このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  
  485系 あいづ  東北本線 古河〜栗橋 1978.4.9
磐越西線には特急「やまばと」の一部が乗り入れを行うようになっていたが、1968
(昭和43)年に喜多方までの電化が完成すると、「やまばと」も電車化された。そして
同年10月より列車名が「あいづ」となった。「あいづ」は会津地方と首都圏の都市間
連絡を担っており、会津への観光というより、会津からの用務客をターゲットにしてい
るダイヤ構成であった。
 上野から郡山まで東北本線を走るものの、郡山から会津若松までの距離が60km
ほどしかなく、東北新幹線開業後も乗換え等の時間を考慮すると直通のメリットがあると判断され、上野直通形態のまま残され、JR時代を迎えた。
 JR化後は「つばさ」の直通列車とともに貴重な東北特急として活躍したが、「つばさ」が山形新幹線にコンバートされ、最後の上野直通の東北特急となった。しかし、485系も大きな改装も施されないまま使用されている状態で、陳腐化が著しく、また、上野直通形態をとっているため、どうしても1往復しか設定できず、会津方面への観光
要にこたえられないなど不都合が顕在化したため、平成5年に郡山で新幹線に接続
するシャトル特急「ビバあいづ」となり、いったん消滅した。そして、これは東北特急の
上野直通がなくなった瞬間でもあった。
      ED7111 47レ 東北本線 藤田〜白石 1978.8.19
 ED71は東北本線の電化にあたり、北陸本線での実績を踏まえ、黒磯以遠の東北地
方全域を周波数50Hzの交流電化が採用されることになった。東北本線の輸送単位を
勘案すると、単機で1,000t、重連で25‰勾配区間において1,200tの貨物列車を牽引
可能な性能が求められたが、出力1,500kW級のED70形では不十分で、出力2,000kW
級の大出力交流電気機関車を新たに開発する必要があった。ただ、技術的検証を要
する面があり、まず1959年に試作機を製造、この結果を踏まえて1963年まで量産機
が製造された。
東北本線の主力機関車として使われたが、1965年に盛岡まで電化区間が伸びた際も
、冬季のエキサイトロン凍結を恐れ運用区間は小牛田まで延びただけに終わり、
その後は使用区間に変化のないままED75形の大量投入の前に次第に二線級と
なる。エキサイトロンは比較的故障が少なかったが、水銀整流器ゆえの取扱い効率の
悪さから1970年以降、シリコン整流器に交換されたことで位相制御を失い、同時に一
次形は不評のクイル式駆動装置がリンク式に改造された。末期はD形交流機とし
ては最大の出力を生かし補機仕業を中心に運用されていたが、ED75形700番台の
福島機関区転属が引き金となり1984年までに全廃となった。ED75形以前の黎明期の
交流機関車としては長く使われたほうといえる。 

 

 
   583系 はつかり1号  東北本線 古河〜栗橋 1978.4.9  EF58122 急行新星 1101レ  東北本線 上野駅構内 1978.8.18 
急行「新星」は新幹線開業前に20系寝台客車を使い上野〜仙台間を運転していました。
列車自体は地味な急行でしたが、当時、始発に乗って上野駅で撮影するときはこの列車から撮影していた記憶があります。ちなみに上りの上野着は5時36分。
上りの「新星」で印象的なのは、時刻表に「仙台では寝台は21時55分から使用できます」と言うコピーが付いていた事でしょうか。
発車が23時20分ですから、1時間以上前からホームに入線し、寝台を開放していた事になります。
運転時間が短いので、少しでも睡眠してもらおうと言う気持ちでしょうか。
ちなみに当時の寝台料金は3000円でした。
急行「新星」はED71や引退間際のEF57も牽引しています。
もっとも、深夜・早朝の運転ですので、撮影などは至難の技かも知れません。
  
181系 とき18号  東北本線 日暮里付近 1981.8.8  
  
 ED7152+29 3179レ 東北本線 藤田〜貝田 1981.11.1
 ED71は東北本線の電化にあたり、北陸本線での実績を踏まえ、黒磯以遠の東北地
方全域を周波数50Hzの交流電化が採用されることになった。東北本線の輸送単位を
勘案すると、単機で1,000t、重連で25‰勾配区間において1,200tの貨物列車を牽引
可能な性能が求められたが、出力1,500kW級のED70形では不十分で、出力2,000kW
級の大出力交流電気機関車を新たに開発する必要があった。ただ、技術的検証を要
する面があり、まず1959年に試作機を製造、この結果を踏まえて1963年まで量産機
が製造された。
東北本線の主力機関車として使われたが、1965年に盛岡まで電化区間が伸びた際も
、冬季のエキサイトロン凍結を恐れ運用区間は小牛田まで延びただけに終わり、
その後は使用区間に変化のないままED75形の大量投入の前に次第に二線級と
なる。エキサイトロンは比較的故障が少なかったが、水銀整流器ゆえの取扱い効率の
悪さから1970年以降、シリコン整流器に交換されたことで位相制御を失い、同時に一
次形は不評のクイル式駆動装置がリンク式に改造された。末期はD形交流機とし
ては最大の出力を生かし補機仕業を中心に運用されていたが、ED75形700番台の
福島機関区転属が引き金となり1984年までに全廃となった。ED75形以前の黎明期の
交流機関車としては長く使われたほうといえる。
 


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