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Chang! 韓国遊学日記2003年2月  △TOPへ


新年、あけましておめでとうございます
◆2月1日(祝)正月は帰省
 「新年あけましておめでとうございます」
 と、いつもの食事担当のおばちゃんが朝食を持ってきてくれた。なるほど、新正月もソルラルも同じ挨拶なのか。そういえば、新正月前後に流れていたハイマートのCMも、最近復活していた。
 「ソルラルなのにお疲れさまです」
 と返しておく。

 正月だというのに、日本語サークルの先輩が遊びに来てくれた。
 「親戚がいっぱい来てるんでしょ? いいんですか」
 「子供ばっかでうるさいから、逃げてきた」
 なるほど、韓国でも正月に対するいろんな考えの人がいるのだ。

 でもやっぱり、正月を一人で過ごすのは寂しいだろうと、故郷から帰ってきた下宿のおじさんが迎えにきてくれた。足はまだまだ曲がらないけど、大きなワゴン車だから心配ない。
 この1ヵ月間ずっと入院していて、病室すらほとんど出られなかったので、そこは忠州でもどこでもなかった。でも一歩出れば、僕が寝ていた間にも動きつづけていた忠州の街だ。そばにいたはずなのに、懐かしかった。
 下宿に着いて、階段を恐る恐るクリアして2階のお宅へ。お正月らしいご飯が病院食よりおいしかったのは、言うまでもなし。
 そして下宿に帰ってできること、楽しみにしていたことといえば、1ヶ月ぶりに体を洗えることだ。といっても自由がきかないこの身、1人では手に負えず、おじさんのお世話になる。ちょっと気恥ずかしかったけど、タオルでゴシゴシやられていると、なんだか幼いころを思い出した。
 夜も、おじさんおばさんの部屋で一緒に寝た。こんなに「親子」した下宿生は、この下宿で初めてかもしれない。

◆2月2日(祝)現代人の証明
 今日はソルラル連休でもあるが日曜でもあり、クリスチャンの大屋さん一家は教会へ出掛けていった。それなら、もしソルラル当日が日曜ならどうするのですかと聞くと、故郷の教会に行くだろうとのことだった。
 1人残された僕は部屋に戻り、やす君のパソコンで1ヶ月ぶりにインターネットの世界に触れた。溜まったメールは1500通! とは言っても9割はメーリングリストのもので、その間に埋もれたお見舞いのメール1つ1つに返信、数時間を要した。僕も立派な現代人だ。

 ご飯は、下宿のお兄さんが持ってきてくれて、食べるのも付き合ってくれた。事故の翌日には、刺さったピンを見て青くなっていたお兄さんだが、傷口もやっぱり見たくないそうだ。そうだろうな。
 その他マイページの更新や、日本のニュースをチェックしていたら、時間は0時を過ぎていた。またしばらく、ネットの世界ともご無沙汰しなくてはいけないだろう。

◆2月3日(月)①仁川空港への道
 迎えた帰国の日。飛行機のチケットも、日本での入院先の手配も済んでいるが、この体で無事たどりつけるのかは不安で一杯だ。
 下宿のおじさんは、今日から学校事務の仕事始めだが、午前中いっぱいは僕の用事に付き合っていただけるそうで、多謝。まずは入院費の調達に、大学内郵便局へ向かう。1ヵ月振りに会ってみれば松葉杖なのだから、馴染みの局員さんも驚いていた。
 いくら引き出すのかは思案のしどころだ。入院の時には1月で150万ウォン程度は必要と聞いていたが、最近鎮教授からお聞きしたときには「100万はかからないでしょう」と言われていた。ぎりぎりの線をとり、持ち合わせと合わせて150万になるようにした。
 もし全部お札にすれば150枚もの札束になり大変なので、100万は小切手にする。高額紙幣がないものだから、小切手の発行枚数は凄まじいらしく、TVでも高額紙幣の必要性が話題になることがある。5万ウォン札だけでもあれば、だいぶ違うだろう。

