このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
【真念へんろみち】
● 夫婦みち (夫婦へんろ道は、窪津鯨道と下駄馬道を合わせています)
7号線にある表示板 遍路道に向いて建つ丁石 入り口は一寸寂しい
前述のへんろ道が旧県道に合流、そして7号線に出る。
左折して足摺に向かう。ほんの少し歩くと広すぎる【へんろ道】が、7号線には申し訳な
さそうに右の山懐に暗く消えている。この薄墨の風景が若い人たちを尻込みさせるのかも
知れない。だが思い切って足を踏み入れてみると、意外に木洩れ日が散っていて周りは明
るい。 二人で手を繋いで歩くには充分な広さが、何処までも続いている雰囲気である。
この道を直進せよの案内板が山側に、しかも足元近くに置かれている。この為案内板に
引き付けられた目線が、20メートル程先の急斜面を登る細い道を見落とすのかもしれない。
【急斜面を登れ】の指示板は見当たらない。しかし斜面の小道を登りきった辺りに黄色い
標示板が吊り下げられ、それとなくへんろ道であることが判るようになっている。
兎追いし、かの山道 オットトット、雨の日はツルリンコ
急斜面の登り道は、ふたり並んで歩く道幅はない。決まりはないが夫婦や恋人同士なら、
どちらかが先導することになる。
登りつめると其処からは、何処にでもあるような、足に優しい上り下りのなだらかな道が
暫く続く。周囲の木々も穏やかで2月の木洩れ陽もここでは温かい。
やがて急な斜面を、今度は足元に注意しながら下ることになる。
山の襞。降り切った底には、少しばかりの水が細い谷川の流れを作っている。
丸太が3〜4本寄せ合っての仮橋がある。5〜6歩で渡れそうである。
それでも丸太は勝手に撓って、おっかなビックリ。渡りきると急な上りになる。
押すのか引くのか、1歩1歩注意深く足を運ぶ。下は見ない。
上りきると安堵の道に変わる。様々な上り下りを繰り返す。
古人の汗の滲み出るような石垣 あなた猪さんになりますか?
右手に扁平な石を積み上げた石垣が見えてくる。猪の害を防ぐ為に築いたものという。
それは子供の飢えを守る作物、その為に時間をかけ汗を流して積み上げたのだろう。
やがて子供たちは親を離れ、老いたる夫婦には必要の無くなった畠になっていったのか。
木々が鬱蒼と繁り、石垣の石は苔むしている。
一見無駄にも見えるこの種の作業も、人生には必要なのだ。
雨の日風の日、黙々と踏締める【へんろ道】
遍路にとっても、無用の用が沢山ある。気が付くか、付かないか。。
竹やぶに写真のような猪への呼びかけもある。本音は人間様へのものなのだろうが、見
ていてほほえましい。土地の人のユーモアに掛けた優しさが伝ってくる。
ホッとする嬉しさである。へんろ道を歩いているだけなのに、ここにも明るさと暗さ、嬉
しさと哀しみがやってくる。【人生は遍路なり】人生と遍路を対比した想いも頷ける。
道は山肌に沿って大きく左へ曲がる。微かな登りである。樹木の所為か湿った暗い風景
になった。年代ものの石仏やら墓石が道端に蹲る。身に着けた苔、そして終ることのない
暗がりが、【古きもの】をかもし出している。
登りつめて右へ。急に空間が開け墓石が立ち並ぶ。道は墓の中央を辿る。
左右の墓石は夫々、顔を道に向けている。どの顔も通り過ぎる遍路を待っていた様に見える。
「皆さん、今日は」挨拶は自然に声になる。
夫婦の墓石が多い。例えば【菊地昭 夫婦の墓】或いは【菊地 昭 多賀 の墓】夫婦
の名前を寄り添うようにふたつ並べて、つまり苗字の下に名前をふたつ横並びにし、その
下に【の墓】を刻んでいる。この様な夫婦墓石が、驚くほどに多いのである。
夫婦墓はどちらかが逝った時に、残された者が夫婦墓を造ったのではあるまいか。
【菊地昭夫婦の墓】は残された妻が、ふたりの名前を刻んだ墓碑銘は、残された夫が手が
げたものと想像してしまうが、事実は如何であったのか。
生涯を終えた夫婦の本当の姿を、これからを生きる夫婦の姿も、此処に垣間見たような
気がした。
3月、海蔵院の庭先には椿の花が咲き、眼下の街並みに続く階段は春の日に明るい。
