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Chang! 韓国遊学日記2003年1月  △TOPへ

◆1月1日(祝)①やっぱり旅行
 元旦。高校時代からここ7年間、この日に家にいたのは大学受検の年の一度しかない。例年、JR九州は正月二日間用の格安チケットを発売するので、僕にとっては年に一度の、お出かけの日なのだ。
 今年の場合は、長いようで短かった日本への帰省から、韓国へ戻る日。そして両親にとっては、忠州まで足を伸ばす3日間の韓国旅行への出発日だ。3人分の宿や列車は韓国で確保済みで、準備万端。案内役として、親孝行できればと思う。

 昨夜は遅かったが、休日にしては早起きして出発。鳥栖から博多までは、週末特急のかもめ102号を利用した。元旦の午前中、定期列車の続行運転で、ほとんどが自由席ということもあって、かもめとしては異例なほど空いていた。運転区間は肥前山口〜博多、車販もなしと快速のようなノリの特急ではあるが、豪華な革張りシートの座り心地を30分弱、味わった。
 タクシーを利用して、博多港国際ターミナルへ。両親の未来高速・片道のチケットは一万三千円と、僕の韓国発学割片道と大差ないのが面白い。両親のチケットも韓国で買えば安くなるかなと思っていたが、そうは問屋が卸してくれなかった。韓国価格が適用されるのは、韓国人でも日本人でも、韓国発のチケットのみだ。
 港のトイレに入ると、何やらハングルの落書きがあった。「韓国万歳」「秩序のない日本」。トイレに落書きをするような輩に、秩序を語る資格などないと思うが。ハングルを分かる日本人などいないと思っているのか知らないが、僕を含め少なくないんだぞ。

 高速船の乗客は正月とあって多く、日韓半々といったところだ。出国手続きを難なく終え、乗船してみれば客室乗務員の一人はこの間お会いした方。「お久しぶりです」と韓国語で声をかけたら覚えていてくれた。キビキビした働きぶりには、母は感心することしきりだった。
 出航し外洋に出ると、かなり揺れはじめた。この間よりも激しく、トイレに駆け込む人もいる。天気予報では波高2.5〜3mと予想していたが、この時期としては特別高いほうではない。高速船は揺れずに快適と評されるが、季節によりけりと言った方が正確なようだ。両親は眠りこけているから関係ないかと思っていたが、後から聞いてみたらもう懲り懲り、帰りは飛行機でよかったとのことだった。
 乗り物酔いにはさほど弱い方ではないものの、辛い道中を耐え約三時間、ようやく釜山の街並みが見えてきた。何度見ても、大都会への迫り来るような入港の印象は強烈だ。釜山港に上陸、入港手続きも終え韓国の地を踏んだ。どう、海外まで来た感想はと問えば、
  「いつも出前に行く範囲しか動かないんだから、出掛けただけで(どこでも)異世界よ」
 そんなものかもしれない。


◆1月1日(祝)②やっぱり正月
 釜山銀行で両替して、あまりにも重い荷物を肩に、四度目の道を地下鉄中央洞駅へと向かう。汗が出そうだ。
 時間はもう四時をまわっている。今夜の泊まり先は地下鉄で50分程の海雲台で、早く行った方がいいのだけど、釜山の繁華街だけでも見ておこうというわけで、新興繁華街の西面で途中下車した。旧正月を祝う韓国では、新正月は普通の休日。なるほど地下街には人が溢れていたけど、ロッテ百貨店はお休み。よくよく見てみれば地下街のお店もお休みが多く、残念だ。

 地上に出て、目の前にあったのが全国チェーンの張うどん。韓国に来てまでうどんでもないよねと思ってたら、両親は異国のうどんに興味津々のようだ。うどん屋としての研究心もあるのかもしれず、ならばとドアを押した。
 入って早々従業員に「外国人やん」と笑われ、国際都市釜山でもこうなのかと失望したが、とりあえず中身も分からぬまま三杯オーダー。父の「張うどん」はごく普通の関西風うどんだったが、母のビビンうどんは野菜と絡める、酸っぱめの冷たいうどん、そして僕のポックンうどんは大皿に山盛りの辛めの焼きうどんだった。
 両親はもちろん、僕も日本との感覚の違いにびっくり。ポックンは好評だった。量の多さには驚きだったけど、後から入ってきた女の子グループを見ると、1つ頼んでみんなで食べるもののようだ。21歳男子の健康な胃袋を生かし、何とか平らげた。

 まだ開業間もない地下鉄二号線に乗り、一路海雲台へ。休日ということもあり、郊外まで来ると利用者はパラパラといったところだ。景勝地の海雲台だが、二号線の同区間は全線地下で、車窓などまさに望むべくもない。
 二号線の予備知識はほとんどなかったが、地下鉄海雲台駅は国鉄の同駅前。泊まり先の「ホテルリベラ海雲台」へも近かった。道の両側には古びた食堂やゲームセンターが並び、母は、
 「懐かしい。昔の鳥栖駅前もこんな雰囲気だった」
 と感動していた。父はというと、出来たばかりのHOF(ビアホール)に興味深々のようだ。
 ホテルリベラは、一昨年の韓国旅行の最後に泊まったホテルで、5万5千ウォンながら新しくて9階から海も眺められる、アタリの宿だった。5千ウォン値上がりしていたものの、その良さは健在。今回は少し日本語ができるスタッフもいたし、PCルームも前回あった記憶はなく、活用させていただいた。
 残念だったのは、8階までのリベラ百貨店が「新正(新正月)休業」だったこと。TVをつけてみれば正月特番が流れていて、電気量販店ハイマートのコマーシャルも「あけましておめでとうございます」と連呼。デパートまでも正月営業が始まった日本の今日より、余程正月らしいかもしれない。

◆1月1日(祝)③やっぱり焼肉
 少し休んでから、街へと出た。両親は昨日まで、何週間も休日返上で働いたのだし、ホテルでゆっくりしたいかなと思ってたけど、散歩する気は満々らしい。道ではとにかく車、特にバスに注意。両親は旅行保険に入っていないので、万が一はあってならない。
 幹線道路を渡り海辺に出ると、砂浜沿いに高級ホテルが並び、リゾート地の雰囲気だ。出店や食堂も多く、夜の帳が降りたというのに散策する人は多い。射的の出店には、両親は目を輝かせていた。この海雲台には温泉もあり、駅、温泉、道路、ホテルの位置関係はさながら別府温泉のようだが、海岸に集う人の多さは段違いだ。
 とうとう砂浜を端まで歩き、同じ道を引き返すのも芸がないと山側に入ってみたら、方向感覚を失った。新しいショッピングモールや、建設中のアパート団地など迷い歩き、ようやく海雲台の中心部に戻ることができた。だいぶ歩かせてしまったけど、
 「いいのよ、旅行なんだから。そんな気分になる」
 この子にしてこの親あり。いや逆か。

 海雲台名物といえば、海雲台カルビ。そこで、カルビの店にはいった。裏通りの小さな店を選んだつもりだったのに、中で表通りにもつながっている大きな店で、日本語メニューもあった。炭火焼きの本格カルビだ。店員さんは日本語を解さないようだけど、母は構わず日本語で質問し、おばさん店員も韓国語で答えている。おばさん同士に国境はない、ようだ。
 うどんでお腹も膨れているので、高級品のカルビ1万2千ウォン也を2人前だけ、そしてビールを注文。ずらりと並んだキムチと付け合わせに、両親は圧倒されていた。僕は慣れたけど、大方の日本人には驚きの、そして嬉しい習慣だ。
 お腹はいっぱいだったはずなのに、豚カルビもビールも追加して、本日二度目の満腹で大満足。僕が留学に来て以来、最も豪勢な食事だったように思う。
 帰り道には寝酒をLG25で、明日の朝ごはんをパン屋で買い込み、ホテルへ戻った。窓からの夜景も美しい。まずは順風満帆、満足の1日目だった。


海雲台駅

ゆったり快適セマウル号
◆1月2日(木)①鉄路旅
 朝7時半。パリッとしたシーツ、柔らかい布団の寝心地は良く、気持ち良く目覚めた。ところが両親はうかない顔で、
 「暑すぎて、眠れなかった」
 オンドルに参ってしまったらしい。韓国らしさを味わえるように韓国式の部屋を選んだのだが、畳に慣れた日本人にはオンドルは暑いのだ。僕は慣れたので、どうということはなかったが、辛い思いをさせてしまった。

 国鉄海雲台駅からは数本、ソウル方面への直通列車が走っていて、9時発のセマウルもそのうちの1本。それに乗るべく、昨日通った道を国鉄駅へ向かった。かつて1月2日は韓国でも休日だったそうだが、経済が危機を迎えたIMF不況の時に「返上」して以来、普通の平日となったままで、地下鉄駅にはサラリ−マンの姿が見られた。
 一方国鉄駅は、地下鉄開通の煽りで釜山の近郊列車が廃止され、通勤輸送では精彩を欠くが、どうしてどうしてセマウルはほぼ満員の盛況だった。こんな時間に観光地を発つ人など少ないのではと思っていたが、海雲台区はそれ以前に、人口400万を抱える釜山のベットタウン。普通の海雲台区民の利用を集めているようで、一旦ターミナルへ出ねばならないバスに対する、鉄道の持ち味のようだ。
 超特急セマウルとはいえ線路等級は低いらしく、ひしめくアパート群をゆらりゆらりと抜けていく。高密度な宅地開発を行う韓国の都市計画には、目を見張るばかりだ。
 京釜線へ入れば本来のセマウルの走りを取り戻し、都市を串刺しにしていく。平日とはいえビジネス客を中心に、乗り降りは多かった。

 幅広の座席でゆったり過ごし、3時間余りで忠北線の乗り換えターミナル・大田に到着。乗り継ぎ列車までは1時間余りあり、ここでお昼ごはんを食べることにした。駅を出で右手には普通の大衆食堂が並んでおり、おばちゃんに呼び込まれ思案。
 「カルビタンっていって、カルビが入ったスープで美味しいんだよ。5千ウォンだから少し高いけど、いいんじゃない」
 と、半分その気で、父に水を向けてみたけど、
 「うんにゃ、麺類がいい」
 さすがは1年のうち、6/7の昼食をうどんで過ごしているだけあり、習慣は変えられぬらしい。ふと隣の店の舌代を見てみれば、チャジャン麺があるではないか。日本ではジャージャー麺と呼ばれる中華料理だが、ラーメンがもはや日本食であるのと同様、韓国では大衆食の地位を確立している料理で、これなら文句あるまいと迷わず飛び込んだ。
 日本なら政令市クラスの大田特別市の玄関、大田駅前の食堂だが、飾りっ気は一切ない。日本でも昔はそんな店があったとは、母の弁だ。ジャージャー麺は、東京の中華料理屋でアルバイトしていた時に、賄いで出された思い出の食べ物なんだそうだ。韓国の料理といえども、辛くはない。ようやくごく一般的な韓国の味を、味あわせてあげることができた。値段も2千5百ウォンと、大衆価格だ。
 昼食の店を早く見つけたおかげで時間もあり、地下街から市場へ、ぶらぶら歩く時間にも恵まれた。“個人”がひしめき合う市場の熱気には、毎度圧倒される。市場の中には2階が旅人宿になっている店舗があり、どんな夜を過ごせるのかと興味を惹かれた。

◆1月2日(木)②下宿挨拶
 忠州へ向かうこの時間のムグンファに乗るのは、忠北線の列車本数が限られていることもありこれで3度目。忠北線に入り、忠州へ近付くにつれて、沿線には残雪が見られるようになった。隣のおばあさんに、
 「いつ降ったんですか」
 と聞いてみたところ、このところずっとなのだそうだ。僕が日本に帰ってから、雪の季節になったらしい。これをきっかけに、このおばあさんと会話が持てたのだが、
 「昔、日本語を覚えさせられてね」「独立記念館は行ったの?」
 など、少し反日色を滲ませていてドキリとする。行きずりに出会った人とこんな話をしたのは、実は初めてだ。

 忠州郊外の、周徳駅で降りる。
 「ずいぶん田舎なのね」
 「いやいや、ここは町外れでね‥‥」
 今年3月から日本留学する、チェハン兄が案内をしてくれるというので駅で待ち合わせしていたのだが、電話してみると「あと30分待って‥‥」。おいおい、韓国人ってホント約束守らないんだなと思ったが、この時はちゃんとした理由があったようで、後から「ご両親に、済みませんでしたとお伝え下さい」と言われ、逆に恐縮してしまった。
 ともかくそんなに時間もないので、こちらからバスで下宿に向かうことに。乱暴運転でオンボロの田舎バスも、日本人なら滅多に乗る機会はないし、いい機会だ。15分待ってやって来たバスは、やっぱりぐんぐん飛ばす。両親を余計に歩かせまいと、下宿に近いバス停で降りれるよう目を皿のようにして景色を追っていたら、運転士さんに心配されてしまった。

 無事、狙いどおりのバス停で降り、田舎道を下宿へ歩く。老朽化で本来は通行止めの橋をドキドキで渡り、ようやく忠州の我が家に到着した。
 着いてみれば、まさにやす君が日本に帰省する所で、満載の登山バックを背負った凄まじい出で立ちだ(なんでも「ゆず茶」の瓶詰が詰まっていたらしい)。
 「遭難しないでね」
 と見送った。部屋にはチェハン兄に、アキコ、斤銖兄(日本語サークル会長)、そして下宿のおばさんも集まった。引っ越しのときに下宿生の親が来ることはよくあるらしいが、日本からわざわざやってきた人はもちろん初めて。時間がなくて慌ただしかったが、貴重なひとときだった。


雪の忠州湖

キジ鍋
◆1月2日(木)③しっとり観光
 改めてチェハン兄の車で、市内観光にGO! 新しくて立派な、起亜のワゴン車だが、外見は砂ぼこりで汚れていて、チェハン兄はしきりに恥ずかしがっていた。もっとも、ウチが言えたことではないが。
 まずは僕らの学舎、忠州大学校へ。“車窓観光”で終わりかなと思ってたけど、寄宿舎には学生が誰もいないのに管理のおじちゃんが詰めていて、中を見せていただけた。もっとも誰もおらず何もない寄宿舎には生活感がまるでなく、学生たちの声を想像するのは難しい。
 続いて川沿いの道をひた走り、訪問団とともに行った中央塔と博物館へと向かった。日没が近く、博物館も5時の閉館が近付いていてまさに駆け足だった。日本語の実力では右に出るものはいない斤銖兄だけど、「敬語がうまくできないから‥‥」と、終始押し黙ったまま。敬語の実力だってちゃんと持っていて、単に人見知りなだけのようだ。「普通の」日本人と話すなんて、めったにない機会なのに、もったいないなあ。

 そして忠州観光のハイライト、忠州湖へ。昼間は氷点下とはいえ日差しがあり、さほど寒くはなかったけど、夕方になれば風が身を切る。そんな中の忠州湖は、枯れ木の山と灰色の水面、雪の白と、モノトーンの世界だった。新緑や紅葉の季節もいいだろうが、この景色も墨絵のようで味わいがあった。
 もう夜の帳も降りてきていて、休憩所で例の薄いコーヒーを飲み休んだら、一路今夜の泊まり先、水安保温泉へ向かった。この道が難路で、クネクネの山道を30分ほどかけた。水安保常緑ホテルには、きちんと観光公社からの予約が入っていたが、昨日のこともあり洋室に変更してもらう。部屋まで来た所で、斤銖兄は、
 「じゃあ、僕らはこれで」
 「そんな、せっかく案内してもらったんだから、夕食食べて行きましょうよ」
 なぜか、チェハン兄と斤銖兄はごそごそ話し合いはじめた。日本語の勉強をしている2人は、ちゃんと日本の「社交辞令」という文化も知っていて、言葉通り受け止めていいのやら迷っていたのだ。
 「確かに日本ならそういう事もあるけど、今日は本当の気持ちです」
 と言って、外の食堂で水安保名物のキジ鍋を囲んだ。観光地価格ではあるけど覚悟の上。甘辛く味付けたキジ肉は初めてだったけど、クセもなく美味しかった。父の空になったグラスに気付き、サッと手を伸ばすのはチェハン兄で、僕は「あー、気付かんかった!」と悔しがることばかり。さすがは韓国人男性、見習わねば。