 1ヵ月間、本当にお世話になった忠州病院の、まずは3階へ。手続きを済ませ、看護婦さんたちの見送りを受けた。
 僕「本当、ここの人たちは親切でした」
 おじさん「韓国の病院はどこでも親切。でもここは、もっと特別‥‥」
 地下1階に降りて、日本での診断の参考になるよう“X線写真”を借りた。絶対返しに来なくてはならないそうだ。貸出票の借り手の名前はおじさん、僕の続柄は「子」。おいおい、本当にいいの? 他に書きようがないのかな。
 そして緊張の入院費・手術費・治療費・食費‥‥諸々の支払いだ。ソルラル連休後初の平日ということでだいぶ待たされ、結果は3割自己負担で80万ウォンだった。100万の小切手から20万のお釣りを貰うのに苦労したそうだ。領収書には「退院費」としかなく、かなり大雑把。ひとまず、肩の荷は降りた。

 下宿に戻ると、すでに学生課の方が来られていた。荷物は最小限にまとめてある。下宿のおじさん、おばさんとも、しばらくのお別れだ。必ず戻ってくると誓い、一路仁川空港に向けて出発した。
 車は高級車のようで、足元が広く楽。仁川まで耐えることができそうだ。学生課の方は珍しく? 口数が少ない方で、僕からもなかなか話題をふれない。ふと、いつもの建設中だった高速道路を見てみれば、車が走っているではないか。
 「高速道路はいつできたのですか?」
 「この間できたんだよ。ソウルまで1時間半になった」
 なんと、僕が入院している間に、忠州ではそんな交通革命が起きていたのだ。しかし帰省ラッシュを避けるためか、車は従来のバイパス道路を進んだ。するとその道路までも、延伸開業しているではないか。高速道路に平行するバイパスまで整備するとは、さすが道路王国韓国。おかげで、一般道経由なのに水原まで1時間半だった。
 ここからは高速道路に乗る。少し渋滞がみられたが、いつも起きる程度のもののようで、すぐに抜けた。本当に正月は、3日間で終わってしまったのだ。仁川空港道路に入ってしまえば4車線でスイスイ、午後3時には空港に着いてしまった。
 飛行機の出発までまだ4時間もあるが、何事もゆとりが肝心。航空会社に荷物を預けた時点で、学生課の方は帰っていかれた。お忙しい中、本当にありがとうございました。


車イスに乗って

福岡行きは中型機
◆2月3日(月)②日航最高
 5時にカウンターに来てくださいと言われ、それまでは自由な時間だ。おそい昼御飯を食べ、空港内をウロウロ。仁川空港に来たのは3度目とはいえ興味津々なのだが、1ヵ月寝たきりにしていた間の体力の減退は、いかんともしがたい。息を切らしつつ、松葉杖を衝いた。お馴染み農協ハナロマートが空港内にあったのは驚きで、缶コーヒー1本買って敬意を表す。
 待ちに待って、ようやく約束の5時になった。JALのカウンターには、きちんと車イスが待っていてくれていて、チェックインから搭乗待合室まで完全サポート。筆入れにカッターナイフを入れていて引っかかったのは迂闊だったが、その他は驚くほどスムーズだった。
 滅多にないことなので、搭乗までの待ち時間には車イスのバリアフリーチェックとばかりに、トイレなどへウロウロ。最新の空港だけあり、車イスでも不自由なかったが、車イスで歩くと想像以上に静電気をため込むのが驚きだった。すこし移動しただけで「ビリッ」だ。

 搭乗時間には係員が迎えにきてくれた。わが福岡行きは1日1本のみの運行にも関わらず、隣の成田行きジャンボと比べれば、親子のような小型ジェット機だ。機内に入ってからもスチュワーデス、否フライトアテンダントのサポートがあり、ここですと案内された席は、なんとビジネスクラスだった。
 「あの、ここってビジネスじゃ?」
 「はい、ただしお座席だけです」
 「?」
 「サービスは、エコノミーと同じです」
 「当たり前です!」
 TAX込みで15万ウォンの韓国発学割運賃だったのに、これだけの待遇。FAもかわいいし(重要)、さすがは日本航空だ。
 他の乗客も乗り込んできたが空席は多く、結局ビジネスクラスは僕だけ。程なくドアが閉められ、滑走路へと踏み出した。飛行機は、中国へ修学旅行へ行ったとき以来で、離陸と着陸の時の恐怖感は、記憶に生々しい。しかし今回は、離陸から水平飛行まで、特に怖いと感じることはなかった。操縦士の技量が優れているのだろうか。
 続いて機内サービスへと移るのだが、50分の飛行時間だから最小限。それでも久しぶりに飲んだ、苦くて濃いコーヒーがうまく、お代わりしてしまった。
 一つ気になるのは、客室乗務員に韓国語ができそうな人がいない点(いたらごめんなさい)。自動放送では少し韓国語も入るが、韓国人が乗ったら心細さを感じてしまいそうだ。もっとも、運航時間は日本人向けで、この機内にも韓国人らしい人は見当たらないし、さして問題はないのかもしれない。要は韓国人なら、大韓航空かアシアナを使えばいいのだ。

◆2月3日(月)③祖国の土
 新聞を読み終える間もなく、という表現が大げさでない程、あっと言う間に着陸態勢へ入った。窓には、見覚えのある福岡の夜景が映るが、船と列車しか知らない身にとっては、なんだかワープしてきたような気分だ。
 前方スクリーンで前面展望を見ながらの着陸は、いったてスムーズ。ソウルから1時間もかからないとは早すぎる気もするし、今後もなるべくは使わないでおこうとは思うけど、毛嫌いするほどのものではないかなと思い直した。国内線も、1万円バーゲン運賃なら、乗ってもいい。
 僕が最後にタラップを踏むことになったが、待つ間にチーフとも話すことが出来た。
 「僕もパラグライダーの練習していて、折ったことがあってね」
 「さすがはJALの方ですね」
 「この先も長いと思うけど、頑張りなさいね」
 「あの‥‥リハビリはやっぱり痛いですか」
 「痛いというより、試練です」
 その言葉を噛みしめ、日本の土を踏んだ。
 福岡側のサポートは、施設も対応も仁川以上で、ものの5分で出国ゲートをくぐっていた。両親は今、空港に着いたばかりだそうだ。空港ICが九州自動車道上にあるものと思い込んでいたらしく、帰路でも口げんかしている。相変わらずだなと思いながら、1ヶ月ぶりの日本のネオンを眺め、安堵したのだった。

◆2月4日(火)転院
 昨日は松葉杖で歩き回り、汗びっしょりに疲れた。日本の国保に再加入しなくてはならないが、母に頼んで正午近くまで眠りこけた。
 3時前に友達がアポなし見舞いに来てくれたが、間もなく入院先に行かなくてはならない時間。筑紫野バイパスを、弥生が丘方面へと向かった。
 日本での入院先は、開院から1年も経たない新しい病院である。祖母が入院していたことがあり、お見舞いに来たときに、明るくていい病院だなと好印象を持っていた。75歳の祖母が、入院前より元気になって帰ってきたのだから、治療だってよいものを受けられるはずだ。
 韓国でも古い方の病院だった、忠州病院と比較するのは酷だろうけど、なにもかも便利だ。低い寝台は安全で、起き上がるのもラク。廊下は広く明るく、ぐるりと回る形なので歩く練習ができる。広いウッドテラスでは、いつでも外の空気を吸える。患者に早く治ってほしいという声が、聞こえてきそうな建物だ。シャワーだって使える。トイレの手摺りなんて言うまでもない。難点といえば、テレビに1円/分、取られる所か。

 夜になってようやく、主治医の先生の診断を聞くことができた。日本では昔の方法の手術、何と言われるかと思っていたが、
 「立派な手術をされている。私にもできないくらい。感心したよ」
 とのこと。手術の上手さには回診の毎に感心され、余程のものだったのだろう。仏頂面の執刀医の先生の顔を思い出す。安心はしたが、そんなによい手術をするような病院から、わざわざ出てくる必要はあったのだろうかという思いも持った。
 留学中の身、言葉の勉強の為には、帰らなかった方がベターに決まっている。がめつい話、治療費だって韓国のほうがずっと安い。苦労して、友達ともぶつかって帰ってきたのは正しかったのだろうか。今さら無駄だと分かっているけど、複雑な思いのまま眠りに就いた。

