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新しい大国主義外交へ
〜理念なき外交の迷走からの脱却を図れ〜

 中島 健

1、はじめに
 東西冷戦が終結してから既に10年が経過しようとしている今日、世界は新たな秩序を模索し、既に実行段階に入っている。例えば、冷戦の主戦場であった欧州では、経済的にはEU、軍事的にはNATOという枠組みを維持したままで、従来の北大西洋条約第5条の「共同防衛」以外の領域外任務(「非5条・危機対応活動」)が中心となり、欧州周辺地域を関心範囲として動こうとしている。また同時に、NATOは、欧州地域の一大不戦地域として、欧州内安全保障の最も基礎的な枠組みとなっている(ユーゴ及び小国を別とすれば、全欧州諸国が加盟国又はPFP=「平和のためのパートナーシップ」協定の下NATOとの安全保障関係を保っており、更に、OSCE=欧州安保協力機構やWEU=西欧同盟もNATOの軍事組織無くしては有効に機能し得ないのである)。
 ところで、こうした「ニューNATO」のあり方を巡る議論は、欧州側からも又主体的な参画があって策定されたものであるが、一方、東アジアにおいては、冷戦後の我が国が歩むべき外交政策は未だ未知数のまま放置されている。政府は、1996年の日米安保共同宣言及び1999年ガイドライン関連法案成立というかたちで、「ニューNATO」類似の協力関係を決定はしたが、その方向性は、日本国内の政治上・憲法上の制約から、依然として日本が経済を、アメリカが政治・軍事を担当する「垂直分業」構造のままである。

2、冷戦終結と日米新安保の問題点
 元々、冷戦末期の中曽根康弘内閣ーロナルド・レーガン大統領時代、日本は、経済的にはアメリカのドル建ての国債を大量に購入することでアメリカの軍拡予算を下支えし、日本自身も「不沈空母」となって防衛努力を行い、東アジアにおけるアメリカのプレゼンス維持に貢献した。こうして、ソ連との「新冷戦」の勝利に貢献したために同盟国としての期待をかけられていた日本はしかし、91年の湾岸戦争で対米貢献を金銭面に限り人的貢献・軍事的貢献には極めて非協力的な対応をとったため、アメリカ政府当局者からの「同盟国」としての信頼を一気に失った。その後、東西冷戦の終結で、アメリカ政府部内にはむしろ日本を経済的な脅威と看做す議論が高まり、「経済安全保障」の掛け声の下、貿易摩擦や構造協議といった場で関係が冷却化していった。こうした動きに対して、日本外務省及びアメリカ国防総省の一部に、「同盟漂流」の状態を打開するために「日米安保共同宣言」に向けた動きがはじまり、ジョセフ・ナイの「ナイ・レポート」や樋口廣太郎・アサヒビール会長を座長とする「防衛問題懇談会」の答申が出された。そして、おりからの朝鮮半島危機によって日本を安全保障上の「同盟国」として再認識したアメリカ側を取りこんで、我が国は、「安保共同宣言」そして「ガイドライン改訂」へと動いたわけである。
 しかし、この一連の日米安保再定義は、それが日本にあって国民的な議論とはなり得なかったために、従来の憲法的・政治的制約を何等変更することが出来ず、やむを得ずこれらの制限の下に最大限の拡張解釈を以って外交当局が作成したものであった。それ故に、我が国の外交上の役割は経済分野に限定され、日米同盟における政策的な決定の主導権は、依然アメリカ側に留保されているのである。無論、残された超大国・アメリカとの外交・経済上の協調関係の維持それ自体は好ましいものであるが、しかし、こうした我が国の国内事情から来る外交上の制約、つまり外交の民主主義的な統制は、残念ながら我が国をしてアメリカの下請け的立場に立たしめているのである。換言すれば、我が国は自ら世界の、いや「歴史の開拓者」たらんとする地位を放棄し、アメリカの切り開いた世界の中でアメリカとの垂直分業体制によって国際社会を生きようとしているのである。現在の如く、国民世論が世界の潮流に無関心で新たな秩序形成への外交理念を持たず、専ら他者によって形成された国際社会の枠組みの中で国益を追求しようとする態度を「小国主義」と称するとすれば、現在の我が国は正に「小国主義」国家ということになろう。