 3人と別れてホテルの部屋へ戻ると、どっと疲れが出てきた。それでも好奇心が疲れに勝る親子3人なので、水安保の温泉街へ踏み出した。シーズンオフで人通りは少ないが、飲食店やナイトクラブのネオンだけがやたら眩しい。安いのはコンビニよりスーパーでしょう、と普通のスーパーでお酒とつまみを買い込み、意気揚々とカラオケBOXに入った。
 さすがは観光地、1時間1万5千ウォンと高値で、1時間だけ楽しむことにした。日本の曲もたくさん入っている機種だったので安心してたのに、日本曲目次が新曲しかない。僕はこれでも充分だけど両親が納得するはずもなく、フロントに掛け合ったら奥に用意してあった。おかげで両親も満足できて、1時間では足りないくらい。大学前のカラオケのように、サービス延長はないかなと期待していたが、叶わなかった。
 フカフカベットに倒れ混むと、もう動けない。父は、HOFに行ってみたい気持ちがあったようだが、21歳の僕が動けなかったのが情けない所。無理しても行くのが孝行だっただろうか。


水安保温泉の川
◆1月3日(金)①ソウルへ向けて
 海雲台も水安保も温泉地だが、まだ浸かっていない。せっかくだから1回は入っておかなくてはというわけで、父と僕だけで朝風呂に行った。韓国の温泉ホテルでは、宿泊者でも有料なのが普通で、半額の2千5百ウォンを払わなくてはならない。
 さらにホテルに泊まることも滅多にないというわけで、高いのは承知でレストランの朝食を体験。僕のソルロンタン6千ウォンは、朝食らしく胃に優しい。父の米国式朝食事‥‥アメリカンブレックファースト8千ウォンは、量が少なめだったが、食後のコーヒーはかなり美味しいかったそうだ。元喫茶店のマスターが言うのだから、間違いないだろう。忠州の意外なところに、「本物のコーヒー」があった。
 9時15分にはホテルを出て、バスターミナルへ。昨夜も雪が降ったらしく、氷が張っている。一段、寒くなった感じだ。両親は夕方6時の飛行機なので、今日はその時間までソウル観光の予定。ソウルへの直通(快速に相当)バスがあるが、忠州からは優等バスが出ているので、一旦忠州ターミナルへ出ることにした。

◆1月3日(金)②非常事態
 忠州までの切符を買って売店でも覗こうかとしていたら、切符売りのおばさんが何やら叫んでいる。まさにバスが出る所で、「次のでいいです!」と答えたが、必死に止めてくれるのでバスを追った。バスの転回場は凍結して、ツルツルだ。
 「滑るよ!」
 ずっこけたのは、そんな母の声とほぼ同時。やっちゃった、恥ずかしいなと起き上がろうとしたら、足が言うことを聞かない。見てみれば、膝から下がありえない方向を向いているではないか。
 やべえ、脱臼か骨折だ‥‥
 なんて割合平静でいられたのは、以前友達から骨折体験談を聞かされていたから。それでもとっさの一言とは出ないもので、「来てー!119ー!」としか言えない。半分パニックの母が、やっぱり通じない日本語で「大変、足が外れてる!」と助けを求めたおかげで、只事でないとバスから数人の人が降りてきてくれた。

 救急車を呼んでくれたようで、ひとまず待っていた忠州へのバスは出ていった。今も見守ってくれている人は、バスを1本遅らせることになってしまったことになる。鞄を枕にしたり、励ましてくれたりと、見知らぬ僕を助けてくれる。多謝。僕からも、頼れる人へ電話を入れておいた。
 やって来た立派な救急車から降りてきたのは、意外にも救命士と運転士の2人だけ。しかも救命士さんは女性だった。担架に載せられる時‥‥この時から、僕の痛みの記憶が始まっている。激痛。しかし女性救命士の手際は見事だ。忠州市内へ向かう間も笑顔で「韓国語お上手ですね」などと声を掛けてくれ、ひとまずは大丈夫なんだと思った。
 「母さん、ごめん‥‥」
 「なんであんたが謝るの。私が売店なんかに行ってるから」
 「オレが走ったからだよ。もう21歳なんだから、自分の責任だよ」
 「何いってんの、まだ21歳なんじゃない」
 きっと何歳になっても、僕は母の子供なんだろう。涙が出そうだった。

◆1月3日(金)③バカ息子
 忠州市内までは20分もかからず、さすがは救急車だ。車が段差を越える度、担架が敷居を越える度に「ぎゃあ!」。骨折って、こんなにも痛いものとは知らなかった。救急診察室に入れられ、たどたどしい会話で診察が始まった。大腿骨、膝から上2/3の所で骨折。ただ足以外はどこも負傷しておらず、特に頭を強打しなかったのは不幸中の幸いだ。救命士さんは「治療よく受けて下さい」と、風のように去っていった。
 アキコと斤銖兄も来てくれて、レントゲン室へ向かう時に、ようやく顔を合わせることができた。レントゲン撮影は、思い出すだけでも恐ろしい。担架から移されるとき、向きを変える時、戻るとき、地獄の痛みはこんなものかと思った。

 そして処置が決定。膝にピンを刺して吊り、骨を本来の位置に戻すという。これも以前に友達の体験談を聞いていたので、理解可能だった。麻酔は打つが、それでも刺すときはかなり痛いらしい。
 「先生、韓国語ではこんな時、アイグって言うんですか?」
 「アイグ、はは、そうだね。」
 「分かりました。じゃあそう言います」
 なんて冗談をかましつつ、恐怖を紛らわせ覚悟を決めた。痛いというよりは熱いという感覚で、約束通り「アイグー!」と叫んだ。
 そして下半身はパンツ1枚、膝にはピンという、情けないような痛ましいような姿で、処置室を出た。アキコも母も、膝に向いた視線が固まっている。異様に高い病室のベッドに運ばれ、ひとまずの救急処置は完了した。
 はあ、なんてこった。
 年に一度の両親の連休、楽しい旅行だったのに、こんなヘマをかましてしまうなんて。でもだからこそ、張り切り過ぎていたのだと思う。友達4人と行った中学の卒業旅行でも、注意力が散漫になって、大枚4万円を落としたことがある。そんな自分の性格は、よく把握して制御しなくてはならなかった。戒めだ。

 ところで入院してみて初めて知ったのだが、韓国の病院では看護婦さんは医療に専念し、身の回りの世話は家族がするのが基本だという。身寄りのない人は、1日5万ウォン程で世話人を雇うのだそうだ。母は残って面倒を見ると言っているが、明後日からは店も始まるし、とてもそうしてもらう訳にはいかない。斤銖兄も協力してくれると言っているし、友達に交代交代で来てもらうことになった。
 午後1時、そろそろ出ないと仁川空港まで間に合わない。両親だけでは恐らく難しいだろうから、アキコに空港まで送ってくれるよう頼んだ。こんな事態を起こし、しかも一番痛々しいところを見せて帰すなんて、心が痛い。まったくオレってやつは‥‥ 両親が病室のドアを閉めたとき、涙を我慢できなくなった。
 ただこんな状況でも不幸中の幸いだったと思うことは、他にもある。きちんと国民健康保険に入っていたおかげで3割負担で済んだ上、日本で入っていた入院保険も適用されそうなので金銭面での心配がいらなかったこと。怪我をしたのが忠州で、しかも頼れる人がいたこと。今が冬休みなこと。入院1ヵ月、全治2ヵ月の診断だから大学の授業へは影響しない。
 きっといずれ、こんなことが起きる運命だったんだ。ここで頑張って完治させようと、この時は本気でそう思った。

◆1月3日(金)④赤ん坊
 身動き出来ぬ身、排便は溲瓶とポータブル便器でしなくてはならない。忠州病院は古いが、新しい病院ならベッドに便器が組み込まれていて、こんな苦労はないそうだ。介助は全部、看護婦さんではなく周りの人がしなくてはならない。こんなことまでさせて、恥ずかしい気持ちよりも申し訳なさが先に立つ。「下品だ〜」「小さい〜」と言われても、任せるほかない。
 足はがっちり固定されているので、身動きはおろか寝返りすら打てない。腰のあたりが痛く、こんな状況で眠れるのだろうか。
 一方、空港に向かった両親は、大雪に進路を阻まれ足止めを食ったが、飛行機も遅れたおかげで何とか間に合ったとのことだ。翌4日は空港閉鎖の事態になったようで、
 「4日まで休みなんだから、明日までいて」
 なんて弱音を吐かなくて、本当に良かった。何よりだ。
 さて、アキコも戻ってきてくれたけど、今夜ばかりは外泊準備をしていないので、泊まり込みの看病はできないという。一人は怖いけど仕方がない。なんと枕元のナースコールもなく、内線電話とテレビを操作できる位置まで動かしてもらい、不安な眠りに就いた。

 やはり腰が痛くて目覚め、時計を見れば寝てから2時間も経ってない。どうしても耐えられず看護婦さんを呼び出し、なされた処置は鎮痛剤注射。これ、毎日2回の日課ではあったのだが、めちゃくちゃ痛い。しかも腰の痛みには無力だ。
 やはりまた目覚め、2回目も鎮痛剤注射。3回目も打たれそうになったときには、さすがにそういうことじゃないと薬に変えて貰ったが、気休めにもならなかった。
 都合4時間は眠れたけど、朝6時には寝ることを諦めて、テレビで気を紛らわせた。こんな夜が、ずっと続くのだろうか。耐えるしかないのだろうか。

◆1月4日〜6日・手術待機
 腰の痛みは、やはり長くは続かなかった。ベッドに少し傾斜をつけるだけで、だいぶ楽になることが分かったのだ。看護婦さんにも、こんな対応をしてほしかった。足のためには水平にした方がいいらしいが、眠る時くらい安静にしたい。
 寝ながらの食事、排便、体拭き。する側される側とも、だんだんと慣れてきた。暑ければ暖房を止めてもらわなくちゃいけないし、自力で足先まで毛布をかけることもできない。この間の世話役、斤銖兄とアキコは、ほとんどつきっきりの看病だった。午後の4時間ちょっとこそ家に帰る時間はあったけど、休憩にもならない休憩だったと思う。感謝に尽きない。

 部屋は外国人だからか、2人部屋を1人で使わせてくれた。お金は少し高いらしいけど、保険はでるのでその点の心配はない。本来は患者用のベッドも、世話役が使うことができる。
 他の部屋ではどうされているのかというと、ベッドの下に入れられている長椅子のようなものを、付き添い用のベッドとして使っているらしい。固くて狭く、これは大変だ。

 部屋のTVはだいぶ古かったが、動けない身ということで、どこにあったのかリモコン付きの最新型TVに取り替えてくれた。NHKこそ移らないが、CATVのほとんどのチャンネルを見ることができて、以後僕は情報通になってゆく。
 看護婦さん達からもいろいろと気にかけてもらって、世話役がいないときの身の回りのことなど、「仕事外の仕事」もだいぶやってもらった。今は何もできないけど、治ったら必ずお礼に来ようと思う。

 この数日間、急の知らせを聞いて、いろんな方にお見舞いに来ていただいた。
 都市工学科からは、鎮教授をはじめ3人の先生方に来ていただき、都市工学科の先生方から集めたという20万ウォンを頂き、大きな励みになった。次の学期からは建築工学科に移ろうかなんて思っていたが、心の中で撤回する。
 都市工学科の1年生・建東君は入隊が早まり、来週には軍隊に行かなくてはならないそうだ。清州で遊ぼうと約束していたのだが、果たせなかった。冬休みに立てていた予定はそんなに多くはなかったが、全部おじゃんだ。
 その他にも、下宿のおじさんおばさん、日本語サークルのみんなに、初対面の学生会長まで来ていただいた。
 ところでお見舞いといえば、日本では果物か花あたりを持っていくのだろうが、韓国では飲み物の詰め合わせが定番のようで、みなさんそうだった。これ、人の家を訪ねていくときにもポピュラーなお土産だが、栄養の吸収がいい飲み物は、こんな時にもありがたい。果汁+高カルシウムジュース(骨折だから?)、豆乳、冬虫夏草栄養ドリンク、ファイブミニと、各種栄養が揃った。
 もっとも快食快便で、点滴も常に打っているのだから、栄養状態は万全も万全だろう。

 こうして手術までの間は、辛い状況ながらも、前向きにその時を待つことができた。

◆1月7日(火)手術前日
 手術は明日の午後3時。24時間前より、飲食禁止となった。身動き出来ない状態での空腹など喉元過ぎれば忘れてしまうが、乾燥の中水分が摂れないのは辛い。緊張で体も強張ってしまうが、この病院の医療を信じ、覚悟は決めている。
 と、“通知不可能”でケータイが鳴った。日本からの電話ではよく、「病院でケータイ使っていいの?」と言われていたが、ここ忠州病院に、携帯で異常をきたしそうな機器は見当たらず、フリーのようだ。第一、僕のは電波が弱いPCS‥‥PHSだ。

 声の主は母だった。手術のことが心配で、近所の整形外科に相談したところ、
 「たぶん田舎だと、昔の方法で手術することになると思う。それだと傷が、かなり大きくなる。ソウルの病院まで行けば、日本と同じような治療が受けられるだろうから、考えてみたら?」
 前日にもなって突然、そんなことを言われても‥‥もう手術の準備だって済んでいるだろうし、第一この病院に失礼じゃないか。無理なことを言って、下手に不安を煽らないでよ、と、半ばふて腐れて電話を切った。
 ところが、タイミングとは不思議なものだ。1時間もしないうちに、鎮教授のノックの音が聞こえた。受け入れている大事な留学生のことでもあるので、先生方同士、いろいろと話し合っていたのだという。そして、ここの病院での手術が成功するかは、自信がない。ソウルの病院へ移るか、日本へ搬送するか、それともリスクを負ってこの病院で受けるか‥‥手術同意書のサインを前に、選ばなくてはならなくなった。
 一応、この病院の先生を信じていたけど、大腿骨とはいえそんなに難しい手術だとは思っていなかったし、当の韓国の人から「うまくいくか分からない」と言われれば、俄然不安になってきた。こればかりは、僕の一存では決められないと、今度はこちらから家の番号をプッシュした。
 ところが、今度は母の意見が変わっていた。もし忠州病院の先生も、自信がなかったら外人の手術なんて請け負わないんじゃないの? 事実、その間執刀医の先生と話し合ってきた教授は、
 「いつもやっている手術だそうです。安心していいでしょう」
 と、これまた意見が変わっていた。

 そんなわけで手術に同意。改めて覚悟を決める。

◆1月8日(水)手術日
 そして迎えた手術当日。全身麻酔で意識ないまま終わるのだろうけど、やっぱり怖い。手術日用の、極太点滴針を刺される。痛い。
 午後には、下宿のおばさんも励ましにきてくれ、そのまま午後3時を迎えた。高さがあるベッドなので、担架への移動はそこにいる全員がかり。毛布を掴んで一気にのせ変えるのだから、落とされたって不思議はない。しかも足は固定しないままだから、折った日そのままの激痛が甦った。
 痛みに唸りつつ、エレベーターに乗って手術室へ。ドラマで見るようなイメージと違って、広く明るい部屋だった。こんなものだったんだ。手術台への移動もまた同じで、しかも執刀医が、遠慮なく足を持ち上げて毛を剃るものだから、悲鳴をあげるしかなかった。そんな執刀医から出た言葉は、
 「お前何歳だ!」
 おいおい、手術を前に不安で一杯の患者に、それはあんまりじゃない? こんな状況でも、「おじさん」と呼ぶ看護婦に「おじさんじゃないです!」と返してた俺は、大した芸人魂の持ち主かもしれない。韓国語の「おじさん」のニュアンスは、日本語のそれとは異なるらしいけど、せめて「学生」と呼んでほしいな‥‥。
 しかし意地を張る間もなく、全身麻酔のマスクをかけられ、「もっと深く吸って」との声を聞いたか聞かないかのうちに、意識は遠のいていった。

 そして目覚めて目に入ったのは、本当に病室の天井。アキコと斤銖兄が、僕の顔を覗き込んだ。寝かせられたときの姿勢が悪かったらしく、関節の痛みで起こされたものだから、目覚めが悪い。しかもレントゲン撮影がまだとかで、寝ていたのは担架の上だった。頭が重く、刺激‥‥音も光も辛く、声も思うように出ない。日本語を聞く分には耐えられそうだが、韓国語で話しかけられると頭が割れそうだ。いつもは極力韓国語で話すようにしている斤銖兄にも、「今は日本語で‥‥」とお願いした。
 レントゲンの撮影も終わり、ベッドに戻るときはさしたる苦痛もなかった。太い点滴が相変わらず痛いし、喉が乾いて仕方がない。お腹も空いた。それでも無事、手術は終わった。保険適用外15万ウォンの鎮痛剤点滴のおかげで、痛みもなし。後は時間が薬になってくれるはずだ。

◆1月9日(木)手術翌日
 ようやく食事ができるようになり、朝御飯はお粥の特別メニュー。昼からは普通の病院食に戻り、大丈夫なんかいなと思いつつ、恐る恐る口にした。全身麻酔で、新陳代謝機能が止まったのかどうか便が出ないが、どうせ昨日まで何も食べてなかったのだからと、気にしないでおく。
 点滴針が太いからか、刺した看護婦さんが下手だったからか、腕を動かすと痛い。
 「そんなときは、こうやって時々動かしてください」
 と看護婦さんから無理に曲げられ、またも悲鳴。え、そんなに痛かったのと、逆に驚かれてしまった。

◆1月10日(金)病院ではない!
 手術前、寝たままの排便にはすっかり慣れていたのだが、「出にくく」なると辛いものがある。部屋から出てもらって、声を張り上げて力んでいたら、
 「どうしたんだ、ベットから落ちたかと思ったぞ」
 とクンス兄が入ってきた。
 動くのはあまり良くないらしいけど、自然な態勢をとるのが一番だろうというわけで、トイレまで行くことにした。自由な左足を使って、慎重に車イスに乗り移る。一週間振りに起き上がったものだから、頭がクラクラだ。
 だが、本当の障害はそこからだった。まず点滴を吊るす場所がなく、手に持たなくてはならない。病室の入り口に無意味とも思える段差があり、車イス介助の経験がある人でも危険だ。扉は開き戸。廊下に出てみれば、物が溢れ狭く、手すりすらない。そして車イス用のトイレすらないのだ。
 便所の入り口にもまた段差があり、入ってみても手すり一つない。左手で扉を掴み、右手には点滴。パンツがずり落ちても、防ぐ手だてはなし。足を曲げられないので扉も閉められず、隠すことなんて考えてはいけないようだ。ここまで苦労した成果は‥‥ほんの少し。また危険な道をベッドに戻ったら、どっと疲れた。

 今まで、病室から出られなかったから気付かなかったけど、古いとはいえあんまりな建物だ。危険なのはもちろん、ちゃんとしていれば不要な介助も、1人は余計に必要だろう。福祉建築コースの学生として、それ以前に建築系学科の学生として、今まで学んできたことがどれだけ大切なことだったか、身に染みて分かった。
 そしてこの建物は、建築計画上、病院とは言えない。

 もっとも、病室から出られたことは治っている成果の一つで、少し嬉しくはあったのだが。

◆1月11日(金)ギブアップ
 「これは普通の便秘のせいなので、便秘薬下さい」
 とお願いしていたので便秘薬は処方されたが、安易に薬に頼ってはいかん。第一、便秘に頼った後の「モノ」を捨てに行くのは嫌じゃないか。と意見は一致し、牛乳とヨーグルトの“食事療法”にチャレンジしてみた。
 昨日と同じ苦労をしてたどり着いたトイレだが、今日はとうとう、全く成果が「出なかった」。日に日に体力が落ちていて、もう気張る力すら残っていない。ベッドに戻れば一日の全ての体力を使い果たしていて、食事も喉を通らなかった。
 心身、疲れ果てた。涙が出た。この病院じゃ、治るものだって治らない。病院を変わりたいと訴えた。

 そんなことを考えている事を家に電話してみると、変わった病院がそこよりいいとも限らないし、そんな心配したくない。いっそ、日本に帰ってきてはどうかと持ちかけられた。手術前の搬送が可能なら、今の状況で不可能なはずはない。以後数日、日本へ帰って新しい病院に入るということだけを目標に、生きていくことになる。

◆1月12日(土)最終手段決行
 今日も、昨日より体力が落ちた。望みをかけていた便秘薬も、まったく歯が立たず、むしろ辛くなった気がする。苦痛の元を増やすだけだから、ご飯も食べたくない。だから体力も落ちるのか‥‥ なんだか絶望的になっってきた。

 ところでアキコとクンス兄は、僕の世話で多大な貢献をしているということで、大学総長から激励があるそうだ。確かに激励されるくらい大変なことだし、金銭も少し出るそうで、そんないいこともないと2人も持たない。ただ、2人が大学に行っている間の、僕の事は‥‥? 学生課は、そこまで考えてくれない。看護婦さんが、昼食の介助や排便など、韓国では仕事外の仕事までしてくれた。治ったら、この人たちにもお礼に行かねばと思う。
 そしてその間、便秘治療の最終手段が、遂に決行された。若い看護婦じゃ恥ずかしいでしょ、私がやったげるからねと言ってくれたのは、優しいおばさん看護婦さん。想像以上の苦しみののち30分後‥‥全ては体外へ。お腹が軽い。
 その日の夕食は、ことのほかおいしかった。

◆1月13日(月)どこまで落ちる
 苦痛の元は取り除かれたはずなのに、体力の減退だけは止まらない。勉強なんて、もともとやっていない。頭が重く、本が読めなくなった。テレビを見るのも辛くなった。今日は目を開けているのも嫌になり、CDプレーヤーの音量を最小にして耳を傾け、ただひたすら時間が過ぎるのを待った。
 今日はどん底だろう、明日からは快方に向かうだろうと信じていても、翌日にはさらに辛くなっている。負の連鎖にはまってはいけないが、この状況を前に為す術はなかった。

◆1月14日(火)底はここだった
 なぜか涙が止まらない。訳も分からない。昨日は想像しえなかった、「今日よりも悪い明日」に、やはり今日もなってしまった。
 だが朝、「もう少し頑張れるんじゃないか」とアキコに諭された直後、頭がフラフラになってベットに倒れ込んだ。いや、もともと横にはなっているのだが、もし立っていれば倒れたんじゃないかと思うような眠り方だった。そしてこの日、昼食の時間以外、夕方までこんこんと眠り続けた。
 そしてその眠りから覚めてみれば‥‥ 力が沸いていた。気分もいい。どうしたというのだろう。忠州大から九州への学生訪問団から帰ってこられた鎮教授から、
 「完全ギブスを作ってから帰るのがいいのではないですか」
 と言われても、素直に受け入れていた。
 いずれ日本に帰って診断、治療を受けたい気持ちに変わりはないけれど、もう少しここで頑張ってみよう。支えてくれる人への感謝を、忘れることなく。

◆1月15日(水)世話役交代
 2日に見送ったやす君が、日本から帰ってきた。日本訪問団に行っていた赫昌兄も一昨日帰国。斤銖兄もアキコも10日以上に渡る看病だったので、この辺りで交代ということになった。ありがとうございました。
 便秘は、一度出してしまえばすっかり良くなってしまった。点滴に鎮痛剤注射は毎日のことだし、身動きできず風呂にも入れない日々は続くけど、抜糸を待つだけの安定した日々だ。もちろん足を治して歩けるようになりたいが、快食快便はそれ以前の基本だと、強く思う。
 この調子で勉強もする気になったかというと、寝たきりで頭は常にボーっとしていて、そうもいかなかった。入院の日には、ここで1ヵ月間勉強もしないとね、なんて言っていたけど‥‥ それとも、意志が弱いのかしら。

