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賃上げコストの原資確保





 エル・アルコン 2007年7月16日




●労働分配を国際競争に晒すだけでは
「賃上げコストを誰が負担するのか。」
確かにこれが重要であり、「経営側」の殺し文句でもあります。

しかし、その理論に偏重した結果が昨今の労働分配の低下であり、その理論を貫徹させるとなると、「グローバル競争」におけるより安い労働コストを追求する意味での「国際化」において、同種の職種は常に最も安い賃金を提供できる国のそれに収斂することを意味します。
日本がかつては韓国、韓国の所得水準が向上してきてからは中国、ベトナムなどとより安い労働力提供先を求めてきましたが、より先を行く世界の「グローバル企業」はIT化を「活用」して、労働集約型のコールセンターなどの業務を中南米、さらにはブータンといった小国に置くことで、「コスト削減」に努めているわけです。

しかし、そういう流れが適切なのか。18世紀の「重商主義」19世紀の「帝国主義」の時代のように、そうした安い労働力で集めた富を国内で分配するという流れであれば、他国の悲惨な苦境はありますが、少なくとも自国は栄えると言うロジックも可能です。
しかし、今の流れは、そうした安い労働力と同条件で競争することを強いられているわけです。そうなると、例えば中国での生産と競争するのであれば、生産コストが1/20とかいう世界との競争になるわけで、額面通り取れば、国内の労働コストをそれに近い状態に切り下げないと競争にならないはずです。

一方で国際競争が無い分野においては「切り下げる」理由がないわけです。もちろん国際競争下にある産業で労働収入が切り下げられたことで、購買力が異常低下することから、「お高く留まって」いては客が来なくなるので、こちらも連れ安になるのは確実ですが、それでも下げ具合の差による「格差」が確実に生じるわけです。

●経済規模と労働分配と物価の均衡
で、このバランスが著しく崩れた状態こそが、「国内では食っては行けない」と言う状態です。
かつては一次産品の生産が追いつかないことで「食っては行けない」状態に追い込まれたわけです。戦前の北南米や満洲への移民があり、戦後も1970年頃までは移民という制度があったことは記憶にとどめるべきです。
それが関係あるのか、と言われそうですが、要は国単位の経済で発生する労働分配や生産の総額が、国内での総需要を下回っていることの指摘、すなわち、その国で働いてもその国で食っていけるだけの収入が得られないと言う状態の発生なのです。

標準的な国民生活のモデルを考えるとして、その際に採るべき方策はただ二つ。コストを積み上げてそれをカバー出来る労働分配を最低ラインとする賃金統制をする。もしくは今の労働分配で可能なコスト賦課を最高(標準)価格として物価統制をする。
どちらも両極端ですが、自然体でいくとコスト積み上げ方式は「必要な利潤」を得るためにコストが上昇するインフレサイクルになり、コスト抑制方式は「必要な利潤」を確保するために労働分配が低下するデフレスパイラルになるはずです。

●富の再配分の再評価
そのどちらを採用するのか、また、その弊害を考えたら手を打つべきではないのか。
そう考えた時、結局そこで指摘されるのが、「富の再配分」が機能していないことです。
実は上記の「方策」では「必要な利潤」を固定しているからインフレ、デフレの昂進が予測されるわけです。一方で「富の再配分」、つまり税金を機能させることで、積み上げるコストの原資を公共が負担する形で確保し、労働分配を上げることのみに頼らず(底上げするイメージで)生活水準を向上させると言うことは可能なはずです。

その手法として、所得の移転に近い生活保護のような世帯への直接投入もありますが、それはあくまでセーフティネットであり、本筋は例えば教育であれば予算の拡充による教育費の引き下げによる「教育サービス提供の機会均等」であり、交通であれば補助金の投入による「適切な賃金」と「適切な交通サービスの維持」の両立です。

TAKAさんが簡便化した例示を見ますと、労働コストを時間300円上げることで、1台あたり4800円のマイナスが出るわけですが、例えばこれを利用者である150人が分担したとして1人32円の負担増です。これを適切な社会を維持するためのコストとして利用者に理解を求める(=値上げ)と言う手法もあるでしょうし、さらに地域で、国でと広く薄く負担する「税金による補助」と言う選択肢もあるわけです。

●本筋は値上げだが
本来は適切な社会を維持するコストは正しく社会が負担すべきです。しかし、そのコスト、言い換えれば社会を維持するために必要な総収入を生み出していた源泉が、これまで「無駄」とされてきて削減に努めてきた部分であると言う事実に気付くべきでしょう。
もちろん新しい産業がそうした「無駄」に代わって収入に寄与していれば問題はなかったのですが、これまで経済学者などが旗を振ってきたその論理は事実上破綻しているとしか言えません。

信用創造のように、いろいろな人の手を介することで発生するコストは、それにより収入を得る人々を支えていると言う面があるのです。
それを排除すれば、当然「食べて行けない」人を生み出すわけです。
自由主義のご本尊のはずのアメリカが、農産物や鉱工業において、自国の競争力が劣るもの、自国の雇用に影響を及ぼすものに対し、露骨なまでの保護貿易を譲らないのはなぜか。
社会を維持するための経済規模をコストを払ってでも維持していると言えるのです。

ただし、我が国の場合はデフレ不況の中で、行き過ぎた低価格、つまり適切な社会を維持するためのコストを負担しないことでようやく生活が均衡している状態にあるという現実があります。
成熟化して経済成長が望めないなか、インフレによる解決を取るのは非現実的であり、そうなると適切な「富の再配分」により社会を維持していくしかない段階に来ているとも看做せます。

とはいえ何が何でも、何から何まで「富の再配分」では、モラルハザードが発生しますし、企業の意欲、さらには労働者本人の勤労意欲すら失われる危険性があります。
ですから、まず社会がその必要なコストを負担するだけの体力が回復するまでは富の再配分機能を強化して基礎体力を回復させ、然る後に適切なコストを負担させるようにすべきです。

●満点ではなく及第点
そういう過程においては、あくまで自由経済の「例外」である「富の再配分」をいかに最小限で効率よく実施するかと言う命題が残ります。
それを考えた時、「税金による補助」で求める、達成されるレベルというものも当然見直す必要があります。
例えば教育において、安かろう悪かろうと言う公立学校をいくら揃えても「教育サービス提供の機会均等」という問題の解決にはなりません。そういうケースではもっと予算をつけて公立学校のレベルアップを図るべきです。

一方で交通においては、「適切な交通サービスの維持」という問題の解決として、例えば鉄道なのかバスなのか道路整備だけで充分なのか、という部分の基準がもっと厳格に問われてきます。
例えば制度上の補助で鉄道経営が成り立つとしても、バスならもっと少ない補助で「適切な交通サービス」が維持できる。と言うようなケースでは、バスで我慢して文教予算に浮いたお金を回すというような選択も必要です。

満点ではなく及第点をどれだけ多くの教科で取れるのか。そういう思考でバランスよく考えることで、足下の問題を解決するしかないのではと思うのです。








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