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Ⅲ.森林鉄道編(11路線)

鉄道廃線跡探訪紀行・岩手県編


▼森林鉄道とは

森林鉄道とは、山奥から木材の搬出を目的につくられた小型の非電化貨物専用トロッコ鉄道。

道路整備が遅れた山村集落などでは人、生活物資の輸送にも活躍した。

管轄は各地の営林署たが、民間のものも少数ながらあったようだ。

青森、長野、高知など北海道から鹿児島県までの林産地で多く見られたが、林道の整備が進むにつれ、昭和30年から40年末までにほとんどが姿を消した。

現在は、鹿児烏県の屋久島と京都府の芦生(京都大学管轄)に残るのみである。


▼岩手県の森林鉄道分布

岩手県の森林鉄道は、1921(大正10)年、早池峰山〜川井村江繋、東前川山(焼石連峰)〜水沢に走ったのが最初。

以来木材搬出の主役となり、路線・距離を伸ばし、最盛期の1955(昭和30)年には、県内で30路線、延長225㎞に達した。

しかし、道路網の整備が進むにつれ、機動力と経済性に勝る自動車が普及し姿を消した。

機関車は、後にガソリンやディーゼルエンジンとなったが、昭和初期までは木炭ガスエンジンが用いられた。

軌道幅が狭いうえ、巨大な丸太を運ぶため、時速7〜8㎞の、遅い運転だった。

しかし最後尾に人が乗れる車輛を連結し、一般住民や登山者を無料で便乗させるなど、交通機関がほとんど無かった当時、山と里を結ぶ唯一の乗り物として重要な役割を果たした。

地元の方々は森林鉄道というよりも、「軌道(きどう)」と言っていた(本誌でも、森林鉄道を軌道と呼んでいる箇所があります)。施設としては、インクライン(※)などもあった。

参考文献:岩手百科辞典(1978年、岩手放送)より抜粋、一部修正補足。

※ インクライン

急傾斜地に長区間の軌道や林道を設ける代わりに考えられた施設で、山の傾斜面にレールを敷き、丸太を積んだトロッコを制動機で加減しながらワイヤーでつり下ろし、同時に空のトロッコを引き上げる装置。ケーブルカーの一種。関係者の方は略して「インクラ」とも言っていた。

参考文献:熊本営林局「年輪」編集委員会編集「年輪 —写真で語る一世紀— 」(昭和62年3月25日)より抜粋、一部修正補足。



各森林鉄道の名称は、資料不足のため正確な名前がわからないものがあり、やむなくわたしが勝手につけたものがあります。そのため、正確な名前でない場合があります。あらかじめご了承ください。


1.「謎のS字カーブ」〜松尾森林鉄道〜

区間:岩手松尾(現松尾八幡平)駅〜現安比高原スキー場セカンド安比付近

開通:不明

廃止:昭和30年代?

探訪日:平成8年

SL「86(はちろく:8600型蒸気機関車)の3重連」で有名だった花輪線岩手松尾駅(現松尾八幡平)から現在の安比高原スキー場セカンド安比付近まで延びていた森林鉄道である。

松尾八幡平駅付近が田畑、それ以降が道路になっているようで、痕跡はない。

やがて私有地へと分岐する道が軌道跡らしく、追跡を終えた。

松尾八幡平駅付近は平坦な田畑が広がるのみだが、なぜか、軌道はここを急なS字カーブを描いて走っていた。

不思議だ。


2.「松尾鉱業の鉄道と並走」〜松川森林鉄道〜

区間:大更駅付近〜現八幡平温泉郷八幡平ハイツ付近など

開通:不明

廃止:昭和30年代?

探訪日:平成8年など

花輪線大更駅から、松川を渡り、現在の八幡平温泉郷、八幡平ハイツ付近まで延びていた森林鉄道である。途中、支線などもあったようだ。

起点が大更駅前なのか、それとも、駅前商店街を少し進んだ先にある営林署関連の事務所がある貯木場跡のような空地なのか、よくわからない。

大更の街中は路地となり、平笠付近では、道路より一段高いところを走っていたそうだが県道に拡幅され、田畑の中を走っていたというところは整地されていた。

東北自動車道を潜ると、農道となり、やがて、深い森の中に入る山道となるも、一人では危険なので引き返した。

八幡平温泉郷近くの金沢集落の手前まで迂回するが、牧草地に道路が横切るだけであり、また、金沢集落から終点付近までも八幡平温泉郷の別荘地として区画整理されており、ルートは不明である。

旧地図を見るとよくわかるが、松川を挟んだ対岸には松尾鉱業の鉄道が大更から同じく並行して走り、終点も近かったのが何とも面白い。

かつてこの東八幡平には、2つもの鉄道があったことを思うととても感慨深くなる。


3.「終点が3分割」〜柳沢森林鉄道〜

区間:厨川駅〜滝沢村柳沢付近

開通:不明

廃止:戦後すぐ?

