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運の良さと科学的思考
和寒 2004年11月 4日
今年はなんと災害の多い年であったろうか。台風は何個も列島を縦走するし、さらには震度5以上の地震が連発で起こるとは。特に新潟県下の方々は、豪雨・地震災害を続けて受けたわけで、たまらない思いをしていることだろう。これら災害で亡くなられた方々の御冥福を衷心より祈りつつ、被災された全ての方々にお見舞い申し上げる。
近現代において、日本は数多くの震災被害を受けてきた。そのなかでも、死傷者の数においては関東大震災、建物や橋梁の倒壊など社会基盤への影響においては阪神淡路大震災を超えるものはないと、筆者は思いこんでいた。ところが、このたびの新潟県中越地震は、ある一点において両大震災を超えてしまった。震度5以上の揺れは、普通は「余震」とは呼べない。そんな大きな本震級の揺れが、続々と起こっている。
これは天が人間に与えた大きな試練、というよりもほとんど拷問に近い責め苦であろう。自動車に避難せざるをえず、それにより体調を崩し死に至った方も、少なからずいるのだ。被災者の方々の心痛と疲労は察するに余りある。
余震よ、速やかに止まれ。被災者の方々をなぶるように続くのはよせ。
そして被災者の方々、辛いだろうけれどこの現実に耐えてほしい。そして、いつか必ず来るであろう安寧の日を迎えてほしい。
■まえがき
さて、本論は上越新幹線脱線の件に絞って展開する。
本件に関しては、「運が良かった」という言葉がしきりに使われる。それが例えばTAKA様のような文脈で使われるのであれば、腑に落ちるところであるが、マスメディアが使うと途端に色あいが変わってくる。
マスメディアが使う「運が良かった」というのは、「ほんらい多数の死傷者が出るはずだった」という決めつけの裏返しであり、多くの紙面はそう読めるようリードされている。穿った見方をすれば「死傷者が出ていれば遠慮なく非難できたのに残念」との底意があるようにしか思われない記事さえある。当事者発言の真意はともかくとして、マスメディアの編集意図によって、文意が一色に塗り変えられているのは遺憾でならない。
こういう件は、努めて科学的に分析するべきであろう。そして、「運の良さ」は確率的(あるいは統計的)にとらえなければなるまい。なお本稿は、報道で速報されている限りの情報に基づくものであり、一部に推測が含まれていることを、予め付記しておく。
■客観的事実
新潟県中越地震は平成16(2004)年10月23日の夕刻に発生した。マグニチュード 6.8と強い地震で、しかも内陸を震源とする直下型であったため、被害が大きかった。最大震度は当初震度6強と発表されたが、のちに震度7に達するごく強い揺れがあった(川口町)ことが判明した。
上越新幹線もこの地震の直撃を受けた。沿線の地震計では最大で 846ガルの揺れが観測されており、阪神淡路大震災において記録された山陽新幹線沿線での 616ガルを、大幅に更新する値となっている。
この震源に近い箇所を走っていた「とき 325号」が脱線した。脱線の発生原因については未だ確報が伝わっていないが、おそらく強い縦揺れを受けて一瞬宙に浮き、着地する際軌道に復帰できなかった車輪があったものと想定される。
このメカニズムを再現することは簡単である。例えばレジャーシートを天幕状に張って、その上で鉄道模型を走らせてみるといい。それを下から手で叩いてみよう。模型の列車は宙に浮いてから脱線する。そういうメカニズムだと考えればわかりやすい。
地震というものは、本震(S波)がくる前に、地中伝播速度の速い微弱な予震(P波)がある。通常の地震では予震を感知して列車を止めるのだが、本件では直下型地震のため、予震と本震の時間差がなかった。それゆえ脱線の発生じたいはやむをえないと考えられる。ただし、震源からやや距離のある列車は無事に停車しており、地震感知システムそのものは正常に作動していた。
本件においては、「とき 325号」全ての車軸が脱線したのではなく、レール上に残った車軸が相当数あった。具体的にいえば、10両編成40軸のうちほぼ半数が脱線を免れていた(下図参照)。のちに詳述するが、このように脱線しなかった車軸が多数あったことが、最悪事態の発生を回避させたものと考えられる。
凡例 ○:脱線しなかった車軸 △:軌間拡幅により中間に落ちこんだ車軸 左:左側に脱線した車軸 右:右側に脱線した車軸
■おそろしく「運が悪かった」部分
以上のような脱線が発生するための条件を要約すると、以下のとおりになる。
・最大震度6〜7級の極めて大きな揺れが(絶対値分布)
・予震本震同着になるくらいの直下で発生し(空間分布)
・かつそれが新幹線営業列車を襲う(時間分布)
これだけの条件が全て揃う確率は極めて低いといわなければならない。具体的にいえば、東海道新幹線開業以来40年にしてようやく初めて発生した事象であり、東北・上越新幹線大宮開業時点から考えても20年余で初めて起こった低確率事象にすぎない。
阪神淡路大震災の時には、絶対値分布・空間分布こそ乗り越えたものの、時間分布の網(営業運転は 6〜24時であるから一日の25%が非営業時間帯となる)にかかった。これを「運良く」「たまたま」と主観的に認識することも可能ではあるが、もともと発生確率が極めて低い事象である以上、そう簡単に発生するものではないと考える方が理にかなっているといえるだろう。
ただし、発生確率が極めて低い=発生しない、とはいえないことも厳然たる事実であり、現実に「あさひ 325号」は脱線した。このように、滅多に発生しえない事象が発生したという意味において、本件は「運が悪い」としか形容のしようがないのである。
なお、先の記事における、「想定以内の災害しか起こらないという『偶然』」とは上記の考えに基づくものである。やや誤解を招く表現になっているが、「偶然」を乗り越える事象の発生は「運が悪い」と天を仰ぐしかないほどの低確率であることを付記しておく。そして、その低確率事象が発生したからといって、「神話崩壊」と手前勝手に毀誉褒貶をきめつける姿勢を許容できないことは、繰り返しながら改めて記しておく。
■「運の良さ」に助けられた部分
その一方、天佑に助けられた「運の良さ」があったことも記しておかなければなるまい。
具体的にいえば、先頭車の脱線した台車が横を向かなかったのは、まったくもって運が良いとしかいいようがない。なぜなら、同種の脱線が発生すれば、かなり高い確率で台車は横を向くと想定されるからである。
台車が前を向いている限り、列車は走っていることになる。ところが横を向いた瞬間、摩擦抵抗が極大化する。先頭車がより大きな抵抗で停まろうとし、2両目以下がそうではない場合、連結器がそのギャップに耐え切れなくなれば事象は脱線から衝突へと変わってしまう。
かなり高い確率、といっても十中八九というほどではあるまい。しかし、停まるまでにはどんな弾みがあるかもしれず、曲線区間ではその危険がさらに高いものと考えられる。この事象を避けられたのは、技術などではなく、まさに「運の良さ」といえよう。
■「とき 325号」を転覆から救った要因はなにか
「とき 325号」は完全に停止するまで 1.6kmを要し、最後尾車両が大きく傾いたものの、転覆だけはかろうじて免れることができた。各種報道ではその要因として、旧型の 200系で車重が重かったこと、ボディマウント形式だったこと、果ては排水溝が揺り籠になったとの理解不能な要因まで挙げられているが、いずれも的確ではない(※)と考えられる。
※「とき 325号」より軽量でかつより高速で走行する「のぞみ」、二階建てE1・E4系では大惨事になったはずだと指摘した「専門家」がいるが、これらは妄言に等しい。なぜなら、これら車両では、高速域でも安定走行性能を得るために低重心化が図られているからだ。「のぞみ」の屋根の低さを 100系以前の車両と見比べてみるがいい。低重心化は一目瞭然ではないか。二階建ては一見不安定そうに思えるが、二階は上に伸びていても、一階は下に伸びているのだから、相殺されている。ほんらい床下に搭載されている機器が床上配置されているぶんやや不利かとも思えるが、これは具体的数字を挙げての厳密な比較が必要である。逆にいえば、数字を挙げず(根拠を示さず)に見解を述べる「専門家もどき」の発言など、一切信頼するに値しないので、よくよく留意すべきであろう。 情報が少ないなかで、敢えて断定的に要因を挙げるとすれば、「脱線しなかった車軸が半数ほどあった」ことが効いていると考えられる。脱線しなかった車軸は、当然ながらレールにより左右動を拘束される。よって、レールに破損がない限りにおいて、正常に走り続けようとする。この左右動拘束が、車体台枠や連結器を介して、脱線した車軸をも拘束したと想定されるのである。
特に新幹線の連結器は、実質的に解結機能を持っておらず、剛性と拘束力がごく高い。ちょっとした弾みですぐ解放されてしまう自動連結器とはものが違うのである。脱線地点から停止地点の間で、レールがスラブから引き剥がされた箇所があったことを考えれば、レールより連結器の拘束力が高いと判明したことは大きな収穫である。この点は高く評価すべきであろうし、また今後の対策を練るうえでの基礎ともなるはずだ。
その一方で、7両目第4軸以降は全車軸が脱線しており、特に最後尾車両は後部を拘束されていないがゆえに、大きく傾かざるをえなかった(転覆に至る危険性も相当高かったと思われる)。そのような事態になると、もはや人為的に打つ手がなく、まさに運を天にまかせるしかないこともまた判明したのである。
■天災に対する身の処し方
何度も繰り返し記すことになり恐縮だが、「新幹線神話」なるものは存在しない。確かに新幹線で事故が起こる確率は極めて低い。だからといってゼロではない。このたび脱線が発生したが、それは低確率事象が初めて発生したにすぎない。しかも人為的ミスは今のところ見当たらない。この件をとらえ「新幹線神話崩壊」といきなり貶めるマスメディアの姿勢は、まったく許容できるものではない。