◆1月16日〜21日①パクリTV
 韓国のテレビ番組と聞くと、「日本のパクリが多いんだよね」という印象を持っている人も多いだろう。今までは、そうとも限らないと思っていたけど、入院してテレビを見る時間が増えたら、そんな番組をいくつか発見した。
 日曜昼12時20分、放送時間までまったく同じなのは、「のど自慢」ならぬ「歌自慢」。もっとも、こちらでもかなりの長寿番組のようで、もうすっかり韓国の文化に溶け込んでいるようだ。案外、逆に日本がパクッていたりして。
 「王中王戦」‥‥これは以前の「筋肉番付」に雰囲気がそっくり。パクリと断じるわけにもいかないけど、ヒントは得ていそうだ。
 タイトルまで同じ!? と驚いたのは、「九死に一生スペシャル」ならぬ「九死一生」。九死に一生を得た出来事を、再現VTRで送るコンセプトは同じだが、「奇跡の生還」より「偶然に助かった」ストーリーが多いところが違いだ。
 「珍品名品」は、どう見ても「なんでも鑑定団」の模倣。司会と鑑定士軍団の立ち位置や、鑑定金額の出し方、果ては「出張!何でも鑑定団」まで同じなのは驚きだ。唯一の違いと言えば、ゲストが鑑定金額を当てる、クイズ番組形式になっていることぐらい。ここまで似ているからには、当然テレビ東京に許可を求めている‥‥だろう。そう信じたい。

 で、驚くのは、これら全てが公共放送・KBSの番組であることだ。もちろん民放にもSBSの「カラオケ1000」(=テレ朝「全部歌えたら1000万円」)などなくはないが、KBSほどにあからさまな模倣ではない。放送界の模範たる公共放送が、こんなことでいいのかなと思う。

◆1月16日〜21日②ドラマ
 やることのない入院生活、テレビドラマは毎日の「お楽しみ」だった。
 月・火曜の夜10時はお馴染み、視聴率50%越のSBS大河ドラマ「野人時代」。50回に渡った第一部は、日本の敗戦、宿敵・美和警部の壮絶な自決とともに幕を下ろし、第二部へと突入した。それとともに、主人公・金斗漢を含めてキャストががらりと変わってしまったものだから、違和感といったらない。まわりの声を聞いていると「最近は見てないな」という声が多く、50%オーバーの視聴率も過去のものかもしれない。

 水・木曜日の夜10時は、MBCミニ劇場「ヌンサラム」。雪だるまのことだ。警部と部下のラブストーリーで、恋愛モノが多い韓国ドラマでは特筆すべきものでもなさそうだけど、これがかなりの人気を博しているそう。言葉が分からぬ以上、「どう」面白いのかわからないのが悔しい所だ。

 韓国語では「ドラマ」の範疇に入らないそうだが、一話完結のコメディドラマ・MBCの「ノンストップ」は、月〜金曜まで、6時50分から毎日放送。男女共同(!!)の大学寄宿舎を舞台に繰り広げられるコメディで、これが結構笑える。韓国の大学生を知る上でも役立ち、例えばCC=キャンパスカップル、なんて言葉も初めて学んだ。CCC=キャンパスカップル・カッター(CCを別れさせてしまう人)なんて言葉が本当に実在するのかは、定かではないが。

 ところで韓国では見た限り、日本のようなサスペンス、推理モノ、刑事モノのドラマは存在しないようである。そんな中で、MBC月曜夜11時10分の「実話劇場・罪と罰」は、実在の事件とその裁判を再現していく、異色のドラマだ。間には実際の事件の映像や、被害者の証言インタビューなどもあり、どちらかというとドキュメンタリーの範疇になるかもしれない。こんな番組、日本であっても面白そうだ。

 ドラマそのものの数は、日本よりもかなり多そうだ。特にSBSは、8時のニュースが終われば立て続けにドラマが並ぶ。各キー局とも、ケーブルテレビにはドラマチャンネルを持っていて、24時間ドラマを楽しめる。日本人よりドラマ好きなのは、間違いなさそうである。
 こうして韓国のドラマに親しんでいる僕だが、日本にいた頃にドラマを見ていたかというと、忙しかったこともあって数えるほどだ。ドラマは世相を映す鑑、1〜2本くらいはチェックしておくものかなと、考え直した。韓国ドラマは、分かりたくても分かりきれないという、消化不良の反動でもある。

◆1月16日〜21日③アニメ
 やす君が来てくれるようになってから、アニメを見る機会も増えた。50チャンネル以上を誇るケーブルテレビだから、アニメ専門に近い子供チャンネルも、ちゃんとあるのだ。といっても、ほとんどが日本のアニメ。アラレちゃんからカウボーイビバップ、浦安鉄筋家族(!)まで、日本のアニメはほとんど放送されているのではなかろうか。
 日本文化の完全解放はまだ先の韓国だから、そのまま放送しているわけではない。登場人物は韓国の名前になっているし、看板もハングルに置き変わっている。「はじめの一歩」で、“浪速のロッキー”が“釜山のロッキー”になっていたのには、やす君はいたく感動していた。

 まあ、ここまでは納得しよう。しかしドラゴンボールでは、やじろべえの足元に、ぼかしがかかっていた。やじろべえが履いているものと言えば‥‥わらじ!? 確かに日本の履物だが、それすら放送NGだというのか。日本文化を制限している経緯などは重々承知だけど、こんな形になって現れているとは、思っても見なかった。
 第一、鉄腕アトムから培われてきた日本製のアニメは、日本の文化の一つだとも言えるはず。その輸入と放送を認めた以上、細かい部分にこだわるのは無意味ではなかろうか。母親が子供に「なんでここ、ぼやけてるの?」と聞かれたら、何と答えろと言うのだろう。「低俗な日本の履物が映っている」とでも説明するのか。そんな文化の多様性も知らない偏った人間を作る方が、余程異常である。
 ちなみに日本語サークルの人たちには、もともと日本のアニメが好きで、日本に関心を持ったという人が少なくない。

 ところで、韓国製のアニメはどうなのかというと、技術的には20年遅れだとアニメ好きの先輩が言っていた。見たかぎり、僕にはよく分からないけれども‥‥ 「キムチボーイ」なる、嘘のようなホントの作品が存在する。

◆1月16日〜21日④珍客
 滅多に体験できない‥‥という言い方もできる、韓国での入院生活。病院食はどうだったかというと、やっぱり辛いし、キムチも当然3食出てくる。健康にいいか悪いかは知らないが、やはり食事はこうでなければ、韓国人は食べた気がしないのだろう。
 それはともかく、夕食が5時だったのは、健康体に戻るほどに辛かった。

 三度ほど、見知らぬ人が病室に入ってきたことがある。一人は単なる病室の間違いで、驚くことではない。もう一人は、教会からの布教。しつこく勧誘するわけでもなく、紙を一枚置いていっただけだった。
 そして一人はなんと、靴下の物売りだった。こんな所にまで商売に来るのだから、その商魂は驚くべきもの。もっとも靴下などは入院生活に不足するものだし、この病院には売店もなかったから、考え様によっては便利なのかもしれない。


1月27日の大雪
◆1月16日〜21日⑤雪
 僕が骨折した日の雪も相当なものだったが、「三寒四温」の韓国の冬だから、毎週大雪に見舞われることになる。もちろん「温」でも最高気温は1桁で、九州の「寒」レベル。「寒」は、最低気温が零下15度を記録した日もあるから、札幌くらいの寒さだろうか。僕は病室に閉じこもっているから関係ないが、お世話に来てくれる人にとっては大変だったと思う。
 ところで、毎週恒例の大雪の度に「交通機関マヒ」などのニュースになるのだが、雪への備えは出来ているのだろうか? ニュース映像を見るかぎり、チェーンを装着した車など稀だ。東京の大雪も同じような事態になるが、毎週の話ではない。地中に温水を通し、凍結を防ぐ日本のシステムがニュースで出ていたが、韓国にはそこまで備える「余裕」が、まだないのかもしれない。
 ニュース映像では、ツルっとこける人々の姿がよく映し出されていたが、今の僕の精神衛生上、非常によろしくない。そんな画面に向かって「気をつけろー」「ダメじゃん」とぼやくのが、いつしかネタになっていた。間違いなく、周りにウケる。

◆1月22日(水)抜糸
 手術から2週間、抜糸の日を迎えた。またあの手術室でやるのかな、痛いのかなと少し怖かったのだけど、週3回やっていた消毒のノリで、いとも簡単にチョキンチョキンとやられた。チクチクするくらいで、大した痛みでもない。18針、でかい傷だ。
 同時に、点滴も今日までだそうだ。腕が未熟な看護婦さんからやられると痛かったし、束縛されている感じもあったので、これは嬉しい。

