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Ⅰ.一般鉄道編(11路線)

鉄道廃線跡探訪紀行・岩手県編


1.「東洋一の硫黄を運んだ道」〜松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)〜

区間:大更駅〜田頭駅〜鹿野駅〜屋敷台駅(東八幡平駅)

開通:大正3年12月

廃止廃線:昭和47年10月10日

探訪日:平成9年など

松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)は、かつて岩手県八幡平にあった、東洋一と言われた松尾鉱山の硫黄を輸送する目的でできた電化鉄道である(前身は非電化のトロッコ鉄道)。

花輪線大更駅北隣りにあった松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)大更駅には住宅などが建ち、田頭駅付近はあぜ道に、鹿野駅付近は宅地や道路に、鹿野駅〜屋敷台駅間は林地となったが、大更付近では国道脇に路盤が、田頭駅跡には待合室が、鹿野駅〜屋敷台駅間には変電所が残っていた。

鹿野駅付近の方にお話しを伺うと、この駅は、長大な貨物列車が交換できるように細長い構内だったそうだ。

また、当時、花輪線大更駅は松尾鉱山の硫黄で、国鉄管内の貨物取り扱いが全国3位内に入ったことがあると教えて下さった。

硫黄の積み込みが行われ、到着と出発のホームが違うほど広大な構内だったという終点、屋敷台駅は公園となったが、車庫や数両の客車、貨車が木材会社の敷地部分に、ホーム側面のコンクリートも土に埋もれながらも付近に残っていた。

また、近くの「松尾村歴史民族資料館」には、松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)で活躍した電気機関車が保存されている。

これは、私も目にしたが、最近まで盛岡市内の解体業者にあったものだ。

松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)廃止廃線後、電気機関車が埼玉県の秩父鉄道へ、電車が青森県の弘南鉄道へ移ったが、残った車両は、しばらく屋敷台駅構内に放置され荒れるがままだったようだ。

しかし、全国植樹祭で天皇陛下が八幡平に見られるということで、整理されたそうだ。

松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)には、盛岡駅から直通の普通列車もあったようで、国鉄のディーゼルカーキハ52が乗り入れていた。

また、遠く上野駅からの直通のスキー列車もあったようだ。

また、屋敷台駅は、晩年、観光ブームをあてにしてか、東八幡平と改称したようだ。

今はそんな栄光が信じられないほど松尾鉱業鉄道(松尾鉱山鉄道)廃線跡は、静まり返っている。


2.「思い出の引込み線」〜厨川駅周辺〜

区間:東北本線厨川駅周辺

開通:不明

廃止廃線:昭和50年代後半?

探訪日:平成8年など

私が幼少の頃、東北本線厨川駅裏には貨物引き込み線が南北に延びていた。

北の方は木造の大きな工場のような建物に、南の方は倉庫へと延びていた。

北の方は側線が何本かあり、小さな入れ替え用の機関車とたくさんの貨車が連なっておりにぎやかであった。

列車で通る度にその光景を見るのが楽しみだった。

現在は何棟もの団地住宅が建ち並び面影は全くない。

南の方はひっそりとした感じで、レールこそないが、今も倉庫とホームが一緒になった建物が引き続き利用され残っている。


3.「草に埋もれ行く貨物専用線」〜和賀仙人駅周辺〜

区間:北上線和賀仙人駅〜日本重化学工業

開通:不明

廃止廃線:平成初頭頃?

