このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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ほぼ同じところから見た現在の街並み。巨大機関区は姿を消し、今はマンションが建ち並ぶ「あすと長町」である。詳しくは
ここ
を参照。
なお船橋のIKEAさんが長町機関区跡地に広大な土地を取得しIKEA仙台店をOPENする計画が着々と進行中です。 ◆東北新幹線30年のあゆみ
歴史は常に強者の都合のいいように編纂され、弱者の歴史は抑圧され歴史の闇に消えていくものである。新幹線のような数百kmにも及ぶ大幹線を建設すれば、そこには様々な『闇に封じられた歴史』があったのである。以下の内容は、まずどんな鉄道誌にも出てこない内容のものばかりである。
ここを読んだ人はこういう歴史もあったということを是非知っておいてもらいたい。
【東北新幹線建設反対運動】
東北新幹線建設反対運動は、埼玉県浦和市・与野市・戸田市など埼玉県南部と東京都北部で起きた反対運動である。埼玉南部で新幹線の高架橋を建設する計画が明るみに出ると、まず埼玉県南部で騒音の原因になるなどの理由で反対運動が起きた。この反対運動により、当初宇都宮線に沿って建設されるはずだった東北新幹線は現在のルートに変更を余儀なくされた。
最初、埼玉南部の住民は単に新幹線の建設に反対していただけだったが、彼らも新幹線の駅が埼玉の新名所になりそうなことは分かっていたらしく、大宮駅に東北・上越の全新幹線を停車させることを条件(←ちゃっかり埼玉に観光客を集めようと狙っている)に新幹線建設を容認しても良いとの意見が出始めた。
また、東北新幹線と上越新幹線の分岐点に位置する埼玉県伊奈町は、「新幹線の建設で町が分断される」として建設に反対していたが、伊奈町と大宮駅間にモノレールを建設して直結することを条件に新幹線を受け入れることになった(この「モノレール」こそが後の埼玉新都市交通ニューシャトルである)。
これ以降、反対運動は次第に新幹線の建設と引き換えに如何に埼玉に有利な条件を国鉄から引き出すかという条件闘争に変化していく。国鉄は、大宮以南では新幹線の速度を110kmにし騒音を低減すること、高架橋の周囲に緩衝地帯の空き地を設けること、埼玉県民の利便のために新幹線に沿って新たに埼京線を建設し、しかも埼京線の通勤快速の停車駅を戸田市、与野市内に作る(当時の戸田市、与野市には鉄道の駅が無く両市はどうしても市内に駅が欲しかった)などの条件を提示し、埼玉県住民もしぶしぶ了承した。
だが新幹線と埼京線が営業を開始すると、埼京線の騒音が最新技術の限りを尽くした東北新幹線より遥かに大きいという皮肉な結果に終わった。
東京都での反対運動は埼玉の反対運動とは毛色が違っていた。当時、東京都台東区には北日本の幹線の執着駅で東北・上越の特急電車、急行電車が集まる上野駅があり、『北の玄関口』と呼ばれていたが、東北新幹線の当初計画では新幹線は上野駅を経由せず不忍池の地下をトンネルでくぐって直接東京駅に到着する計画になっていた。この『上野外し』に東京都北部の住民が激怒、新幹線開通後に上野に発着する特急電車、急行電車が無くなってしまったら北の玄関口、上野は没落するという危機感が高まっていた。そこでちょっと反対運動をした後に、住民側から国鉄に「東北新幹線上野駅設置要望書」が提出され、国鉄側も新幹線を上野駅に停めることを了承し反対運動は終息した。
【東北新幹線駅名問題】
東北新幹線駅名問題とは、那須塩原、新白河、白石蔵王の3つの駅で駅名をめぐって周辺の自治体が対立し、駅名がなかなか決定しなかった問題である。
那須塩原駅は当初は「東那須野」という名前になる予定だったが、隣町の塩原市が「塩原」という名称を駅の名前に入れるように要求して大喧嘩になった。新白河駅は計画当初から「新白河」という名前だったが、駅の敷地の大半は白河市の隣町の西郷村にあり、ホームの端が少し白河市にかかっているだけである。にも関わらず「新白河」という名前である点に地元からクレームがついた。白石蔵王(しろいしざおう)駅は当初は「新白石」という名前になる予定だったが、北隣の蔵王町が駅の名前に蔵王という名称を入れるように要求しこちらも大喧嘩になった。
これら3つの駅では開業半年前になっても駅名が未定のままだったが、結局、東那須野→那須塩原、新白河→新白河のまま、新白石→白石蔵王とすることで決着した。
なお、新幹線開業後、町おこしのために何か「宇都宮」という名称が付いたものが欲しかった宇都宮市は群馬県の高崎市とタッグを組んで、東北本線の上野-黒磯間を『宇都宮線』という「愛称」に、上越本線の上野-高崎間を『高崎線』という「愛称」にすることを要求してこれを飲ませた。