 部屋には松葉杖が置かれ、歩行訓練の許可が出た。といってもまだ半ギブスを付けたままで、足自身を持ち上げる力もないものだから、やす君の付き添いの元でも苦戦。体力も続かず「また明日頑張ろう」と、諦めた。
 それでも久しぶりに座ってテレビを見ていると、ようやく血が全身を巡りはじめた思いがした。

◆1月23日(木)治療開始
 「午後からムルリチリョーですよ」と言われていた。辞書をひいてみれば「物理治療」。一体全体、どんな治療なのだろう。
 昼食後、半ギブスも外されて、看護婦さんの付き添いの元、松葉杖をついて歩かされた。大丈夫かなと思っていたけど、なんとか歩けるものだ。ここまでは良くなっていたのか。ただ体力が落ちていることもあり、すぐに息が上がってしまう。

 エレベーターで6階へ。韓国のエレベーターは扉が閉まるまでの時間が短いが、それはここ病院でも例外ではない。「開延長」ボタンすら存在しない。こんな自由に歩けない状況では、挟まれてはならじと、緊張と焦りが伴う。
 物理治療室に入ると、まずは右膝の温めからスタート。そして、右足を機械にかけられた。
 「このボタンを押すと戻るから、痛いところまで曲がったらボタンを押して下さい」
 その機械には、事前に先生によって「目標値」が設定されていて、とりあえずはそこに到達することが目標だ。3週間近くも固定していた足なので、もう棒のように固くなっていて、少し曲げれば激痛。曲がるようになるものなのだろうか。

 初日ということで、あまり進展もないまま病室に戻ると、アキコが来ていた。松葉杖をついて歩く僕を見て、「自分でトイレ行けないかな?」。
 えー、歩けるには歩けるけど、右足が自力で持ち上がらない以上、ベッドから起き上がるのは無理だよ。と思っていたが、ビシバシ鍛えられ、いつしか僕も「こうすれば出来るかも」と試行錯誤を重ねていた。
 結果、右足のズボンを手で持って、一人で座る態勢に移ることに成功。そのまま立ち上がり、開く病室のドアに注意しながらトイレの洋便器までたどり着けた。やった、成功! 足は曲がらないから、トイレのドアは閉めきれないけど、1人で用を足せるのは大きな喜び。1歩前進だ。
 実は他の友達の都合がつかず、15日からやす君1人がずっと世話役となっていた。僕自身は安定していたから精神戦にはならなかったけど、体力的にはきつかったそうだ。でももう歩けるから、身の回りのことなら自分自身でできる。着替えは持ってきてもらわなくちゃ行けないけど、自立に向けた一歩が始まった。
 久しぶりの一人の夜。すこし不安もあるけど、友達に辛い看病生活を強いないで済むのは、とても気が楽だった。

◆1月24日(金)挫けず
 今日からは、午前午後2回の物理治療だ。まずはホットパックで温めつつ足を動かし、その後に“曲げ伸ばし機”へ。目標値ははるか遠いように感じるけど、「もう限界」のもう少し先まで耐えればなんとか届く。それを何度か耐えるうちに、限界が限界でなくなるのだ。逆に、自分で限界を設定してしまえば、もう先へは進めない。なるほど、人生の困難とは、こう乗り越えていくものなのかなと、妙に悟った気分だった。

 その治療の途中や最後に、先生が薬を塗ってくれるのだが、その後に、
 「どれどれ、曲がるようになったかな」
 といった感じで、無理にぐいぐいと押してこられる。今回、何度も痛い目には逢ったけど、いや今までの人生の中でも、これがNo1の痛さだった。おそらく、その悲鳴は6階中(もしや5階まで?)響いていただろう。それでも、先生は決して手の力を緩めることはなかった。
 この痛さ、この自分なら間違いなく挫けてしまいそうなものだったけど、徐々に右足が自分のものになってきているとい実感が支えで、持ちこたえることはできた。
 「こんな痛みがいつまでも続くはずはない。治っているのだから、だんだん軽くなっていくはずだ」
 と信じ、耐え抜く。が、痛みは声になる。

 汚い話、この21日間シャワーも浴びてなければ、髪すら洗っていない。松葉杖にはまだ慣れないとはいえ、動き回れるようにはなったので、みんなに手伝ってもらって洗髪にチャレンジした。うーん、生き返る気持ちとは、こういうことか。
 この病院、シャワー室はないので、体全体を洗うのはしばらくお預けだ。

◆1月25日(土)朝飯前のピザ
 今日は土曜日ということで、物理治療は午前中のみ。相変わらず痛いが、右足の力は少しづつ付いてきている。自力で上げられるようになったので、ベッドの乗り降りはかなり楽になった。明日の治療はお休み。ほっとするのが正直な気持ちだ。
 今日は韓国語教育の権威・ソウルは延世大学へと“転校”した(正確には、冬休みを利用しての受講)、留学生友達がお見舞いに来てくれることになっている。が、ようやくかかってきた電話では、
 「3階まで来たけど、どこー?」
 部屋の外に出ても、陰も形もない。間違えて、「忠州医療院」に行っていたというオチでした。
 年末に大分で会って以来、ちょうど1ヵ月振りの再会。延世大学の講義はさすがにハードで、宿題の量も半端ではないらしい。それに、
 「みんな、お昼ごはん外に食べに行こうっていうから、お金がかかってしょうがない」
 そうだ。外に食べに行った所で、日本の物価にしてみれば大したことはないけど、韓国での生活を10ヶ月続けている身では、そんな換算式も忘れてしまったろう。
 そんな韓国にしてみれば御馳走で、念願だったピザを買ってきてもらい、結局ほとんど1人で食べてしまった。快食快便になってしまえば、これくらい朝飯前だ。

 故郷に帰っていた斤銖兄も、久々にお見舞いに来てくれた。足が上がるようになり、今までは絶対に無理だった見送りにまで来れるようになった僕を見て、とても喜んでくれた。はよ治そう。

 ところで、今日のトップニュースは「全国インターネット麻痺」。なんでもサイバーテロの被害に会ったらしいが、全国的な被害とはただごとではない。IT先進国で、日本の先を行くと自負している(であろう)韓国のネット網も、案外弱かったのだ。
 もっとも、日本が同様の攻撃を受ければそれこそ、ひとたまりもなかったろう。

◆1月26日(日)治っている実感
 治っている実感をより強く感じられるよう、1日に1ずつやることを増やしている。毎日の記録も、簡単にだけど付けはじめた(からこそ、この日記ページも詳しくなってきている)。晩に1回だけ頼んでいた歯磨きも、遠慮なく朝・晩2回に増やした。ボサボサの髪も整えるようにしたし、洗顔もできる。少しずつ、いつもの生活へと戻りはじめた。つるつるの床で、入り口の段差も大きい洗面室には要注意だが。

 赫昌兄へ、ネットで買っておいて下さいと頼んでいたCDが、
 「Eマートで安く売ってるけど、買う?」
 と電話が入ったので、もちろんと即決。さっそく届けてくれた。2枚合わせても2万5百ウォンだった。
 1枚は、先月発売されたブラウンアイズの2ndアルバム。ワールドカップのテーマソングを歌った「Voices of KOREA/JAPAN」のメンバーでもあったので、記憶のある方もいるかもしれない。韓国では数少ない「TVには出ません」という実力派だ。いい意味で韓国人離れした、透き通る高音が心地いい。ジャケットも素敵だ。
 もう1枚は、9月発売のBoAの特別企画アルバム「Miracle」。全曲、日本でリリースされた曲の韓国語版という異色の作品だ。忠実な訳というわけではないらしいけど、日本版と聞き比べれば、韓国語のいい勉強になるかもしれない。
 以後、退屈な入院生活の中で、お気に入りの2枚となってゆく。

◆1月27日(月)努力
 月曜ということで、物理治療再開。曲げ伸ばし機械の治療は、幾度とない苦しみの末、ようやく最終目標値に達した。「もう終わりだと」と先生に言われた時の喜びは、例えようもなかった。止まない雨はないのだ。
 が、喜びに浸る間もなく、治療は次の段階へ。器具を使い、自分の力で少しずつ足を曲げていくという、これまた精神力との戦いとなる治療だ。
 「力がないなら、オレがやってやるからね」
 「ありますあります。自分でやります!」
 何のこれしきと、自分で目標値を定め頑張っていたら、先生が思ったより頑張っていたらしく、驚かれていた。今日の「先生の押し」では、22歳にしてとうとう泣いてしまったけど、挽回だ。

 昨日、よい「教材」を買ってきてもらったので、ようやく韓国語の勉強も再開した。もちろん歌の歌詞などより、ちゃんとした教材でやた方が偏りない勉強にはなるだろうが、気分の乗り方が全然違う。とりあえずは、この程度の勉強でスタートだ。

◆1月28日(火)屈す
 治療は引き続き精神戦。そして今日も、先生から押しの一手が入る。
 「泣きなさんなよ」
 って言われても、痛いものは痛いんだもん。でもいつもはやがて引いていく痛みが、残っている。痛くて、曲げるどころではない。治療には入れず、先生も「あれ?」という表情だ。これまで一度もやったことがなかった、電気治療へとかけられた。
 痛みで足は少し曲がらなくなってしまい、2日間・4セット分は後退してしまった感じだ。あれだけの痛みを耐えた分が‥‥ かなり、心にこたえた。言葉でどう痛いのか、説明できればこんな目に会わずに済んだのだろうか。

 もっとも、日本に帰って治療を受けるのは以前から考えていたことで、それを見越して看護婦さんには相談していた。それで、特に以前からよくしてくれていた看護婦さんから、なぜか「PC房に行きましょう」と誘われた。
 訳も分からず、約1ヵ月振りに外の空気を吸ってPC房へ。少し歩いただけで息が切れる。しかもPC房は2階で、手摺りもない恐ろしく急な階段を登る羽目になった。
 ここまで来た目的は、飛行機を予約するためなんだと、ようやくわかった。電話ででも出来るのだけどなと思いつつ、折角の好意なのでJALのホームページを開いた。明日は空いているものの、できる話ではない。旧正月後の2月3日に空席があり、一応押さえた。よし、この日に帰ることを前提に話を進めよう。結論を出さない限り、目指す道は見えない。

 夕食時間を過ぎて戻ると、婦長さんにお目玉を食らった。どの看護婦と行ったのか問われたが、外国人特権ということで「え?」という顔でごまかす。といっても無断外出をとがめられた訳ではなかったようだ。
 「今度から外出するときは、友達と行きなさい、友達! 昔、看護婦と患者ができちゃうドラマがあってね、そんな風になっちゃ困るでしょう」
 そういうことね。
 さて、3日に帰りたいという方向は決まったものの、仁川までの足のアテがあるわけではない。自力でバスというのもない話ではなく、そうなると今日、PC房まで行っただけで疲れるような体力では、祖国までたどり着けない。というわけで1階に降りて、黙々と歩行訓練を続けた。

◆1月29日(水)空港までの道程
 物理治療室の先生、治療は乱暴だが、決して悪い人なわけじゃない。いつもコーヒーを持ってきてくれるし、今日はなぜか「有名になるかもしれないから」と、色紙にサインを求められた。仁川空港まで自力で行けるでしょうか、との問いには、
 「うーん、あと4日もあるし、ずっと歩けば間に合うんじゃない?」
 なんて、笑える答えを返してくれた。

 この日、鎮教授も久しぶりにお見舞いに来て頂いた。「行きたい気持ち」はあったそうなのだが、あまりに多忙なため延び延びになっていたそうだ。仁川空港までの足は、学生課の方に頼んで頂けた。これなら安心、日本間での道は開けた。
 ただ、あまりにもとんとん拍子に事が決まってしまったので、ずっと看病してくれていた友達への相談がなかったのは、失礼してしまった。飛行機の予約ができた時点で、ちゃんと言っておくべきだった。


誕生日記念のパパイスチキン
◆1月30日(木)生日
 今日は、僕の満22歳の誕生日。数え年が基本の韓国でも、病院では満年齢を用いるらしく、入院患者名簿のホワイトボードを書き直しておいた。
 物理治療室へ行く途中、主治医の先生とすれ違い、「どうだね?」と聞かれたので、こんなに良くなりましたよと足をブラブラさせてみたら、
 「だめだよ、3ヵ月は安静にしておかなくちゃ」
 え、3ヵ月? 確か入院の時には全治2ヵ月と聞いていて、今日まで信じていたのだけれど。しかしその後、日本の病院へ出すための診断書を見せてもらったら、やっぱり「12週間の安静加療が必要」とあった。なんだ、2ヵ月っていうのは気休めだったのかよ。3月には韓国に戻って学業復帰というプランも、少し難しそうだ。

 物理治療室で、今日は誕生日なんですよというと、「誕生日プレゼント」と、いつものコーヒーに加えチョコパイが出てきた。いつも涙の僕を見ていた女医さんも、「今日は痛くなくしないとね」と祝って? くれた。
 「韓国では誕生日にわかめスープを食べるけど、日本は何を食べるの?」
 これは、今日が誕生日だというと決まって受けた質問だ。バースデーケーキは日韓ともにあるし、わかめスープに相当する習慣は、僕の知るかぎり日本にはない。

 夜、テッキョンサークルの1年生君が、チキンセットを持って参上。さらに日本語サークルのみんなもバースデーケーキ、お菓子に酒(!!)まで持ち込んで押しかけて、祝ってくれた。まるで、勝手に日本に帰ることを決めてしまった一件がなかったかの如く‥‥ わあ、なんていい仲間なんだと、涙が出そうになった。
 缶ビール一本で、あっというまに出来上がってしまった。半分夢見心地の、嬉しい誕生日だった。

 みんなが帰ったあと、11時からTVで始まったのは、楽しみに待っていた正月特別劇場「シュリ」。2度日本で見た韓国映画のヒット作だけど、字幕も吹き替えもないのが逆に新鮮だ。CMなしの完全ノーカット放送で、日本ではカットされていた冒頭のグロいシーンも放送された。そんなわけで、画面の右上には「19」の数字が表示されている。19歳以上対象の番組という意味で、韓国ではアニメやドラマのほとんどに示されているものだ。
 暴力シーンのあるアニメは12歳以上、規制なしの番組では刃物を出さないなど、基準は細かく決められているようだ。15歳以上対象のはずのドラマが、小学校で話題になりこともあるらしいけど、実際に子供に見せるか否かは親の責任ということだろう。これなら「暴力シーンを放送するな」などとTV局にクレームは入らないだろうし、すべての番組を子供対象にする必要もなく、うまい方法だと思う。日本も、お手本にする価値はあるのではないだろうか。
 久しぶりに見た「シュリ」は、手に汗握る映画だった。もっとも、ストーリーをだいたい覚えていたから分かっただけかもしれないが。


ソウル→釜山11時間
ソウル→光州12時間…
◆1月31日(祝)TV渋滞
 今年の旧正月・ソルラルは2月1日で、いよいよ3連休に入った。日本の冬休みのように、会社は前後1週間くらい休みになるのだろうと思っていたが、カレンダー通りの休みしか貰えないようだ。しかも今年は土日と重なり振替休日もなく、本当に3連休だけで終わってしまう。
 この3連休の間に故郷へ帰省し、親族と新年を祝い、また都会へと帰って行かなくてはいけないのだがら、道路の渋滞は秋夕(旧盆)に輪をかけた凄まじさになる。もっとも激しかった時間帯では、通常5時間の釜山〜ソウル間が11時間半になった。この時期、高速道路の1車線はバスレーンとなるのだが、バスだけで渋滞してしまう様は壮観だ。
 以上、「ソルラル道路情報」を眺めていて知ったことだが、こうして一人、渋滞のTV画面を眺めるのは初めてではない。秋夕の時も風邪をこじらせ、一人寂しく過ごしていた。結局、1年の留学期間にも関わらず、韓国の名節とは縁がなかったわけで、思えば波瀾の留学生活だ。

 こんな日だからみんな故郷へと帰り、TVが友達の休日だった。ソルラル特番もちらほらやっていて、日本人も含めた外国人パネラーたちが挑戦する「ハングルで遊ぼう」は楽しかったが、どちらかというといつもの番組が多かったのは意外だ。
 チャジャンミョン(ジャージャー麺)食べたいと話していたら、看護婦さんがおごってくれて、僕にとってはそれだけが特別な出来事だった。婦長さんは帰省してしまったけど、普通の看護婦さんにはそれこそ、盆も正月もない。お疲れさま。

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