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米沢街道 桧原峠 Routo


 米沢街道!
前ページで述べたように、米沢街道は、大きく分けて
大峠ルートと桧原峠ルートの2つある。
両者は、時代時代により、主ルートの座を、何度も、交替してきた。
江戸時代、会津藩が幕府に届けた、「会津五街道」の米沢街道は、
この、桧原峠ルートである。

米沢街道 (桧原峠ルート)
                 (平地は、H14年7月初旬、山は7月末に撮影)
 米沢街道は、「会津の街道」トップで、既に、述べたが、若松ー熊倉
 (国道459号喜多方ー裏磐梯線 が、登り始めるあたりで、県道69号線を南に2km弱
  下がった集落)
 間は、

 真っ直ぐ、河東町西縁を、北上する上街道と、
 少し西に膨らみ、湯川村・塩川町を通る下街道がある。

 他に、中街道と言って、少し西へ行ってから、会津若松インターや国道
 121号線(現在の主ルート)付近を北上し、日橋川を渡る手前で上街道と
 合流するルートがあった。しかし、このルートは、ほとんど残っていない。

 1608年、蒲生秀行の時、上・中街道は廃止され、塩川を通る事に定め
  られた。 (下街道が本街道筋になった。)
 上街道は、ほぼ、県道69号線(北山・会津若松線)である。
 (←)国道49号線からの入り口:
  (郡山方面から来た場合)若松駅への交差点の
  直後、線路を越える陸橋を登りきる前に、
  右折車線に入る。頂上を過ぎたら、
 すぐ、右(北)に折れる。 (写真中央、白いガードレールの手前だ。)

 道なりに、河東町西縁を、北上する。幾つもの集落を通り過ぎ、
 日橋川を越えると、

 (→) 県道7号線(猪苗代・塩川線)のT字路に着く。
 ここは、左(西)へ折れる。道は右へ緩くカーブした
 後に、Y字路がある。Y字を右(県道69号線)へ進む。
 
 曲り角の集落を過ぎると、良い道路になる(最近完成)。
 集落のある旧道は、その後すぐの右の目立たない道である。
 両者は後で合流するので、どちらを行っても、熊倉集落には着ける。

 良い道路の終頃に、旧道っぽいカーブがあり、またっ!Y字路がある。
 左へ、グニャリと曲がると熊倉集落だ。やや細い右の道を、真っ直ぐ、
 進むと、小国山系の山麓を巻き、大塩温泉に至る。

 下街道への49号線からの入り口は、
 (郡山から来た場合、)アピオへ至る2つの交差点を過ぎた、
 次の交差点(←)を、右(北、湯川村方面)へ折れる。

 この交差点は、「会津の街道」トップページ、交番のある
 Y字路を右に入った道との交差点である。

 右に入って、蛇行しながらも北に進むと、湯川村の
 中心地、及川集落に至る。(→)

街道の一本西の通り
、及川集落と同じ緯度のあたりに、

 (←)会津の最古の寺の一つ、勝常寺があ
 る。慧日時と同じく、徳一が開いたと言う。

 右の木陰の白い鉄筋の庫裏には、国宝の
 仏像が安置されている。が、宮使えの身で
 行けける時間には、開いていなかった。
 詳しくは、 湯川村HP を!
  
 勝常寺から、さらに北上すると、北田集落に
 突き当たる。新道は、集落を避け、右へ緩く
 カーブして行くが、左の、集落への細い道を、
 あくまで北を目指して行くと、集落を抜けて、
 1km先、田圃道・右手に、北田城址がある。
 (←)   この写真は大きくなります。

 さて、及川に戻り、街道を北上すると、浜崎で、日橋川に行き着く。
 日橋川を渡ると、塩川町だ。塩川町には、塩水の
 泉があり、日橋川に注いでいたらしい。今も、その
 名残が”御清水”として残されている(→)。

 
 (御清水は、現在の国道121号線の橋でなく、そのすぐ
 西の旧道の橋(南の大橋)から西へ100m行った所にある。
 現在は、塩水は湧いていず、一般家庭の涸れた池 くらいの印象だった。)


 塩川村肝煎の栗村権七郎による、阿賀川難所の改修、船の建造の
 工夫等により、1686年、塩川宿と、新潟県・津川(大型船が入れるのは
 ここまで)
や大阪間で、年貢米や一般商品の舟運が開始され、
 塩川宿は、河湊として、栄えた。詳しくは、 塩川町HP 等。

 塩川町から、別府の一里塚(塩川中学校の約200m北、
 細いY字路を右に入ると、すぐにある。)
を経て、熊倉集落に
 向かう。

 
 街道は、耕地整理等で、途中で切れている。街道っぽい道を、
 つなぎ合わせると熊倉集落手前で、上街道と合流してるようだ。


 熊倉集落からは、小国山系の山麓を巻いて、揺るやかに
 登り、大塩温泉に至る。国道459号線と合流する。
 (熊倉からの道へは、上街道を来た方が、乗りやすい)

 459号線を少し登ると、大塩温泉街が終わる少し前に、
 (←)逆Y字がある。左手、少し戻る様に川を渡る。 
 赤い屋根の家の前を通り、その左を登る。

 登り始めると、すぐ、
 通行止めだ〜(→)
 でも、通れそうだ。


 (←)しばらく行くと、(本線:右手は)また、通行止め
 (今度はがっちりと)だ。(左手は、行き止まり?の林道)
 でも、通行止めの理由、解ってるから、行っちゃう。

 (←)途中には、若松盆地が見晴らせる所もある。

 江戸時代、会津藩は、各街道に松を植えた。
 このルートには、何本か残っている。(→)
 樹齢は300年位らしい。

 もっと凄い大木もあったが、広葉樹に隠され、
 また、部分的に枯れたりしていた。

 大塩峠(萱峠) と、茶屋 跡
  峠についた。茶屋か〜、右手の平らな所か?
  萱峠の由来は、塩(周りに塩の付く地名多いね)
  作るため、木を切り過ぎ、萱原になったからだ
とか・・。
 大塩峠から蘭峠(あららぎ峠)までは、長く緩やかに下り、
 緩やかに登る。

  (←)少し登り始めた左手に、史跡・中ノ七里一里塚がある。
 高さ1m位の土盛りの上に、案内の杭が有るだけだ。

 このルートには、他にも古戦場(伊達軍がチョッカイ出した時?
  狭い谷間だ!)
を示す案内杭も、幾つかある

蘭峠(あららぎ峠) (→)
 (実は、春先、ついでの予備調査で通行止めは分かって
  たので、大塩峠の前に、蘭峠(あららぎ峠)を取材した。)

 桧原集落からすぐの峠っぽい所で振り返ると、
 左半中央・黄緑の三角の頂点に白い棒がある。
 近づいてみると、”史跡・蘭峠 跡”と書いてある。
 
 下を見ると、道路が飴の様に、変形している。崩れを
 測量している人がいる。修復予定は有るみたい。
 (通行止めの原因が解り、その後に、大塩峠へ強気で入った。)
 
 蘭峠を下り、桧原湖北西・桧原集落に
 至り、桧原湖周回道路と合流する。

 桧原湖(当時は無かった!)と磐梯山が
 見える。(本当は、少し南で撮影しました)
 写真(→)斜めに見えますが、水平です。

 (←)交差点(の少し北)
 に、桧原の五輪塔
 (桧原領主・穴沢氏
 の墓)が、あった。
写真多くなったので、続きは別ページにしました。
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