この時、宇都宮市側は『東北本線』の東北という名称は「暗い」「寒い」というイメージを連想させると延べ、これに対して北隣の福島県が地域差別だとして猛反発、遂には栃木vs福島の大喧嘩に発展した。
このように鉄道の駅名や路線名には様々な人たちの政治的思惑が絡むものなのである。
【非難を浴びた「緑の新幹線」】
現在ではJR東日本のコーポレートカラーになっている「緑」だが、当時は新幹線が緑色だったこと自体が非難を浴びた。新幹線が試運転を開始したころから東北の周辺住民から「なぜあの新幹線は青くないのか」とのクレームが殺到したとされる。国鉄側は緑色は長い冬を耐え春を待ちわびて生えてくる新芽の色である、とデザインコンセプトを説明したが、東北の周辺住民は「長い冬」とか「春を待ちわびる」というくだりが自分達を山奥の田舎者扱いしているとして余計にゴネた。
しかし緑色の里山や田畑を遠目に見て走る緑の新幹線を見るうちに、北国の新幹線のイメージカラーとして受け入れられていった。
帰りにタムロン本社の前を通りかかる。
ほぉ コレが我々撮影ヲタのかゆいところを突いてくるマニアックで廉価なレンズで一世を風靡するタムロンの本拠地か(・∀・)
すかさず記念撮影。いつもOEMのキットレンズにお世話になっております。
総走行距離157.3km、燃費35.56kmの旅は幕を下ろした。
そして赤いテールサインを残して走り去る( ´_ゝ`)フッ
・・・と思ったらまた少年たちが
乱入騒ぎ(((((((( ;゜Д゜)))))))
そして今日のその時がやってまいりました。
発車0.2秒前の様子。望遠レンズの手持ちで1/20秒の低速シャッターだったのでダメかと思ったらデジカメの手振れ補正で見事に撮れますた。個人的には黄泉瓜新聞や爺通信が撮影したものより遥かに緊張感があり、場内の熱気をよく描写していると思いますです。
デジカメに助けられますた。
大宮駅長とさいたま市民の一日駅長の本田麻香さんと壮助くん親子がスタンバイしてる!!
ここから千葉の鉄ヲタの意地をかけた本番モードへ突入
続いて秋田新幹線のE3系こまちが到着。
中高生鉄ヲタあまり盛り上がらず。
そこにE5系はやぶさキタ━━━(゜∀゜)━━━!!!!!
東北新幹線の元祖200系と最新型E5系の競演で中高生鉄ヲタのタコメーターがレッドゾーンへ突入!出力120%(死語)状態に!!!
少年たちよ、おじさん、写真撮れないんですけど〜
結局撮り逃した・・・・・。・゜・(ノД`)・゜・。
開業30周年記念号に鉄ヲタのボルテージは全開状態!
千人以上いたのではないだろうか。しかし最近中高生の若い鉄ヲタが多い。
おじさんも頑張らなくては。
大宮駅16番線に入線したやまびこ235号「東北新幹線大宮駅開業30周年記念号」。
さっそく周りには人だかりが出来ている。
◆東北新幹線開業から30周年!!(2012年6月23日)
2012年6月23日で東北新幹線が開業してから30年が経った。今は千葉県で鉄道サイトの管理人をしている私は、仙台市の新幹線沿線の巨大機関区の脇で、建設中の新幹線の高架橋を見上げながら幼少時代を過ごした。新幹線開業以前の東北地方ではろくに高速道路もなく、生活物資は貨物列車で運び、旅客は特急・急行電車が運んだ。ところが1982年の新幹線開業と前後して東北自動車道も全線開通、これが物流を一変させた。旅客は新幹線へ、貨物は大型トラックへ流れ、こんな巨大機関区や貨物列車は時代遅れになった。こうして北日本の大動脈として黄金時代を謳歌していた東北本線にはローカル線への没落という未来が待っていた。
新幹線開通後の開発ラッシュによって上の写真のような幼少時代の風景(写真上)は徹底的に取り壊され、区画整理と再開発によって綺麗な副都心に作り変えられた(写真下)。現在、この街には私の幼少時代を偲ばせるものは何一つ残っていない。
しかし新幹線開通で東京-仙台間の所要時間が一気に1/2に短縮、現在では在来線特急の1/3になった。新幹線開通で地元の経済力が跳ね上がったのは疑いようがない事実で、新幹線開通のおかげで高校生まで国鉄特急の車両に乗って学校に通っていたし、エジプトのミイラも黄金のマスクも見せてもらったし南極の氷でかき氷も食べた。このように新幹線開業でいい思いもしているので、一部埼玉県民とは違い私は東北新幹線シンパで、それ以前に大得意様のおなじみさんでもあるのだ。
これで30周年記念のセレモニーを見に行かないわけにはいかない。睡眠3時間でツーリングもかねて埼玉へ出撃だ。
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