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真念庵

 
 
 土佐清水市教育委員会の案内板(右の写真)には、次のように記されている。

                       真念庵

大阪寺島で○○○た真念法師は、四国八十八ヵ所札所中、三十七番札所岩本寺から三十八番
札所金剛福寺、三十九番札所延光寺までは距離が長く難行道程であるため、三寺を結ぶ中間地
(市野瀬)に、天和(一六八一から一六八三年)の頃地蔵大師堂を建立しました。
この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり、庵の前に四国八十八ヵ所札所の本尊
石仏を設置し、三十八番札所金剛福寺巡礼の打戻の宿や荷物置場として利用されるようになり
ました。
この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標
石)が設けられています。
これを「足摺遍路道三百五十丁石」と呼んでいます。足摺の地は古くから「補陀落東門」(観
音菩薩の住む山の東門)と呼ばれ、各地から多くの遍路(順礼者)が巡礼に来ています。
地図のない時代、知らない土地で、この丁石頼りに金剛福寺への巡礼をしたと思われます。
これらの丁石の大部分は作州(岡山県)や播州(兵庫県)摂州(大阪府)遍路と地元の人々に
よって建てられています。
最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺二十八番
札所金剛福寺までは、やく十四キロメートルの遍路道が残っています。
      (以上原文のまま ○○○の文字は剥落しています)

 上の左の写真が現在の真念庵である。最初のそれは藁葺きの建物で、現在の位置を違えて建
っていたかも知れない。右が真念庵の説明板の写真であり、説明文は上記の通りである。

  

 説明文には、庵の前に四国八十八ヵ所札所の本尊石仏を設置し……とある。四十五体が庵に
面し、背中併せに四十五体が二列横隊に並んでいる。九十体で2体多い。(左の写真)
前列に八十八本尊とは違った石仏が紛れ込んでる。(中央の写真)
文化十五年戌寅とあるので文政元年(一八一八年)に納められたものと考えられる。真念庵誕
生約百三十五年後のことである。真念の功績を称えての建立なのか。
石面には法道覚夢信士と読めるのだが、夢の文字が定かではない。梵字も観音菩薩の住む山
の東門から観音菩薩を意味する【サ】なのか不生不滅を意味する【ア】なのか、或いは以外のも
の指しているものなのか、浅学な者には難題である。
 もうひとつは裏へ回って右端の台座の上、尊像は無くまあるい石がひとつ載っているだけで
ある。真念のような後世の御坊を、この台座は待ち続けているのだろうか。(右の写真)

 

 真念庵に向って左手には墓地があり、墓石が林立している。
お化けの話は迷信と教えられてきた筈なのに、若い遍路は此処を通り抜けるのが怖いと言う。
小屋の暗い奥には、赤い衣裳を身に着けた地蔵尊が仄かに浮かび上がって……さやさやと囁く
ように竹林のなびく様が……曲がりくねった山道から吹き寄せる冷気に、いも言われぬ霊気を
感じるのか。若者の感情は計れない。
幼い頃、人を殺めればお化けに祟られると教えられたが、生きた人間のほうが怖いと思うのは
歳の所為だろうか。
 真念庵に到る道すがら、大スズメバチが蝉を襲う凄まじい格闘を目にした。寧ろ此方のほう
が怖い。短パンで遍路を気取る勇敢な君に、どんなに暑くても白装束でへんろ道を歩きなさい
と忠告いたしましょうか。お化けよりも、蝮よりも、スズメバチは逃げないだけに強敵です。
充分注意の上で真念庵の佇む、この山裾を尋ねてみて下さい。

CAN


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