探訪日:平成10年

東北本線厨川駅裏から滝沢村柳沢付近まで延びていた森林鉄道である。厨川駅裏はパチンコ店などに、以降はほとんどが舗装道路となって残っている。

柳沢付近の方にお話しを伺うと、「戦後、この柳沢の開拓地に移住してきた。その時にレールはあったが、運行はすでにされていなかった。終点は3つに別れていた。」とおっしゃっていた。

終点付近を歩いてみると、1つ目は田畑の中の一本道、2つ目は小川の脇の登山道となっているようだった。

3つ目はよくわからなかった。1つ目の田畑は、おそらく当時は杉林で、後に開拓されたと思われる。

また、別な方は、「厨川駅裏にトロッコが並んでいるのを見た」とおっしゃっていた。


4.「終点はさらに奥か」〜葛根田川森林鉄道〜

区間:雫石駅〜堀切付近?

開通:昭和17年

廃止:昭和32年頃

探訪日:平成8年

雫石駅裏から田沢湖線(旧橋場線)を潜り、葛根田川を渡り、岩手山麓まで延びていた森林鉄道である。

旧地図によると終点は、堀切集落の北の方だが、滝の上温泉まで延びていた可能性もある。

雫石駅裏には車庫が残るとのことだったが、何棟かあり特定はできず、田沢湖線との交差地点も平坦な田畑が広がるのみで不明であった。

その後は道路やあぜ道、田畑などとなっている。

沿線付近の方々にお話しを伺うと「2、3年しか使用されなかった」? 、「街へ映画に行くのに乗った」と返ってきた。

終点付近は田畑が広がるのみだが、昔は周囲一体が杉林だったそうだ。ここから先は、県道と並走する深い草に覆われた廃道があったり、滝の上温泉入口に小さなトンネルや橋台などがあるが、軌道との関係は不明である。