◆2月5日(水)〜8日(土)その差
 さっそく、今日からリハビリが始まった。忠州病院の“物理治療室”より、新らしくて設備がいいのはもちろんだけど、何よりかける人手の多さの違いに驚いた。これは病棟の看護婦さんの数にも言えることだ。その分、医療費は高くなってしまうのだろうけど、そこに“余裕”を掛けられるかの有無が、一見、見えなくなってきた日韓の差なのかなと思った。
 ちなみに、韓国でやっていた自力で足を曲げる治療は、まだこの段階だと危険なこともあるという。少なくとも忠州より、よい治療を受けられることは間違いない。未来へ続く、自分の体に関わることだ。やはり帰ってきてよかった。

◆2月9日(日)〜14日(金)留学生同士
 今までの部屋は、おじさんばかりの4人部屋だったが、
 「生活習慣が同じ、若い人同士がいいでしょう」
 というわけで、同世代の2人部屋へと移動になった。その「ルームメイト」こそ噂に聞いていた、同じ日に入院したニューヨーク帰りの留学生だった。治療を受けるために帰国する患者自体珍しいというのに、その2人が同じ部屋に収まるとはと、看護婦さんの間ではちょっとした話題になった。
 もっとも帰国の経緯は、僕とはだいぶ違っている。留学保険がいつの間にか切れていたため、アメリカでの治療を受けられなかったのだ。
 「医者たちはケガのことより、金が払えるかどうかばかり話してた」
 で、腕の骨折を1週間放置して、日本行きの飛行機に飛び乗ったとのこと。さすがは契約社会のアメリカ。日本はもちろん、ともあれ救急車に乗せてくれた韓国ともえらい違いだ。雇用形態やビジネスまでアメリカ型になっていく日本だが、医療福祉に関しては絶対そうであってほしくないと思う。

 留学の形態も、身分が保証された交換留学などではなく、ほとんど単身飛び込んだものらしく、その分「生」のNYを見てきているようだ。決してNYかぶれなどではなく、
 「とてもこの先ずっと住もうなんて思わない」
 など、批判的な見方が多かったように思うけど、それも愛するが故だと思う。僕が時々韓国に批判的な見方をするのも、「こうだったらもっと好きになれるのに」という思いがあるからこそだ。

 以後、この留学生コンビの生活は5日間続いた。

◆2月15日(土)〜3月24日(月)①入院治療
 2月17日からは、リハビリ病棟の4人室へと移り、以後1ヵ月以上、ここで生活することになった。4階からは近くを走る鹿児島本線が見えたが、3階のここからは少し見えづらい。
 治療は進み、装具を付け、徐々に足に体重をかけ慣らしてゆく。まったく曲がらなかった足も痛い治療に耐え、3月の中頃には正座まであと一歩という所まできた。かなり曲がるようになった頃、先生から言われた一言。
 「実は最初に来たとき、本当に!?って思った」
 僕の足は、経験数年の理学療法士の先生が驚くほど、曲がらなかったのだ。

 実は手術の方法が古かったことが、治療の時間を長くしていたらしい。
 まず日本では、骨折した骨の中にピンを通すので最初から強く、割合早い時期に体重をかけて歩く練習ができるらしい。しかし僕は、側面からプレートを当てる手術法だったので、骨が形成される前に体重をかけられないそうだ。
 また足を大きく開いて、筋肉を大きく動かして手術したため、日本の手術よりも筋肉の硬化が極端になってしまった。日本で手術すれば、2ヵ月で社会復帰できる程度の骨折だったらしい。

 でも、だからと言って、韓国で手術を受けたことに後悔はない。忠州病院の先生は、韓国の持てる医療技術の中で最高の手術をしてくれたのだ。それに手術室まで運ばれるだけで激痛だったのに、日本までの搬送に耐えられたとも思わない。
 ただ日韓の差は、医療技術でも大きいと分かったことは確かだ。そして医療技術の進歩は、人に幸福をもたらすものだということも。

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