探訪日:平成8年

北上線和賀仙人駅から近隣の工場まで走る短い非電化の貨物専用線があった。

ふらりとよってみただけで資料不足もあり、北上線からの分岐点がよくわからなかったが、和賀仙人駅より横手よりに少し進んだところに草むした道が残っていたので、おそらくそれが廃線跡だと思われる。


4.「馬面電車が通った跡」〜花巻電鉄鉛線〜

区間:軽便花巻〜中央花巻〜西花巻〜志戸平温泉〜鉛温泉〜西鉛温泉

開通:大正4年9月16日

廃止廃線:昭和44年9月1日

探訪日:平成9年など

かつて岩手県花巻市には、岩手軽便鉄道花巻駅から旧西鉛温泉へ向かう鉛線と、途中、西花巻駅から分岐して、国鉄花巻駅裏を通り花巻温泉へと向かう花巻温泉線からなる花巻電鉄が昭和40年代中頃まで走っていた。

花巻電鉄は、両線とも電化されていた。

花巻電鉄鉛線は狭い道路上を走ったため、電車正面が1.6mと極端に細いその名も「馬面(うまづら)電車」という小さな電車が県道12号線の右脇を走っていた。

花巻電鉄鉛線は、花巻市の中心部に近いところでは家や商店の軒先をかすめながら走った。

花巻電鉄鉛線の起点の岩手軽便鉄道花巻駅跡は、東北本線花巻駅の南隣りにあり、今は、音楽ホールやホテルが建ち、ホテル脇には駅跡を記す小さな碑が立っている。

その先の高架道路脇には、橋脚が隠れるように残っていた。その後、岩手軽便鉄道花巻駅が廃止後、新設され起点となった中央花巻駅は個人宅の庭となった。

そして、裏路地を経て東北本線を越え、西花巻駅へ至った。

この中央花巻〜西花巻間は昭和40年10月1日の東北本線仙台〜盛岡間が電化開業のさい、東北本線と交差する陸橋が架線にあたるため付替えの必要があったが、付替えは行われず、昭和40年7月1日に廃止された。

花巻電鉄鉛線西花巻駅以降は、ほとんどが県道12号線に拡幅され西鉛駅へと向かう。志戸平駅跡では駅舎が商店に、ホームがなんと、温泉の休憩室に改築されていた。

鉛温泉付近では旧線と、わずか数年しか使用されなかったという新線があり、旧線は温泉街へ下る道、新線は県道をそのまま進んだ。

旧線の道は狭く建物が迫り、電車が通っていたことなど信じられないほどだ。

旧線の鉛温泉駅は藤三旅館前にあり、今は商店が建った。

新線の駅はこのすぐ上、バス待合所が建てられた。

終点、西鉛温泉駅は県道脇の草むらで、今も残る木の電柱に文字が擦れた時刻表が残っていた。

温泉はすでになく、道路下の空き地に古ぼけた電灯がポツンと一つあったので、ここに温泉宿があったようだ。

ところで、軽便花巻〜西花巻間に吹張(ふっぱり)という駅があったようだが、この位置がはっきりしない。

中央花巻を吹張と称する文献もあるが、中央花巻駅の少し南には、廃線跡の路地裏の道に不自然にも公衆トイレがある。

現在、トイレは新しいが、以前は古いものがあった。

駅跡の名残だろうか。

もし、知っている方がいればお教え頂きたい。

なお、JR花巻駅裏近くの材木町公園には「馬面電車」のデハ3が保存されている。


5.「廃線跡はアスファルトの下」〜花巻電鉄花巻温泉線〜

区間:西花巻駅〜花巻駅〜花巻温泉駅

開通:大正14年8月1日

廃止廃線:昭和47年2月16日

探訪日:平成9年など

花巻電鉄花巻温泉線は道路上を走った鉛線とは違い、全線が専用の線路敷。

全てサイクリングロードとなり、沿線中に橋台と終点花巻温泉駅跡にホームへ連絡したコンクリートの階段が残るのみである。

なお、花巻電鉄花巻温泉駅構内はバスの発着所となった。

私が始めてここを訪れたのは小学校の自由研究の時。

「廃止からもう10年か」と感じたが、今は、もうそれから15年以上たっている。

月日の流れるのは早い。


6.「銀河鉄道」〜岩手軽便鉄道〜

区間:花巻〜遠野〜足ヶ瀬〜仙人峠

開通:大正2年10月25日

廃止:昭和25年10月10日(軌道敷廃止年)

