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福知山線脱線事故に関する二題

 

和寒  2005年 4月27日

 

 

 ひどい。むごい。なんと悲惨で、酸鼻な状況であろうか。突然の事故により愛する方を失った御遺族の心痛を思うと、語るべき言葉がない。TV画面に広がる悲しみの大きさには、涙を覚えずにはいられない。その事故とは改めていうまでもない。JR西日本福知山線脱線事故である。

 筆者はこの事故について何点か、とりいそぎ二点ほど論じてみたいが、大きな事故になればなるほど、論じることは難しい。なぜなら、的確に論を整頓しようにも、情報が限られるからである。以前筆者は、信楽高原鉄道事故について論じたことがあり(ただし現段階では未公表)、近くは「とき 325号」脱線についても論じた。ところが、今から顧みるとそのどちらにも重大な事実誤認や論点のずれがあり、読み返すと赤面汗顔の至りである。

 あとで恥をかき、あるいは顰蹙を買うことをも覚悟しつつ、それでも敢えて思うところを記しておきたい。

 

 

■主論Ⅰ−−事故は「結果」が全て

 この事故に関する報道は、JR西日本に責任があるという方向が主な流れとなっている。これは本来、事故の原因と責任に予断を与えるものであり、好ましいとはいえない。

 またTV報道では、「JRに殺された」と遺族が電話する姿、記者会見場で「人が何人死んだと思っているんだ!」と記者から罵声が飛ぶところなどが放映されている。これら言動にはTVカメラの目を意識していないとは必ずしも言い切れない印象も拭えず、映像メディアによる報道そのものが人間の心を煽っているとすれば、なんとも切ない状況だと嘆じざるをえない。

 しかし、それでもJR西日本は厳しく責められなければならない。利用者がJR西日本の乗車券類を購入してそのサービスを利用する以上、JR西日本には利用者の安全を保障する義務と責任がある。原因の如何を問わず事故による被災には、第一義的にはサービスを供する側が補償するのが筋である。たとえ犯罪行為によって事故が起こったのだとしても、サービス供給者から被災者への補償がまずあり、ただしサービス供給者は事故の原因者に対してその補償により生じた損失を請求する権利を有する、という考え方があるからである。つまり、サービス供給者は、被災者に向き合うことから逃れられない。

 

 なによりも、百名以上の方が亡くなられたという「結果」は実に重い。まったく落ち度のない利用者が死亡するという事態は、極めて深刻なのである。

 筆者が「とき 325号」脱線についてあのように論じられたのは、死亡者が出なかったという「結果」があればこそであり、仮に出ていれば、あのような立論は出来なかった。

 人間、そして社会は、「結果」に縛られるものなのだ。百名以上もの方が亡くなられたという、深刻かつ重大な「結果」の前には、誰かが責任を負わなければならない。それはまず第一に、JR西日本が負うべきものである。

 いかに理不尽な罵詈雑言に対しても、JR西日本は黙って耐えなければならない。この事故がもたらした「結果」、百名以上の死とは、それほど重いのだから。

 以上の観点からすれば、置石(らしき痕跡)があったことを発表するなど、自社に責任なしという方向性を醸成しようとしたのは、見苦しい姿勢と評さざるをえない。既に置石説は否定されつつある模様だが、たとえ本当に置石があったとしても、先に挙げた理由により、JR西日本は多数の利用者を死に至らしめた責任からは逃れられない。

 

 

■主論Ⅱ−−もはや人間に頼るべきでないダイヤ

 事故を起こした運転士の技量と心理状態、JR西日本の労務管理体制については、情報があまりにも乏しく、現段階で論じることは至難である。しかし、一点だけいえることがある。

 まず、信号閉塞方式が素朴な ATSだったということ。この 6月には ATS-Pが導入される予定だったことを考えれば、システムの不備が土壇場になって露見した格好ともいえるが、事故が発生したことを思えば、「果たして ATS-Pでも充分なのか?」という疑問も生じてくる。

 大阪を中心とするJR西日本のダイヤは、おそらく日本一複雑で、密度が濃く、しかもタイトである。このような高度なダイヤを維持するために、運転士の技量を頼ったままでよいのだろうか。 ATS-Pはあくまで速度を抑止する機能を有するにすぎない。さらに一歩進んで、 ATOあるいはプログラム運転を導入すべきではないだろうか。

 高度なダイヤを維持するためには、高度な技量が求められるのが大原則である。ところが現実には、在来線は運転士として「ふりだし」の仕事であり、若手が任に就くことも多い。この点を鑑みれば、人間の技量に頼るだけでなく、ソフト面でのサポートも必要ではないだろうか。

 以上のように考えれば、一秒単位でダイヤを評価していたというJR西日本の姿勢は、システムの未成熟を人間の技量で補うよう押しつけた形ともいえる。そもそもラッシュ時のダイヤは、オーバーランなどのチョンボを除けば、客扱い時間に大きく左右されるもので、しかも曜日や季節・天候による変動も激しい。そのような性質を有するダイヤを一秒単位で評価しようという発想そのものがナンセンスであって、敢えて極端に喩えるならば、戦車に向かって銃剣突撃を命じる世界に近い。

 

 この事故に関しては、感情的で予断をリードするような報道、不正確なコメントを連発する評論家の存在(筆者もその同類でないという保証はないが)など、さまざまな問題が存在する。しかし、これらの周辺状況をすべて合わせてもなお、JR西日本の責任は極めて重いと断じざるをえない。

 なお、以上の意見は、現在までに提供されている限られた情報に基づくものであって、まったくの見当違いである可能性がある。そのときは「和寒には明がない」と嗤われてもしかたない。ただし、その覚悟があるからこそこの一文を書いている。このような事故により、肉親を失う悲しみが繰り返されてはならないという一念で。

 

 

 

 

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