このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

全国紙は高級紙を目指せ
〜安易な思いつきの文章を掲載する勿かれ〜

中島 健

■1、はじめに
 高度に発達した現代社会を生きている我々にとって、報道機関(マス・メディア)の影響力というものは通常人の想像する以上に大きなものであり、しかし民主制の維持発展にとって欠くことの出来ない重要な要素の一つである。特に、情報伝達を音声のみに頼るラジオや、映像と音声を同時に伝達し視聴覚的な情報量も多い分一過性の強いテレビジョン(しかも、放送法上、放送会社の特定の見解を伝達することは禁じられている)とは異なり、活字によって読者に伝えている新聞メディアは、反芻可能性(朝軽く読んだ記事を夕方もう一度落ち着いて読むことが出来る、記事は後々まで残る)や論理性(ショッキングな映像等によって報道内容が歪む可能性が少ない)という点で他のメディアと比較して優れており、普及率も高い。
 ところで、報道各社は一般的に、単に情報を伝達するだけでなく、「社説」や「論説」というかたちで、何等かの見解を発表している。また、実際には、報道する姿勢(扱い)や情報源の選択、写真等の構成、専門家・投書の掲載基準といったことから、一見単に情報を伝達しているように思われる本文記事であっても、実はそこには既に恣意性が入りこんでいるのである。例えば、各社の読者投書欄を読んでみると、その新聞社の姿勢がはっきりとわかるのは、投書の掲載基準に自社の社説が混入されているからである。つまり、各社の新聞は全体として、読者に対するある種の説得行為を目指しているわけであるが、問題はその方法である。

■2、二種類の説得方法と新聞社
 通常、説得の方法としては「論理的方法」と「非論理的方法(人格的、あるいは感情的説得)」が考えられるが、どちらの手段をどれだけ援用するかはその説得行為の主体・客体・目的によって左右される。例えば、物理学会の研究発表や裁判所における法廷弁論では、専ら重視されるのは論理的な説得のほうであり、非論理的、つまり感情的な説得行為は場合によってはかえってマイナスとなる可能性もある(もっとも、それは何もそれらの説得行為が純粋に論理的側面のみで成立していると言いたいわけではない)。これに対して、例えば宗教的行事において教義を説法する行為であるとか、社会運動を盛り上げる際の街頭演説といったものは、非論理的な説得方法を主として用いており、また(効率的な説得のためには)そうするべきなのである。更に、英語のスピーチコンテストでは、説得性そのものよりも声調態度、英語表現の適切性が重要視されるのに対して、選挙中の演説では、国語的正確性や論理性よりも説得性のほうが重視されるわけである。
 ところで、全国紙等の経営規模が大きな新聞社は、それだけ定期講読者の増減が少なく、従ってある意味では時々刻々の(短期的な)国民世論に左右されることなく、より長期的な視点に立った独自の見解を打ち出し続けることが出来る(実際、よく知られているように、全国紙の中では朝日新聞と毎日新聞がハト派(乃至革新系)、読売新聞と産経新聞がタカ派(乃至保守系)という色分けが出来あがっている)。つまり、上記の分類に従えば、地方紙等の経営規模が小さい新聞社やスポーツ新聞(そもそも、スポーツ新聞は、全体としてはもはや説得行為すら行ってはいないようにも思われるが)等の読者層が限定された新聞社よりも、論理的説得の可能性が高いということが出来るのであり、従って全国紙は論理的説得に適しているということが出来るのである。実際、例えば、既存のスポーツ新聞社が、突然安全保障関係の記事で理路整然とした見解を述べ、芸能欄や野球欄を大幅に縮小したら、おそらくその社の経営は成り立たないであろうし、逆に全国紙が、一面から大きな活字で芸能情報を掲載したら、たちまちのうちにその新聞は信頼を失うであろう。
 ここで私は、何も論理的説得行為のほうが感情的説得行為よりも価値的に上位にあると主張したいのではない。ただ、非論理的説得行為は比較的広汎かつ容易に行われ、読者と新聞社との距離の近さや経営規模から見て中・小規模の新聞社に適切であるのに対して、大規模な新聞社にはむしろ論理的な説得のほうが適切なのであり、また大規模な新聞社しかそうした説得行為を実施できる基盤を持っていない以上、大新聞社はむしろ論理的説得を志向すべきだということを強調したいのである。実際、非論理的説得は日常的に簡便に行われているが、これに対して論理的な説得は、論題に関する一定の知識を要するために、実際には非論理的説得よりも少ない回数しか行われていない。従って、そうした論理的説得行為を行う新聞を敢えて「高級紙(クオリティー・ペーパー)」と呼ぶとすれば、大新聞(全国紙)は須らく「高級紙」たるに相応しいのであり、またそうあるべきなのである。
 無論、そもそも論理的説得行為が知識人向けの「高級紙」と言えるのか、説得行為の選択は販売部数ではなく読者層によって決定されるべきものではないか、といった批判はあろう。事実、欧米における「高級紙」は必ずしも「全国紙」ではなく、販売部数が少なくても高水準の記事を誇っている「高級紙」も存在する。しかし、私がここで「高級紙」と呼称しているのは「知識人を対象としている」という点ではなく「論理的説得を心がけている」という点であり、その意味では欧米の高級紙がただちに私の定義における高級紙であることにはならない(知識人が常に論理的であるとは限らない)のである。