探訪日:平成9年など

釜石線の前身であり、詩人、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルともなった岩手軽便鉄道は、「軽便」の名の通り、JRの在来線のレール幅1067mmより狭いのナローゲージと呼ばれる軌間762mmの鉄道で、メルヘンチックな外国製小型蒸気機関車や客車、貨車などが、花巻から遠野市の仙人峠下までを結んだ。

岩手軽便鉄道は、昭和11年8月1日、国鉄に買収され釜石線となり、軌道敷脇に軌間1067mmの「新」釜石線の建設が進められ、昭和25年10月10日に釜石まで全通した。

そのため、JR釜石線の車窓からトンネル跡や橋脚など軽便鉄道時代の残照を目にすることができる。

しかし、花巻、遠野の市街地と、釜石線全通時に引き継がれなかった足ヶ瀬駅から仙人峠駅間ではルートが異なる。

また、釜石線に引き継がれなかった駅もあったようだ。

花巻市街地では、東北本線花巻駅南にあった岩手軽便鉄道花巻駅から中心部を横切るような形で進み、途中、鳥谷ヶ崎(とやがさき)駅を経由し、釜石線似内駅付近まで続くものだったが、道路などとなり岩手軽便鉄道の痕跡はない。

遠野市街地では、岩手軽便鉄道は、釜石線より一つ北側を走り、遠野駅は現駅の裏の方にあったが、こちらも道路となり、痕跡はない。

岩手軽便鉄道仙人峠駅は、国道脇の空地のようで、途中には橋台が湖水に埋もれながら残るところがあった。

ところで、釜石線青笹駅の待合室が岩手軽便鉄道時代からのものだと聞いていた。長らく、訪れていないが、今でも残っているのだろうか。


7.「前身は日本で三番目にできた鉄道」〜釜石鉱山鉄道(富士鉄釜石専用線)〜

区間:鈴子〜大橋・小川山

開通:明治13年8月30日

廃止:昭和40年3月1日

探訪日:昭和59年など

釜石鉱山鉄道は、釜石鉱山の鉄鉱石を運ぶ目的で作られた非電化鉄道で、釜石線と並行する国道283号線の脇を走っていた。

明治13年にできた前身の官営鉄道が、日本で3番目にできたという歴史的な鉄道だった。

しかし、釜石鉱山鉄道の廃線跡は、ほぼ道路に拡幅され、痕跡はないが、蒸気機関車が市内の「鉄の歴史館」に保存されている。

運行は、当初は旅客も扱っていたが、国鉄釜石線の開通もあり、後に貨物専用線となった。

私は幼少の頃、両親の運転する車に揺られ何度も釜石鉱山鉄道の廃線跡のこの国道を往復した。

しかし、当時はその存在さえ知らず、まさか、釜石線と並行して、国道脇を走っていた釜石鉱山鉄道があるなど夢にも思わなかった。

今でも釜石鉱山鉄道の存在が本当に信じられない。


8.「ポッカリと開いたトンネル跡」〜新日鉄釜石専用線〜

区間:新日鉄釜石工場〜平田付近

開通:不明

廃止:昭和60年頃?

探訪日:平成9年

山田線釜石駅前の新日鉄の工場内からトンネルを経て、三陸鉄道平田駅北付近に至る貨物専用線があった。

トンネル内で、三陸鉄道と立体交差し抜けた先の平田付近は、港か工場があったことを思わせるような広い空き地が広がるのみであった。

どのような線路配置だったのだろうか気になる。

ここで、かつて「三陸博」が行われたようである。

唯一、レールが残るトンネルだけが片隅で不気味にポッカリと口を開けていた。

新日鉄の工場へ続いた先は真っ暗であった。

余談だが、小学校の遠足で、新日鉄の工場を見学しに来た時のことを思い出した。機関車が頻繁に右往左往していた。

また、同じ頃、山田線釜石駅脇には広大なヤードがあり、国鉄(当時)とは形や塗色の異なるディーゼル機関車やたくさんの貨車を見るのが楽しみだった。

このあたりは長らく訪れていないがどうなったのだろうか。

旧地図には、甲子川沿いにも新日鉄の専用線が長く記されていた。


9.「最近消えた貨物専用線」〜東北開発セメント〜

区間:大船渡線陸中松川駅〜東北開発セメント

開通:不明

廃止廃線:平成9年頃?

