を害するのである。
 さて、見識を身につけさせることができるのは教育者をおいて他にない。それは思考を育成するという観点から、人生の初期にあっては親がこれを担うこととなるが、その後その任を任されるのは基本的に個人である。なぜなら子供の自発的な思考を促しながら十数年導いてやることのできる親はどこかで放任的でなくてはいけないものだし、高圧的な親なら子供はさっさと自立する。初等教育における教師は、支配・被支配関係を築こうとはしていない一部の例外をのぞき侮蔑の対象でしかない。その点、「優等生」はある意味怪しい者であるはずなのだが。
 そもそも競合とは共生の裏返しのはずである。個的な林立を支える土壌が傲慢であっても、そこには立派な竹なり巨木なりが真っ直ぐに育つことは十分に可能なはずのなのである。
 自らの知的育成を自らの手によること。自己批判のできる者こそが競合としての批判をする資格を有する。好奇心は詮索心であり、想像は妄想であり、勇気は逃避である。「事実」は虚構なのである。さもなくばそれは相手にしても徒労であり、悪態の応酬にすぎない。共生に値もしないだろう。
 そしてこんな話は最高学府である知の社にふさわしからぬ戯れ言のはずである。

田口達朗(たぐち・たつろう) 大学生


目次に戻る   記事内容別分類へ

製作著作:健章会・中島 健 無断転載禁止
 
©KENSHOKAI/Takeshi Nakajima 1999 All Rights Reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください