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事業者が毀損する「信頼の原則」
プロに求められる「信頼」と「センス」

 

エル・アルコン  2005年 3月22日

 

 

■事業者が毀損する「信頼の原則」

 「信頼の原則」という言葉があります。

 もっぱら交通事故に関する分野で用いられることが多いのですが、元早大総長で刑事法が専門の西原春夫氏の「交通事故と信頼の原則」の定義を借りれば、「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼することが相当な場合には、たとえその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、行為者はそれに対して責任を負わない」という原則とされます。

 そこに法規違反が無いことを厳格に求める意見もあることは確かですが、その違反レベルが酒気帯びのように問題外のようなケースは疑いの無いところですが、単純な速度違反、それも一般的に取締りの対象とならないような違反をもってその原則に対する要件欠缺を主張し得るかは意見が分かれます。個人的には若干の過失相殺の割り振りには影響しても、信頼の原則自体を無効にすることは無いと考えますし、そもそもその違反行為が無かりせば事故が起きなかったのかという因果関係の部分でたいていは否定されることでしょう。

 そういう視点で考えて見ると、先日の竹ノ塚事故、そして 3月 1日に大阪地裁であった阪神高速池田本線料金所におけるETCレーン横断中の収受員事故死の判決は、その信頼の原則というものの重みを考えさせてくれます。

   読売新聞記事

 竹ノ塚事故の場合、踏切が上がって進入した途端に準急電車にはねられて死亡した事件ですが、その踏切をよく知る人間であればあるほど、警報機の鳴動に関係無く遮断機操作がされていたことも知っていた訳です。東武鉄道側によるその取扱い基準の不備はさておき、そこにはそこをよく知るひとであればあるほど通行の可否は遮断機の操作がトリガーになっているという「信頼」が存在したわけで、それ自体を疑って掛からざるを得ないような責任を犠牲者に負わせることは失当ということが出来ます。

翻ってETCレーンの事故はどうでしょうか。そもそも起訴に持ち込んだ理由付けを40km/h制限だった料金所エリアでの速度違反にしか求め得ない段階で苦しい起訴なんですが、それでも執行猶予がついたとは言え求刑通りの量刑が認められたこと自体、他の事案に比べても重過ぎる不当判決と言えます。

 速度超過についてはそもそも60km/h制限の阪高池田線で70〜80km/hというのが問題であり、当時の一般的に認識されていたレーン通過速度に比べても高いことは事実ですが、速度違反という道交法違反以上の罪を問うには、40km/hであれば事故は無かったのかという立証が必要であり、速度によって事故が発生しなかったということはまず有り得ないと考えます。

高速道路の本線料金所(過去の死亡事故3件のうち初回の阪和道和歌山IC以外は本線料金所)のノンストップレーンに人がいないという「信頼」は、速度違反で帳消しになるようなものではないはずです。逆に、そこでの著しい減速や一旦停止のほうが後続車の「信頼」を裏切りかねないわけで、今回の判決が先例になることは非常に問題です。

 本件で言えば、その後道路公団などの事業者が本来機器の信頼性由来でレーン通過速度を下げるように言っていたのを、明らかに授受員の無法横断を前提にしたとしか考えられないタイミングで20km/h制限を打ち出し、約款を変更していますが、これも「信頼の原則」を大いに損ねる話です。これが罷り通るのであれば、本線上で落下物収容などの業務にあたる係員はどうでしょうか。落下物収容のような正当業務行為に対しては「信頼の原則」をあてはめ、レーン横断のような無法行為に対して「信頼の原則」を損なわせてまで保護するべきなのか。

 

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 交通は「信頼の原則」があって成り立つ部分が多いです。もちろん、当事者は相応の注意義務を負いますし、特にドライバーの場合は「業務」として高い責任を負います。しかしながら、今回指摘した事例においては、その「信頼の原則」を損なった側は、事業者側に属するより高い責任と義務を負う存在であり、そうした状況における事業者側からの「信頼」の毀損というものの意味を真剣に考えるべきでしょう。

 

 

■そしてプロは「信頼」と同時に「センス」も求められる

 一方で前論とは矛盾するようですが、「プロ」と呼ばれる人たちには、「信頼」し合うこともさることながら、それを盲信しないある種のセンスというものが求められることも確かです。

 もちろんそれは、マニュアル通りの操作で総てが達成出来ない、プロの「技」が必要なケースゆえの話であり、高度な判断と実行が求められるがゆえに、他人任せだけでなく自分のセンスに基づく判断も求められるのです。

 そういう意味では自動車の運転が法律でいうところの「業務」とされていることは、自動車の運転が特殊技能、つまりある種のプロであると言う認識に基づいているのですが、実態としては自動車の運転が国民に広く普及した今、一般人に比較して高度な判断能力を運転で求められるといっても、相対的優位であるかを判断しづらいばかりか、運転しない一般人にもある程度の知識や責任を事実上求めている面があります。

 

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 このプロの「センス」を考えさせる事例を挙げてみましょう。

 先日の土佐くろしお鉄道における特急の激突事故で、乗務していた「車掌」が、車掌弁の操作を教わっていないという報道がありました。そうなると運転に関する補助者のはずの「車掌」が不在のワンマン列車に他ならず、ワンマン運行に必要な対応を書いていた事業者側の責任は免れ得ないでしょう。

 とはいえ、もしそれが「添乗員」的な「車掌」であっても、乗務という職務の「プロ」であれば、どこかの時点で「このスピードで止まれないはず」と気付くセンスがあるはずです。

 もちろんこれは事故の後知恵かもしれませんが、乗客の中に速度に関する異変を感じ取った人がいるわけで、もし「車掌」が異変に気付いていれば、その操作が時間的には間に合わなかったとしても、何らかの対応を取ろうとした可能性はあるわけです。

 その操作が結果的には無駄であろうと、最後の瞬間まで諦めないのが「プロ」です。日航機墜落事故の時、御巣鷹山に激突する直前、事故機は尾根を一つかすりながら越えています。これも、その段階であればもう墜落は不可避なのに、諦めなかったのです。

 航空機を例えに出しましたが、事故率が相対的に低いとはいえ、事故発生時の凄惨さが群を抜き、かつ、事故時の対応で瞬秒の差が運命をわける航空の場合、キャビンアテンダントはまさに非常時対応などの責務を持っているわけで、そこに「華」だけでない「プロ」としての矜持があるわけです。

 もう一つ、信頼だけで良いのか、という事例として信楽高原鉄道の正面衝突事故を挙げます。この事故は結局和解しましたが、一審でJR直通列車の運転士が信号所で交換列車の不在を認識しながら青信号に従って進行したことにつき責任を認めたことに対し、青信号は進「め」であるという鉄道システムを根本から揺るがすものとして批判が出ました。

 確かに、鉄道員というプロ同士の「信頼の原則」を最大限に活用しているわけですが、そこに「センス」の欠如はなかったのか。青信号が絶対であれば、青信号の脇に岩が落ちてたり人がいても走るのか。安全のイロハのイを忘れた取り扱いをして対向列車がやってくることを予測することは不可能と言い切って良いですが、本来いるはずの対向列車が来ない理由を確認しないで進行することはどうなのか。私自身連絡もない交換駅の変更は経験したことが記憶にないだけに(車掌や運転士から遅れや変更があればアナウンスがある)、つまり、無通告でダイヤが乱れることと、信号系統の異常表示の可能性の間にどれだけの差異を認めるかと言うことと、そこまで思いが及ぶ「センス」が問われるのです。

 有名な洞爺丸事故の例ですが、気象データが台風の通過を示し、天候が好転したのを受けた再開第一便として出航した洞爺丸が沈没した反面、同時に青森から出航する予定だった下りの再開第一便は船長判断で出航を見合わせ事無きを得ています。

 これも、「出航」という指示を「信頼」する局面で、自らの気象に対する「センス」が最後に明暗を分けたわけで、船長の権限が強かったと言う事情はあるにしろ、その権限を活かすのも「センス」なのです。

 

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 土佐くろしお鉄道の事故後に、「止められない ATS」が話題になりましたが、プロであればそこでその速度は出さないと言う「信頼」が徒になった形であり、「センス」を必要以上に重視し、「信頼」しきることは確かに危険です。

 しかし、同時にいざと言う時の明暗を分けるのも信頼やセンスに属する部分であることは確かであり、バックアップしながら活かしてくという一見矛盾する対応を通して、安全の確保を進めたいものです。

 

 

 

 

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