平成11年春に雫石町役場で行われた過日の町内を撮影した写真展には機関車がトロッコを引くスナップがあった。


5.「インクラ、トンネルを経て隣り村へ」〜鶯宿森林鉄道〜

区間:雫石駅〜戸倉山

開通:昭和2年

廃止:昭和30年頃

探訪日:平成8年

葛根田川森林鉄道と同じ雫石駅裏から出て、鶯宿温泉を通り、インクライン、トンネルを経て、沢内村の戸倉山まで延びていた森林鉄道である。

山間にあり幅の狭い鶯宿温泉街を通っただけでも驚くのに、さらに、インクラインやトンネルを経て、沢内村まで行っていたとは・・・ 。

雫石駅裏を出ると田畑、御所ダムのダム湖の中、県道下の獣道(けものみち)、湖畔のレジャー施設や未舗装道となり、南畑大倉沢線を分岐した南畑小学校手前まで続く。

ここには、今も営林署関連の事業所があり、事務所、車庫(軌道のものを流用か? )などの建物が残る。

ここからは県道に拡幅されたようで、リゾート施設のケンジワールド前を通り、鶯宿温泉街へと入って行く。

温泉街の裏道が軌道跡と思われるが、この一段高いところにも軌道敷跡のような水路があり位置は不明である。

その後、山道や舗装道路脇の田畑などとなる。しかし、インクラインの場所は不明で、県道より分岐する山道の奥がそのようだが、草木が高く生い茂り危険で進めない。

トンネルの方は拡幅され県道のものに使用された。

沢内村に入ると道路や砂利道が跡のようだ。

その後、終点付近はダムとなり、追跡は終わった。

雫石町側の沿線付近の方にお話しを伺うと、雫石と沢内村の境の山は山菜の宝庫で、よく軌道に乗せられて採りにいったとおっしゃていた。

夢中になり、最終の軌道に乗り遅れ、明かりもない真っ暗な山中を線路だけを頼りに歩いて帰ったこともあったそうだ。

一方、沢内村の沿線付近の方に伺うと、実は、村内の別のところにも軌道があって、小杉沢というところに機関車の車庫があったとおっしゃっていた。

これは、旧地図に記載がないので位置は不明である。文献に記載のある湯之沢森林鉄道(後述)のことであろうか。

まだまだ謎の軌道が埋もれていそうだ。


6.「終点は熊もいる危険地帯」〜鶯宿森林鉄道南畑大倉沢線〜

区間:南畑〜山伏峠北付近

開通:昭和19年

廃止:昭和30年

探訪日:平成9年

前述の鶯宿森林鉄道との分岐点から別れ 山伏峠の北側付近までの森林鉄道である。

この分岐点が詳しく特定できなかったため、付近の痕跡はわからないが、おそらく、田畑か、そのあぜ道となっているようだ。

それ以降は、県道1号線の少し横の山裾にはりつくように延びる細い道となる。

その後、途中から分岐したという支線は新しい小さな赤いトラス橋から林道へとなっており、分岐点付近にあった学校は、砂利道と一体化した空き地が広がるのみであった。

森林軌道跡の終点は、全く人の気配のない山奥で、道も草木に覆われ歩けず、たどりつけないケースが多いが、ここの終点付近は、珍しく散策できた。

橋もすでになくなった川を渡り、小川沿いの山道をしばらく進んだところで道が終わっていた。

そこが終点と思われる。また、対岸にも軌道が敷かれていたようだ。

この対岸で車内休憩中、後ろから来た方が「熊がいるぞ」と教えて下さった。

近くに養蜂場があったので「やっぱりか」と思った。

もし、助言がなかったら、どうなっていたのか・・・ 。

慌てて帰ると、今度はタヌキにも遭遇。森林軌道跡歩きは命がけだ。


7.「河原に残る謎の橋脚」〜門馬森林鉄道〜

区間:平津戸〜早池峰山

開通:昭和5年

廃止:昭和36年12月

探訪日:平成9年

山田線平津戸駅近くにあった貯木場から、閉伊川を渡り、山田線と並走し、早池峰山麓まで延びていた森林鉄道である。

旧地図に記載はない。

途中、平津戸駅への支線などもあった。

起点の貯木場は広い敷地となり、今も営林署関連の事業所があり、古い木造の事務所や倉庫が残る。

事務所裏手の小川を渡る木橋には軌道のレールが使われていた。

軌道跡は、狭い道路となり、引きこみ線が分岐し小川に小さな橋脚が残る製材所を横目で見ながら、この引込み線と再合流後、閉伊川に出る。

ここから対岸にある山田線平津戸駅への支線が延びていた。クレーンで国鉄貨車への積み込みが行われたという平津戸駅に痕跡はない。

同駅は山田線の中間駅ながらターンテーブルがあったが、もしかしたら、この軌道との絡みで貨物列車の運行などがあり、そのために設けられたものだろうか。

「本線」の方は、閉伊川沿いを細い道で進み、川を渡るが痕跡はない。

その後は、国道一〇六号線に拡幅されたり、山沿いの草地となる。

この付近は、閉伊川を挟んで山田線が並走する。

当時は山田線の車窓からも軌道が見ることができたはずであるが、そのようなエピソードは皆無なのが不思議だ。

その後は、閉伊川を再度渡って山田線を潜り、林道となる。

林道先にある橋を渡った時、河原の奥にコンクリートの物体がちらりと見えた。

私の身長以上の大きな巨石がゴロゴロしている河原を危険を覚悟で乗り越え近寄ってみると、橋脚だった。

形状から軌道のものに見えた。この林道とは別のところを走っていた区間もあるのかもしれない。

両岸は深い草木に覆われ道などはなかった。

無論、その後は、林道をただあてもなく進む以外なく、痕跡は何も発見できなかった。


8.「早池峰の自然に抱かれて」〜薬師川森林鉄道〜

区間:江繋〜早池峰山

開通:大正10年

廃止:カスリン(昭和22年)、アイオン(同23年)台風により流出?

