このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

泰仙寺イワドウ

 四国へんろを志した時、遍路必需品として手配したものは、「四国遍路ひとり歩き同行二人 別冊」
へんろみち保存協力会編の遍路地図であった。平成10年末、発行元に送金、間もなく地図は届いた。

 東京に転居して自営業18年間、暇さえあれば(正月休み、盆休みを含め)古都鎌倉に通い続けた。
鎌倉に残る古の道を歩きたかったからである。鎌倉地図は歩き回った道という道、昔の匂いを残す山
道も共に赤線で塗り潰され、紙面そのものが赤くなっている。今は大事な宝物である。
その習性は四国の道を歩んでも治らない。「別冊」に朱書きされた遍路道は、すべて歩きたいのである。

 別冊遍路図を見て気になっていたのは、23番薬王寺奥の院泰仙寺。23番薬王寺をを目指して歩いて
来た55号線を2km程戻り36号線歩くことになる。この道を行けば、JR山河内駅までかなりの遠回りに
なる。打ち戻って歩く距離の伸びるのは精神的にも納得できなかった。

 遍路を始めて3年目、某寺某僧の勧めによりスタイルは遍路でも、既にアキカン拾いに変身していた。
日和佐駅前の宿から36号線の分岐まで、約2㎞の道程を戻らなければならない。拾い終わった道を
くのは無駄であると、7年間四国に通い詰めながら素通りしてしまっていた。

 07.8.8【88クリーンウォーク四国】5日さぬき市長尾町前山地区に参加。徳島県牟岐町お接待の
会は8月8日。前日7日、会のメンバーが泰仙寺への案内板取り付けに行くと云うので同行させても
らった。3人で決行。

  

 昔の登山道入り口を通り過ぎ、部落の人に泰仙寺への自動車道の入り口を訊ねた。
全輪駆動車でなければ無理な話。全輪駆動車でも歩いて登った方が無難との返事であった。
石段を登りはじめた。石段が切れると古を語る石塔やら石仏が姿を見せ、涼しさに一息つける登り易
い参道が続く。
束の間で車道に出る。軽自動車幅の砂利道、足は低い方にずるずると滑る。車で行くのは止しなさい
と言われた理由が初めて分かった、暫く行くと旧道がある。また車道に出る。この繰り返しである。

  
 木立の上の方で草刈り機の音がする。音が大きくなった時に屋根が見えてきた。
泰仙寺方丈である。今は人気も無くひっそりとしている。その先に玉厨子山泰仙寺が木々の緑の中に
沈んでいた。お参りをして振り向くと木々の間を縫って谷の方にもう一つのお堂があった。
二人とも下る元気はない。

  

 方丈に戻り草刈り人にイワドウへの道を確認。方丈の裏手の細道、約800m位と云う。
水筒は登山口の車に置いてきたまま、口中が粘々して声を出すのも億劫になってきた。
余りの暑さに頭がくらくらしてきた。

  

 半分ほど歩いたら岩の道になった。イワドウまでの道、昔ははだしで歩いたというが、岩の
心地良さがそうさせたのか、岩の滑り易さがそうさせたのか、特に裸足でお参りしなければ
ならない決め事があったのかは分らない。
 前方に卵形の巨岩が見えてきた。やっと着いた。

  

よく見ると神様や仏様が巨石の下に住まっている。
イワドウとは岩堂なのか、岩洞なのか。手を合わせると不思議な気がしてくる。
文治4年(1188)薬王寺が焼失した時、本尊の薬師如来が飛び出してこの地にとどまり輝いたという。
泰仙寺は薬王寺の奥の院。本尊は如意輪観音菩薩である。
薬王寺の再興がなり薬師如来は無事薬王寺に戻り、その後奥の院として如意輪観音菩薩が祭られたの
かも知れない。方丈に人の気配はない。経済的に成り立たぬとすれば、宗教ですらお金に勝てなくなった
のか。

 ともあれ、参詣の登り口から車で日和佐に抜け牟岐町に戻った。素敵な道は泰仙寺からイワドウまでの
800mまで。車道については、面白味のないコンクリート道と歩き難い砂利道であった。

CAN

へんろみち 道 路があるに戻る


観たり、訊いたり、糖尿の食い倒れに戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください