このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「対話」のために
〜新たな年を迎えるにあたり〜

舟橋智久

 他人を理解し、自分を理解するために対話は行われる。他人を理解していない人は、自分も理解していない。何故なら、今、自分のいる「位置」を理解することが出来ないからだ。ゲーテが、「一つの言葉しか知らぬものは、すべての言葉を知らぬのと同じである」といったように。
 また、他人に自分を分からせようとすればするほど、自分は自分のことを分かっていないことを、強烈に意識する。自分という「円」を理解していないから、自分という「円」をそのまま伝えることも、多角形として近似して伝えることもできない。
 対話は、言葉のみを使うものではない。自分が他人に対して、他人を分かろうとして行う行為、自分を分からせようとして行う行為は、全て対話だ。沈黙も、涙も、暴力も、対話の道具になりうる。逆に、「分かりたい」、「分からせたい」という思いのないところに、対話はない。そこに、どれほどの言葉がただよっていようと。
 分からないことを「分からない」ということ、つまり「分かったふり」をしないことが、対話する際、重要である。その場を取り繕おうと、虚勢を張ろうと、「分かったふり」をすることは、分かることとはもっとも遠いところにある。
 「分かりたい」、「分からせたい」という思いこそが、「誠実」であり、その思いを実現しようとするこころみこそが、私のいう「(誠実な)対話」だ。
 自分自身、自分のことをよく分からない。「自分のことが、よく分かっている」人は、おそらくいない、と思う。そうである「自分」が、そうである「他人」を分かろうと対話するのは、「生真面目な悲劇」に他ならない。しかし、分かろうとしなければ、分からない。分かろうとすれば、もしかして分かるかもしれない。私は、その可能性を追求する悲劇を演じたい。

舟橋智久(ふなはし・あきひさ) 大学生


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