探訪日:平成9年

川井村南方の集落、江繋から早池峰山麓まで延びていた森林鉄道である。

この軌道も旧地図に載っておらず追跡は難しく現地の方に伺いながら進む。

起点の貯木場跡らしきところには現在も営林署関連の事業所があり、事務所や倉庫などが建っている。

ここから薬師川沿いに軌道は延びた。跡は道路や草地などとなり、川沿いに石積みの、のり面が残っているところもある。

軌道跡と思われる川沿いの舗装道路を進むと、やがて、キャンプ場に到着する。ここのご主人に伺うと、川の中にレールが残っていると教えて下さった。

この後、軌道跡は、はっきりせず、追跡を終える。

ここは、ほとんど何も痕跡が残っていない。きっと早池峰の自然の中に還ったのであろう。


9.「通学路が軌道跡」〜付馬牛森林鉄道〜

区間:遠野〜早池峰山

開通:昭和4年

廃止:昭和35年5月4日

探訪日:昭和60年

釜石線遠野駅裏付近から早池峰山麓まで延びていた森林鉄道である。

この軌道もまた、旧地図には載っておらず、詳しい位置関係は不明である。

起点の貯木場は早瀬川の堤防に隣接するところにあったようで、営林署関連の事業所があり、事務所や倉庫が残っていた。

ここは、遠野駅の裏より少し離れた所にあるのだが、軌道があった頃の遠野駅は現駅の裏の方、岩手軽便鉄道の駅としてあったので、この貯木場は旧駅と隣接していたのかもしれない。

早瀬川の堤防にはコンクリートの橋台のようなものが残っていたが、関係は不明である。

川を渡ると、国道340号線の一つ裏の道となって残っている。

実は、この道は、私が遠野に住んでいた頃の中学校への通学路であった。

この道を進むと製材所があり、軌道との関係を思わせる。

しかし、ここから、田畑に整地されたのか、それともあぜ道なのかわからなくなり、追跡を終えた。

私が遠野での小学校時、副読本には、ガソリンカーが木材を満載したトロッコを引く写真が一枚載っており、同じ物が「遠野ふるさと村」にも展示されているようだ。

この軌道とは関係ないが、この軌道跡近くの観光施設には、かつてクラウス17号という小さな蒸気機関車が保存されており、後に遠野駅に移設された(今もあるのだろうか? )が、レールなどは今はどうなっているのだろうか。


10.「今はなき大吊橋」〜北本内森林鉄道〜

区間:和賀仙人駅? 〜北本内川奥

開通:昭和10年

廃止:昭和38年

探訪日:平成9年

北上線和賀仙人駅付近より和賀川を渡り、北本内川沿いに延びていた森林鉄道である。この軌道もまた、旧地図に載っていない。

起点は、和賀仙人駅付近だと思われるが、同駅は新駅と旧駅があり、互いが離れてあったため両方探したが、場所は不明である。

この後は、太い流れの和賀川を吊り橋で渡ったそうで、吊り橋はすでになかったが、対岸にはワイヤーをくくりつけたコンクリートの橋台がうず高く立っていた。

付近の方に伺うと吊り橋は、よく流失したようで、また、近くに道路橋がないため、近道がわりによく歩いて渡る方もいたそうだ。

川幅が結構あるので、かなり不安定な吊り橋だったと思う。

そんなところをトロッコが通ったと聞いただけでも驚く。

その後は林道となって残っており、橋脚が残っていたが、この日はちょうど、奥で山菜を採りにきていた方が遭難したらしく、普段は静かであろう林道にパトカーや救急車が行き来していた。

一車線分ほどしかない林道なので、救急活動の邪魔となっては、と思い、車を引き返した。

なお、終点付近には、ダム建設が予定されていたが、近年の公共事業の見直しにより中止になったようである。


11.「消えた集落」〜若柳森林鉄道〜

区間:水沢〜焼石連峰

開通:大正10年

廃止:昭和45年2月9日

探訪日:平成9年

東北本線水沢駅南より胆沢町内を通り焼石連峰の方に延びていた森林鉄道である。

全長が30kmほどもあり、森林鉄道としては長い路線だった。

起点の貯木場は、福祉施設や高架道路となっており、痕跡はない。

その後は、一面の住宅地となり、ルートをたどるのさえも困難となるが、家々の間の小さな川に橋台が隠れるように残っていた。

水沢営林署脇では当時のままのようにレールが置かれ、このあたりから舗装道路となる。胆沢町若柳付近では、国道397号線脇を軌道跡の道がしばらくの間並行して走り、おもしろい。

やがて、長いトンネル、橋台などが残る林道となり、しばらく進むと立ち入り禁止となる林道に分岐し、追跡は終わる。

旧地図を見ると林道中に集落があったようだが、今は全く面影もなく、自然に帰っていた。

しかし、集落か、貯木場があったことを思わせるような草に覆われた広大な空き地もあり、興味がつきない。

なお支線などもあったようだが、どのあたりなのか全くわからなかった。

胆沢町史には大きくこの軌道の名が書かれた路線図付きの地図が付録としてついている。

通常、町史などの歴史書では、森林軌道のことなど片隅に少し載っている程度かもしくは全く記載がないのだが、これほど大きく扱っているのは珍しい。

きっと街の歴史と深く関わっていたためであろう。


鉄道廃線跡探訪紀行・岩手県編

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