3、現場が指摘する「理念無き外交」の弊害
 こうした「理念無き外交」の問題は、実は、既に外交の当事者である外務省の幹部からも指摘されていることである。少々長くなるが、ここに引用する。
「まず、大野勝巳大使(『霞ヶ関外交』)。
 戦後外交不振が嘆かれている。加えて外交技術上のミスがでると、誇大に報道されて、外交がたるんでいるという酷評を耳にするのである。
 占領下、日本の政治家も官僚も外交は占領軍当局を相手とした渉外事務にすぎないという程度の認識しか持っていなかった。外交感覚等は影をひそめてしまった。要は占領当局への従属関係を如何にうまく進めていくか、出来るだけ占領軍の良い子になろうということ、これが外交だというように考えられるようになった。ここには外交上の経綸などというものは片鱗だもみられなかった。サンフランシスコ平和条約で独
立国の地位を回復した。しかし、自主的な外交感覚を取り戻せと言ったところで、長い間の惰性が働いているから、なかなか無理であって、相変わらず、アメリカ任せの姿勢が続いていたのである。
 国民の頭は経済で世界に目を向けるという観念に固まっていただけに、経済成長さえすればよいのではないか、何もそれ以外に難しいことを考える必要はない、米国に従ってさえいればよいのだという考えが日本人の頭の中に根をおろしてしまった。一度自主独立の精神を喪失すると、再びこれを取り戻すのが如何に難しいかを想い知らされる。外交不振の原因を見てみたい。第一は二元外交の弊。第二は外交官の感覚、『勘』を尊重し、活用しないこと。第三は日本には長期的な外交目標の検討が欠けていることである。
次いで、加瀬俊一大使(『日本外交の憂鬱』)。

▲外交のあり方が問い直されている(写真は外務省)

 近年の日本外交にはヴィジョンが欠けている。将来を展望して、日本の将来を大きく策定する意欲も能力も少ないように見受けられる。これは日米安保条約によって、日本が米国の庇護に多年慣れているので、まだそれがわが経済発展に多大の寄与をしたために、『これでいいのだ』という安逸な思考パターンが定着したからだと思われる。
 日本の外務官僚は事務能力は抜群で、世界の一流に属する。だが、視野が狭く、ヴィジョンに欠ける。外交戦術はあっても外交戦略はない。本省勤務でも在外勤務でも、事務処理をするのに精力を消尽するので、長期的政策を考慮する余力がない。」
(孫崎 享『日本外交 現場からの報告』 中公新書、1993年 129〜130ページ)
 その後、外務省も国際連合局を廃止して総合外交政策局を新設する等して自己改革を試みてはいるが、肝心要の「国民世論の水準」については一向に変化の兆しが見られない(むしろ、内政にすら関心度が低下しているのは、昨今の国政選挙の投票率の低下からも明かである)。

4、「戦前日本外交」という前例
 思い起こせば、我々は既に「理念無き外交」「小国主義」に陥ることによる過ちを、過去に経験したことがある。それは、第二次世界大戦に至る近代前期の明治国家・日本である。
 1868年に明治維新を決行し、近代日本の工業化・独立維持に邁進した明治の元勲達は、植民地帝国主義及び近代立憲主義という時代の流れ、世界政治の潮流を敏感に感じ取り、我が国がこれらの事実上の標準から逃れることは出来ず、自ら「歴史の開拓者」たらんと欲しなければ結局は他国の支配を受ける「歴史の客体」に没落してしまうであろうことを認識していた。換言すれば、彼らは、当時の時代状況がもはや我が国をして「大国」(「小国」とは逆に、世界秩序形成の理念と行動力を持ち、他国の国益も考慮しつつ自らが国際社会の牽引役となって動くことで最終的な国益を追求するような国家)たる以外に生存の途が無いまでに切迫していたことを識っていたのである。無論、こうした外在的環境を意識した外交は、古くは「民力休養・政費節減」から「臥薪嘗胆」まで、時として国民世論との衝突を生んだが、幸い明治の元勲達が近代日本の路線を決定していたころは未だ憲法や議会といった国民世論と権力装置を直結する民主的制度は存在せず、公論を気にすることなく、外的環境にあわせた最適の外交政策を選択することが出来たのであった。
 だが、時代が下って大正デモクラシーを経、報道機関の発達も相俟って次第に国民世論の影響力が増加してくると、外交政策と国民世論の衝突は避け難くなり、それに伴って従来の大国主義路線は次第に小国主義路線へと修正されてゆく。ここでいう「大国主義」とは、領土や軍隊の拡張を主目的とする等の一般的な用法によるものではなく、前述したように「歴史の開拓者」たる行動をとるということであり、かつ、その必然的帰結として、現状の国際社会の潮流のプラグマティックな把握を出発点とするものである。また、逆に「小国主義」とは、そうした「歴史の開拓者」たるの地位にあることを否定し、他国の描く世界像に便乗するだけの非自主的なあり方のことであり、かつ、国際社会のトレンドに無関心である「歴史のフリーライダー」のことである。この時期以降の我が国外交は、第一次世界大戦がもたらした世界政治の潮流の変化に国民世論が気付くことなく、むしろそうした国民世論やマスコミに流されて、外交上パラダイム・シフトが行われなかったのである。時代との整合性を失った外交政策は小国主義となり、これに1920年代の不況が拍車をかけた。昭和戦前期に至って我が国は、「大国主義」外交を目指していた親英米重臣及び山本五十六ら海軍条約派と、国民世論の支持を背景に権力を拡大し、国民と共に狭窄な視野から世界の潮流を無視して大陸進出を強行した陸軍及び海軍艦隊派の「小国主義」の対立の時代に突入した。そして、一層発達した公共報道機関と、弾圧された左翼社会主義政党の代りに不満の受け皿となった陸軍の力によって、「小国主義」外交が次第に優位に立っていたのであった(ロンドン海軍軍縮条約における統帥権干犯問題等が、そうした対立のよい例である)。この時、左翼政党は弾圧され、近代国家体制を純化した形で受容してしまった我が国は、近代民主制の悪弊をも又純粋な形で生んでしまったた訳だが、そうして1868年当時の方針を固持してしまったツケは、最終的に、1945年の敗戦・占領をもたらしたのであった。

5、戦後日本外交の再挑戦とその挫折
 このように、日本外交の「小国主義」は、1945年の敗戦を以って破綻した。世界の現実政治に立脚しない空想的な独善主義が、「歴史の開拓者」という視点を「日本史の開拓者」に堕落させた外交政策が、団結した他の連合国諸国に打ち破られたのである。そして、その時我が国の「大国主義」外交派が採用したのが、東西冷戦という時代状況を冷徹に計算した「弱者の脅迫」、つまり日本共産化をカードとしてアメリカの支援と同盟を求め、自らは世界最強国の開拓した歴史を、経済復興に最適な軽武装という形で歩もうという吉田茂外交(吉田ドクトリン)であった。そしてそれは、将来の新たな「大国主義」を前提とするものであるはずだった。憲法が改正されたとはいえ、占領軍による統治という非民主的な環境の中で新たな外交方針の設定を行うことが出来た吉田の地位は、憲法制定以前の段階で自由に動くことの出来た明治の元勲たちと似ていた(それゆえ、彼は「非武装中立・全面講和」の声を押し切って「日米安保・片面講和」を選択し得たのであった)。
 我々は、もはや二度同じ過ちを繰り返すわけにはゆかない。しかしながら、現実の戦後日本外交を俯瞰して見れば、それは常に空想的で無思考的な国民世論によって「小国主義」への傾斜を深め、かろうじて外交当局がそれを抑えていたことがわかる。先の大戦についても、真実は、戦前日本が失敗したのは陸軍と海軍艦隊派、更には報道機関と国民による「小国主義」外交であったのに、それが世俗的な意味での「大国主義」と混同され、戦後の我が国はむしろ架空の「大国主義」を反省してより一層極端な「小国主義」の路線を歩んでしまった。つまり、本来「小国主義」を反省すべきところ、誤って「大国主義」を反省してしまったのである。そして、戦後改革当時の吉田茂の目標を矮小化し、自由・平等・平和という極めて国内的・内向的な標語(これを憲法的に言い換えたのが「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」である)に代表される究極的な「小国主義」、即ち戦後民主主義的な外交を続けてしまったのである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と謳う日本国憲法前文に、その「小国主義」ぶり、即ち、東西冷戦という時代状況に全く目を向けようとせず、進んでみずから歴史の潮流に身を任せ、「歴史を開拓する」決意と根気を喪失してしまった戦後世論の精神的構造を象徴的に見て取ることが出来よう。加えて、こうした憲法が、時代状況の変化にも関わらず半世紀にわたり放置されていた点に、国民の小国主義的無関心ぶりが伺えよう。

■6、おわりに
 今、正に日本外交は能動か受動か、大国主義か小国主義かの選択を迫られている。経済大国化し「悪の帝国」ソ連が崩壊して、今や我が国はアメリカに対して「弱者の脅迫」を行える立場には無く(実際、これからも日米経済摩擦は消える事がないであろう)、朝鮮半島問題、台湾海峡問題に冷戦時と同様のコストでアメリカの関与を期待することはもはや不可能である。湾岸戦争で政治上の(手嶋龍一『一九九一年日本の敗北』、新潮社)、バブル経済で経済上の(吉川元忠『マネー敗戦』、文春新書)「第2の敗戦」を迎えたにも関わらず、政治は、日米安保条約を北大西洋条約(NAT)の如き完全に相互型の条約に改正するそぶりすら見せず、憲法第9条の改正は政治日程に上ってはいない。さすがに、テポドン事件や不審船事件を経験して、国民世論はゆるやかなシフトチェンジをはじめたかに見えるが、対症療法的な対応では結局同じであろう。問題は「ある外交方針が決定された後、民主的制度の下で、世界情勢の変化に対応して外交理念上のパラダイム・シフトが出来ない」という点にある(無論、一般的に、民主政体をとる国家はこうした問題に直面するものであるが、我が国の場合それが顕著である)。これは、近代日本外交150年の構造的な問題である。
 今こそ、日本外交に関心を寄せるべき我々国民は、『21世紀の我が国外交は如何にあるべきか』、つまり21世紀日本外交の理念について、真剣に議論すべき時ではないだろうか。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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