探訪日:平成9年

大船渡線陸中松川駅より付近の東北開発セメントの工場まで延びていた非電化貨物専用線である。

大船渡線と接続していた。

記憶が定かではないが、訪問時はすでに廃止後のようで、レールがところどころなく、工場には取り残されたようにタンク車が数両置かれていたのを見た。

今ではレールは全て撤去されたようだ。


10.「謎の線」〜雫石川砂利運搬線? 〜

区間:橋場線(現、田沢湖線)盛岡駅付近〜雫石川河原

開通:不明

廃止廃線:不明

探訪日:平成11年

昭和30年頃の地図に、岩手県盛岡駅から橋場線(現田沢湖線)を少し進んだところより雫石川の河原へと怪しく分岐する鉄道線がある。

河原へ延びることから、砂利を運んだものだろうか。

車の窓から伺う程度だったが、この鉄道廃線跡は田畑に整地されているようで、何も残っていないようだ。

雫石川の河原には何か残っているのだろうか。


11.「大動脈の跡」〜東北本線旧線、滝沢駅付近〜

区間:厨川駅北〜滝沢駅北

開通:明治24年9月1日

廃止:昭和43年8月22日盛岡〜青森間電化完成時?

探訪日:平成10年

東北本線滝沢駅付近は30年ほど前、今とは別のところを通っていた。

しかし、勾配がきつかったようで現在の線に付けかえられた。

おそらく、東北本線盛岡駅〜青森駅間電化のさいに現線に移行され、東北本線旧線が廃止されたと思われる。

この東北本線旧線は、厨川駅北から分岐、現線の西側を通り、滝沢駅北で再合流したものだった。

この東北本線旧線の廃線跡はほとんどが、道路となっているものの、旧滝沢駅付近では住宅地となりルートさえもわからなくなる。

滝沢駅のある岩手県滝沢村は人口5万人をこえる盛岡市北部のベットタウンで、日本一人口の多い村。

そんな、「新陳代謝」が激しい街に、30年以上前の痕跡を探すのは難しいのかもしれない。

滝沢駅近くにある郵便局の方にお話しを伺うと、この東北本線旧線の旧滝沢駅は、この郵便局の前にあったそうで、ホームは駅舎より一段低いところにあり、階段で連絡したそうだ。また、岩手山への登山基地ともなっていたようで、駅ではよく寝泊りしている登山客がいたそうだ。

この東北本線旧線の旧滝沢駅の痕跡は全くなく、道路が横切り、家や商店などが建ち並んでいるのみである。

この東北本線旧線の旧滝沢駅を過ぎると住宅街を貫く道路が跡のようだ。

この周辺は、東北本線という幹線が通っていたという雰囲気は全くない。

どこにでもあるようなニュータウン内の道路が続く。

しかし、ここにマイホームを得たファミリーは、知っているのだろうか。

かつて、我が家の前に線路が敷かれ、あの巨大な鉄の塊、SLが長大な客車や貨車を牽いてゴーゴーと頻繁に行き来していたのを。

住宅街を過ぎると、やがてこの東北本線旧線の廃止廃線跡は木々に囲まれた砂利道となる。

かつてここには、首都と北とを結んだ大動脈が通っていて、東北はもちろんのこと、かの青函連絡船を通じて、北海道とも通じていた。

まさに北の幹線が走っていたのだ。

戦前、戦後、集団就職、高度成長・・・ 、人々の様々な思いをのせて。

今でこそ何気ない静かな木々に囲まれた細道だが、そう思うと、とても感慨深くなる。

やがて、この東北本線旧線の廃止廃線跡は現東北本線と合流。

何事もなかったようにこの東北本線旧線の道は鉄路へとなり、さらに北へと向かっていた。


鉄道廃線跡探訪紀行・岩手県編

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