■3、全国紙の現状
 だが、実際の全国紙に目を転じてみると、その記事には必ずしも論理的な記事ばかりではなく、むしろ人格的・感情的なそれのほうが目につく場合が多い。こうした大新聞の「感情性」は我が国報道業界の伝統的な悪弊なのか、それとも国民の水準が論理的説得に耐えないからであるのかは不明だが、いずれにせよ、そうした傾向が我が国政治を誤った方向に導きかねないことは確かである。戦前の我が国がよい例で、新聞各社は軍部官僚の情緒的な主張をそのまま掲載し、場合によってはかなり煽動的な論調で国民世論を惑わせ、それが結果として外交政策の誤謬へと繋がったことはよく知られている通りである。
 しかも、困ったことに、戦前の「軍国主義体制」を声高に批判する新聞ほど、自己の報道責任や倫理についてもっとも無頓着な態度をとっており、現在に至るまでそれが続いているのである。例えば、最近の政局における自自公協力について、これを「数の論理による強権政治」であるとか「法案を自動的に成立させている機械だ」等として批判する文面がしばしば見られるが、一体これらの記事は何を主張しているのであろうか。多数決(過半数決)制度は民主制の目的ではないかもしれないが重要な手段であり、国民の審判によって多数派を形成したものが多数決によって法律案を実現させることは正に憲法の定める議会政治のあり方であって、それさえも批判するというのは余程奢った、反「民主」的な態度であろう(特に「民主主義」擁護を標榜している全国紙にとっては)。無論、選挙後に政党が民意を裏切る可能性はあるだろうが、それを修正するために存在するのが4年後(乃至6年後)の次の選挙なのであり、つまりはそれも又国民自身が担うのであって、いずれにせよ新聞社がしゃしゃり出てくる場面ではない。結局、これらの記事は、自社の政治的立場に合致する場合には多数決を「民意の反映」等と称し、合致しない場合には「数の論理」と名付けて批判しているだけのことである。更に、いわゆる「論説委員」と呼ばれている人々が、こうした論理的に杜撰な記事を書いているというのは驚きであり、もしそうした記事を書きたいというのであれば、彼らは「論説委員」ではなく「感説委員」を名乗るべきであろう。

■4、おわりに
 前述したように、民主制国家にとって報道機関は重要な位置をしめており、国民世論の形成に直接深く関与しているという意味ではむしろ第1権力に属するような性質を備えている。この地位は、インターネット等の新しいメディアが普及しつつあるとしても、大枠ではかわることはないだろう(インターネットは能動的に動かぬ限り情報は得られないが、新聞は費用さえ払えばある程度強制的にやってくる)。しかし又、報道機関は、そうした大きな影響力故に国政についての大きな責任をも又担っているものと自覚すべきであり、我が国が衆愚政治に陥るや否やはマスコミに負うところが大きいということを理解すべきである。特に、国政レベルを扱う全国紙はなおさらであり、全国紙の過ちは昭和戦前期と同じく最終的には我が国の破滅すら導く。であればこそ、全国紙には「高級紙」としての矜持を持ってもらいたいし、またそれを目指すべきではないだろうか。

 中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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