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極めて難しい話題だが



和寒  2005年 5月28日





 かの事故から既に一箇月が経ちました。百名以上の方々が亡くなられた事故が起きた、という事実の重さに、今もなお慄然とせざるをえません。亡くなられた方々の御冥福を改めてお祈り申し上げるともに、未だ傷癒えぬ負傷者の一刻も早い回復を祈念してやみません。

 本件に関しては、エル・アルコン様が指摘されたように「腰を据えて論じる必要があ」ることは間違いありません。そして、TAKA様が指摘されたように「事故原因が明らかでない以上、今の段階で具体的なJR西日本への非難は行えない」ことも、今日時点でもなお公式見解はまとめられていないことから、正論といえましょう。そして、そのように情報が乏しい状況において論じることは、とも様が危惧するように後々「目が曇っている」という謗りを受けるおそれが大であり、たいへん難しいといわざるをえません。

 それでも敢えて論じるからにはそれなりの覚悟が要るわけです。そして、意外に思われるかもしれませんが、私は行政・政治サイドの動きを支持します。



 まず前提として、本件には、直接的要因にも間接的要因にも人為が濃厚に絡んでいる可能性が大きい、ということを挙げなければなりません。今までに起きた重大事故には、既存の知見を大幅に超える領域があったり、あるいは歴史的経験が足りないことからシステムが未成熟であったりするなど、事故原因を究明し同種事故再発を防ぐ方向でのモチベーションが働いた部分があります。

 しかしながら、本件における人為の占める割合は、現下得られている情報からは相当大きいと判断せざるをえません。 ATSシステムが旧式だったという問題はあったとしても、速度制限箇所に速度を大幅超過して突っ込んだ人為の部分は、極めて重大といわなければなりません。

 同じく人為が主要因となった竹ノ塚事故は、四角四面にシステムを運用すれば周辺地域に多大なストレスを与えることから、柔軟な人為を敢えて残したことが背景にあり、同列に論じることは出来ません。些か強引な比較になりますが、国鉄末期に頻発したいわゆる「たるみ事故」に近いものであり、当事者のスキルとモラルが充分に確保されていれば、事故を防ぎえた可能性が大きいのです。

 そして、以上の点は、本件に対し普通の利用者がそこはかとなく感じている印象の最大公約数と考えます。



 先稿からの繰り返しになりますが、百名以上の方が亡くなられたという「結果」は実に重く、まったく落ち度のない利用者が死亡するという事態は極めて深刻なものなのです。そこに人知を超えた領域が介在しているならば、事故を受け止める側にも不承不承ながら心を落ち着かせる余地があります。しかし人為が主要因であるならば、少なくとも主要因と広く認識されているならば、怒りと悲しみの矛先はそこに向かざるをえません。ましてJR西日本の初動には拙い面が多々あり、今ではまったくの正論でさえ聞く耳を持たれていない状態です。

 国交省が「ルールうんぬんよりも、あれだけの事故を起こしてしまったのだから、制限の見直しは当然」とするのは、エル・アルコン様が指摘されるように、合理性・正当性・整合性を欠く面は否定できません(※)。しかしながら、「あれだけの事故を起こしたのに目に見えてなにもしない」のでは、いわゆる世論、サイレント・マジョリティーとしての利用者の納得が得られるとは考えられません。

 確かに「パフォーマンス」であるかもしれません。大衆迎合のポピュリズムであるかもしれません。しかし、世論に最も敏感なのが政治家であるならば、世論の動きが読めるというものです。

 サイコロの目は何回振っても出る確率は 1/6ですが、トランプの山から例えばハートのカードが出る確率は 13/52→13/51or12/51→・・・・・・と前の事象に影響されます。エル・アルコン様、とも様の考え方は、前者の「独立事象」に則ったもので、それは正論であると存じます。そして私は、人間の生きる社会は後者の「前事象に影響される」ものと考えており、また「結果」の重さに思いをいたせば、行政・政治サイドの動きには一理あると考えます。



※に関する補足

 これだけの事故に対して、「人治」を通そうという姿勢そのものは問題なので、その点で争うつもりはありません。正直なところ、理詰めで議論するならば、私に分がないのはわかっています。そうはいっても、百名余が亡くなられた事実を前にして、情を措く議論だけでいいとは思えませんし、目に見えた「懲罰」がない限り世論、なかんずく遺族感情を納得しうるとは思えないので、敢えて書いてみました。

 ただ、例えば業務改善命令を出すにしても、事故原因と責任をある程度はっきりと固定出来なければ、そもそも命令も出来ず、その時点では遅きに失するおそれもあるわけです。だからといって「人治」も拙速なので、匙加減が難しいところではあるのですが。

 また、法に基づかない「処分」については、行政の運営上という観点からは、重いとも軽いとも判断しがたい部分です。法に基づかないから軽く扱えるともいえる一方で、法に基づかずに縛るから重いとも解釈できるからです。その運用が見えない部分こそ、まさに「裁量」と「人治」の弊害なのですが、これは現時点では論評しかねるというのが正直なところです。今後の展開を見るしかないでしょう。





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