このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
森の軌跡宮崎県南の森林鉄道跡を訪ねて<森林鉄道・森林軌道廃線跡写真探訪記> |
■9.浜瀬線(訪問日1996年2月16日、18日) 浜瀬線は、宮崎県小林市北部にある東方から浜瀬川に沿って延びていた森林鉄道軌道である。
体育館となった貯木場(1)より、浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、車一台がやっと通れるほどの舗装道路(2)となる。 (1) 浜瀬線の森林鉄道軌道の貯木場跡には体育館が。敷地は広く、大きい方の貯木場であったと思われる。 (2) 浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、狭い舗装道路に。 やがて、真新しいしトイレ(3)が見えてくると観光名所、三之宮峡の入口である。 (3) 三之宮峡の入口。写真の建物はトイレ。 右が浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の道。 浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、三之宮峡の案内板(4)に「森林軌道敷跡」と記され遊歩道となっており、枕木(5)、11ヶ所の素掘りのトンネル(6)、(7)が残っている。 (4) 三之宮峡の案内板。 (5) 三之宮峡の遊歩道脇には枕木が積まれる。 (6) 浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の素堀りのトンネル。昼間でも真っ暗で気味悪く、一人では通るのをためらってしまう。最初来た時は夕暮れ時ということもあり、かなり不気味で、距離の長いトンネルはどうしても進めず、後日、日中の明るい時に再訪してやっと抜けれたほどだ。 (7) 11も連なる素掘りのトンネル。よく残っていたものだ。 素掘りのトンネル内は、岩がごつごつしており、枕木が土に埋もれ、上部には電線を支えたと思われる碍子のようなものも残っている。 三之宮峡をまたぐ橋満橋(8)、(9)下を潜ると、約1キロメ—トルの遊歩道は終わり、浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、竹やぶの中の獣道(10)となる。 (8) 橋満橋の下を浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の遊歩道は進む(橋下の後方、川沿い)。終点方向から望む。橋満橋は、戦時中鉄筋がなく、竹筋コンクリ−トで昭和18年に造られたもので、全長17メ—トル、幅4.7メ—トル、水面からの高さ22メートル。 (9) 橋満橋より浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の遊歩道(川の左)を終点方向から眺める。 (10) 浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の遊歩道を離れ竹林の中へ。 浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、今まで宮崎県南の森林鉄道軌道敷跡を探訪した中で一番よく枕木が残っており、時折、犬釘も確認できる。 やがて、大規模な崖崩れがあり、通行不能となるが、スニーカーが水浸しになるのを覚悟で、強引に上流で浅瀬となった浜瀬川を迂回し渡りながら進んだ。 当然、浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡は、人が入った気配はなく、手で草をかきわけながら進む。 ケガでもして動けなくなったらおわり、命がけだ。 遊歩道の途切れた橋満橋下から約50分程歩いた所には、浜瀬線の森林鉄道軌道の橋が草木に覆われながらも残っていた。 その後、突然、視界が開け、大規模に木が伐採されている山に出た(11)。 (11) 木が伐採された山。インクラインがあってもいいような傾斜である。 あたりには、幼い低く細い木が立ち並んでいる。 周囲には、しっかりとした枕木が連なって残り、非常に歩き易い。 このあたりは、木の搬出場所だったのでは、と思い注意深く周囲を見渡すが、何も発見できず、この後は、再び大規模な崖崩れとなり、これ以上の探索は危険と判断し、浜瀬線の森林鉄道軌道敷跡の追跡は終わった。 昭和42年国土地理院編集の地図「須木」によると、このまだまだ先の終点付近には住居の印がある。 崖崩れの奥、もう二度と進めないこの先に、かつて人の営みがあったと思うと、大変興昧深い。 山奥深くに眠る終点付近は、今はどのようになっているのだろうか。 |
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