墓地を抜けると神楽山海蔵院がある。ゆるりと曲がった道を降りても階段を下りても、
道はひとつになる。坂の途中で子供を連れた女性に遇った。
夫婦墓碑の理由をを尋ねて見たらたら
「此処は昔、鯨の漁場でした。他国から来た見張りの人が亡くなれば、この山の海の見え
る場所に懇ろに葬りました。お墓は今もあの山に在ります。お彼岸には花を供えご先祖様
と同じようにお参りをいたします」
との返事であった。
戦後男女同権と叫ばれる以前に、お互いの人格を認め合ったていた事を今に伝えている。
これは鯨漁には男も女も区別なく、それぞれの受け持ちに全力を尽くして生き抜いた夫婦
の証なのだろうか。
坂を降り切ると案内板が肩を窄めて軒下に立ち、神社の脇の道を登れと指し示す。
坂を下り切ると家並みは、肩突き合わせる様に繋がっている。遠い昔の隣組を思わせる
ような錯覚を覚える。
案内板に従って橋を渡り、神社の脇の急坂を登る。車道の拡張工事で変わった箇所でも
ある。新しい匂いのコンクリートの階段を登ると、場所替えをさせられた丁石が、落ち着
かぬ様子で建っている。此処から目隠しのフェンスが続く。
以前は赤錆びた細い手摺が在るだけで、眼下の海の蒼さに引込まれるような眩暈を錯覚
を覚えた【へんろ道】であったのに。
今は目隠しのフェンスのお蔭で恐怖心も無くなった。
道はなだらかになって、やがて55号線に抜けることが出来る。
《 真念庵へんろ道は、真念法師が真念庵から足摺への道しるべ、350基の丁石で整備され
た道である。そして明治35年から戦時中にかけ、新道路建設の為に10回以上分断を余儀
なくされた道でもある。(土佐清水市教育委員会資料による)
一級クラスの【へんろ道】なのに、遍路仲間での評判は余り宜しくない。と言うよりも
歩いた話題が少ない。歩いたこともないのに遍路の口からは、迷ったら戻るのが困難との
風評だけが流布される。
理由は案外つまらないところにあると思うのだが……
口、口、口のオンパレードには、参りました。
第一は案内板だ。写真のごとく、○○東道南口、○○道駄馬口、○○駄馬之口。東西南北の
文字と地名が矢鱈に多いことである。特に足摺に近づくとこれが多くなる。
【へんろ】は順打ちなら足摺金剛福寺を目指し、逆打ち或いは打戻りなら真念庵方向を目
指して歩く。
足摺と真念庵の方向だけ判ればいいのに、地元地名を事細かに案内している。遍路は案内
板を見て、どちらが足摺方面でどちらが真念庵方面か判断ができなくなる。
へんろは磁石のない船のように、案内板を見るたびにオロオロするだけである。
迷ったら戻るのが困難。聞いた事もない案内板の地名に、悪魔の住む【へんろ道】の話が
生まれるのだろうか。
案内の文字板が壊されて支柱だけもある。入口か出口か不安になれば、当然パスすること
になる。
第二は、必要な場所に必要な案内板の見当たらないことに起因していると思う。
幹にくくられた案内板は道に直角に面し、其処までいかねば確認できない状態にある。
見詰める先に黄色い案内札がヒラヒラしていれば安心するのだが、そうなっていない箇所
が多い。
【人生は遍路なり】と謂われることからすれば、行って迷うて戻って迷うて、これが当た
り前。と思えば案内板の間違えなど取るに足らぬこと、の意見もある。
取りあえず、これらに付いては土佐清水市生涯学習課にお願いをして参りました。
近々歩き易い【へんろ道】に生まれ変わることでしょう 》
●● この道は皆様に、どうしても歩いて欲しい道。
特に定年退職間近のご夫婦、熟年離婚など何処か少しでも考えているご夫婦、中学 高校
大学と子育てにストレスを感じ始めたご夫婦の皆様、この道を歩いてみてください。
悩みは何時しか和らぎ、人生設計の微調整の答えが見えてくる筈です。
結婚間近の人、意中の人とふたりで考えるも良し、ひとりで考えるも良し、静かにこの道
を歩んでみて下さい。
伴侶をなくされた方も(私もそうですが)一度はこの道を登りつめて下さい。光り輝いて
いた自分の人生を振り返ることができます。●●
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