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ポピュリズムがもたらす一時の満足の危うさ



エル・アルコン  2005年 5月29日





 気持ちとしては分かりますし、もし肉親や知人が今回の事故に巻き込まれていたら(取引先の方の知人が亡くなられていますが)、当然のように非を鳴らすでしょう。私も。

 そうは言ってもやはり問題だと思います。国民主権ですから、民意を反映した行政であるべき、そしてそれゆえに選挙で選ばれた国民の代表が行政庁のトップに座っているのであり、政治家である主務大臣の言うことを聞かない官僚の存在が間違っている、という見方は確かに一理ありますし、実際、郵政民営化問題で官邸の意向に反する官僚が更迭されたのもその論理でしょう。

 しかし、一方でそれを徹底するとまさしくポピュリズムになるわけです。さらに昂じれば衆愚政治でしょうか。そういう意味では官邸の意のままにならぬ官僚が衆愚政治への歯止めになっていたことは否定できません。

 ここでやはり重視したいのは「法律」の存在でしょう。無理難題を言う政治家をスルーする官僚は法律(「先例」も慣習「法」になる)を拠りどころにしているわけです。国民の代表者が集う立法府が決めた法律を忠実に遂行することで、国民の意向に反してはいない、それが政治家の要求と反していても、というストーリーで考えたとき、少なくとも民主的な選挙で選ばれた代表者が民主的に決議した法律は、「民意」を盾に実現を図ることを排除して何等の問題もありません。言い換えれば、法律の裏付けが無い対応を迫ることは、実は「民意」に反しているということです。

 確かにこういう事態になるとは想像も付かなかったことは事実であり、「民意」がその方向に収斂しているかもしれません。しかし、その場の感情で対応を決めるということになるとそれは近代国家の基本理念である法治主義を否定するわけで、専制国家のような独裁や、「民主主義」の名の下に行われる人民裁判と同じことになるわけで、結果的に自分たちの権利を損ねることになりかねません。

 ですから、犠牲者や被害者とその係累が主張するのならいざしらず、監督官庁や主務大臣が少なくとも法律に無いこと、無い方法で強制、規制することは、一時の満足を「民意」に与えるかわりに、将来に大きな禍根を残すことになります。



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 民意というものは確かに難しいです。しかし、民意に従っては明らかに進路を誤るという場合もあるわけです。それでも民意に従うというのが民主主義の宿命と言われればそれまでですが、だとしたら余計に国民一人ひとりの意識向上は不可欠ですし、その判断の根拠を与えることになるメディアの責任はより重くなりますし、メディアの恣意を極力排しないと、何とかの笛吹きのようになってしまいます。

 ちなみに鉄道において「民意」が進路を誤らせた例としては、1970年代の国鉄値上げをめぐる混乱があります。法定運賃制だった国鉄運賃は国会の議決を要していたがために、経営再建の一環としての運賃値上げを与野党両方から否定されたり、延期を余儀なくされたりした結果、どうしようもないところまで追い込まれて大幅な値上げを連続して「国鉄離れ」を決定的にしたわけです。

 もっともそれが分割民営化につながるわけで、民営化により収益拡大を要求され、それに必死に応えた到達点として今日の状況があると考えると、なんとも皮肉な話ですが。





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