そして、このような天災をどのように受け止めるか、という人間側の問題は依然として重く残る。ある週刊誌では「新幹線神話崩壊/黙殺された“脱線予測”データ」と見出しを打ったところがある。あたかも「確実に脱線は起こると予測されていたのに無視した」ととれる書きぶりだが、これは大地震と脱線という事象が起こった後だからこそいえる、いわば後知恵の結果論にすぎない。そんな楽で手抜きな批判など、誰でもできる。たとえ不勉強な論者であろうとも。
大地震はいつかどこかで必ず起こる。しかし、いつどこで起こるのか、確実に予測する術がない以上、確率で判断するしかない。発生する確率が極めて低い事象に対し、事前に手を打つ、あるいは手を打つと合意形成することが如何に至難であるか、宮仕えした経験のある者ならば誰しも容易に理解できるであろう。
大地震・脱線の事後だからこそ「黙殺」と貶せるにすぎない。事前の段階で低確率事象に真摯に向き合ってしまうならば、その時点では優先順位の置き方がおかしいという批判の対象となる。なにしろ、予震を感知するシステムが既に存在しているのだから、屋上屋を架すことにどれほどの意味があるかということでもある。結果が予めわかっているならば、生きていくための苦労などない。結果がわからないからこそ、誰しも手探り足探りであり、皆が納得するために合意形成の道筋が重要なのだ。
そしてもう一点付け加えるならば、本件では幸いにして(と敢えて表現するが)死傷者が出なかった。それゆえ、このような議論をする余地が生じたという意味において、本件は「運が良かった」と呼ぶべきであろう。
人間は詰まるところ、確率ではなく結果に振り回される。本件において多数の死傷者が出ていたならば、「ごく低確率の事象がたまたま発生しただけにすぎないから諦めるしかない」と論じることは、人倫にもとる行為となり、いくらなんでもできない。
人間の命は、とても重い。不慮の事故が常に大きなニュースになるのは、そのためだ。結果責任という言葉のとおりで、たとえ落ち度がなくとも、偶然に偶然が重なった結果であろうとも、死傷者が出るような事態となれば、責任を追及され対策が講じられるものだ。それが人の世の常である。
しかし、事前の段階であれば、このような考え方を論じることは可能であろう。
例えば自転車は「常に倒れる危険性のある」のりものだ。しかし、車輪が回転している限り自律安定するメカニズムを備えている。「倒れる危険性」への対策は補助輪が有力だが、その確率が高い幼児以外に、補助輪をつける者は稀であろう。つまり自転車ユーザーは、「倒れる危険性」を織りこんで自転車を使っているといえる。
同じようなことが鉄道にもあてはまる。鉄道は「常に脱線する危険性のある」のりものだ。そして、「脱線する危険性」への対策は脱線防止レールが有力だが、その確率が高い区間(急曲線など)、脱線→転覆により生じる損失が大きい区間(橋梁など)以外に設置されることは通常ない。それが永年の実績であり、暗黙のうちに形成された社会的合意、危険性とつきあう人間の知恵の一種ともいえよう。
■まとめ
何度も何度も繰り返しになりくどいが、敢えてもう一度記す。「新幹線神話」なるものは存在しない。新幹線で事故が起こる確率は極めて低いが、ゼロではない。想定以上の、あるいは想定以外の事象が発生すれば、事故は起きざるをえない。
事故まで至る過程に、人為的ミスや設備面の不備があるならば、原因を究明して対策を講じる必要がある。しかし、本件のような想定以上(以外)事象による事故に対しては、別の向き合い方があるのではなかろうか。
本件直後、国交相は「地震があってもこのようなことにならないよう専門家に研究してもらいたい」と発言したというが、「事故の確率をゼロにできる」というニュアンス、「どのような大災害でも人智で抑えることができる」という思いこみが感じられるため、あまり宜しくない発言であるように思われてならない。
勿論、一国の大臣たる方が「本件はまことに運が良かった」と言えるわけなどないことは承知している。前向きな発言をしなければならないのは、いわば職責に求められる使命といえるだろう。それでも、願わくばさらに一言「いくら人智を尽くしてもそれを超える大災害の発生はありえると心掛けておいてほしい」と付け加えてほしかった。
本件に関して最もバランスのとれた発言は、「脱線のメカニズムを解明し重大な結果をもたらす可能性を限りなくゼロに近づける努力をする」としたJR東日本大塚社長のものである。
事故の確率はゼロに限りなく近づけても、ゼロになることはありえない。どれほど人智を尽くそうと、その努力を嘲笑うかのような大災害が起こることもある。よくよく考えてみれば、人間の歴史とはその繰り返しではなかったか。それゆえに、もっと鷹揚で泰然とした、危険とうまくつきあう考え方ができないものかと、切実に思う次第である。
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