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金杯号と4千キロ・中国西部蒸機開拓の旅
03,09,24 嘉峪関−青銅峡



03,09,23 山丹−張液間  RVP100(+1)  


9月24日(水)
 7時30分ホテル出発。嘉峪関の市街地でのオープンテラスでまずは朝食。すぐ横を囚人が
勤労奉仕をしているのに、平然と朝食を取ると言う、異常体験後、8時過ぎ一路青銅峡へ。
 今日は22日に比べると景勝地を通るわけでもないので、ひたすら移動時間として走りまく
る。途中いくつかの街を通り過ぎる。また何回か国鉄線を交差したり、併走したりしていた。半
日運転してセンさんの疲れもピークに達した頃、ちょうど国鉄線をオーバークロスするところに
出た。「センさん写真が撮りたい!」と言って金杯号を停めてもらうと、もう目の前にDF4の重
連が来ているではないか!あわてて、モノクロに85ミリを付けて撮る。その後、30分の間にD
F4の貨物2本とDF11の旅客1本が撮影出来た。センさんの休息となり、我々は写真が撮れ
これこそ一石二鳥と自画自賛して、また金杯号を走らせてもらう。(ちなみに撮影現場は国鉄
蘭新線山丹−張液間らしい)
また、金晶あたりでは国鉄蘭新線をDF4の次位にピカピカのJSが連結され西に向かう姿を現
認することが出来た。西に向かう全検上がりJSの存在も気になるところだ。
 武威という街に入って金杯号はセンさんの休憩も兼ねてピットインをすることに。エンジンオイ
ルとエレメントの交換は日本と同じだが、何と5,000キロ毎にエアーエレメントも交換するとい
う。驚いているとセンさんが「みんなが走らす場所は自動車にとっては過酷なの!」と言う。あ
あ、言われて納得。"日本では到底考えられない使用状況だものね!              
  武威の市街を出て金杯号は干武線に沿って東に進
む。この区間になると電化されているのでどうやら電化
の西限は武威かもしれない。既に周囲が暗くなり始め
る頃、私が密かに楽しみにしていた場所が目前となっ
ていた。それは十数年前、那須啓氏に初めて連れて来
たもらってきた、中衛の撮影地、紅衛−長流水−猛家
湾だ。                             
 復活シロクニ末期に216,6KPで那須啓氏に必要に
中国行きを口説かれ、落とされ、恐々訪れた中国。そ
して中学生以来見た現役蒸機の魅力。私にとってあの
時、中衛を訪れなかったら、今の自分はなかったと言
える。それだけに何とか目にしたいとの思いから薄暗く
なった外を目を凝らしながら見守る。           
 第2Ωから第4Ωに通じる通称"追っかけ道路"が今
は国道として完全に開通し、そこを金杯号は100キロ
以上のスピードで走り抜ける。「あった!第2Ωだ!こ
こは俺にとって中国蒸機のメッカだ」と叫ぶ。生まれて
初めて撮った蒸機三重連を撮った第2Ωを望む丘も今
も健在だった。そして四駆でなければ難儀した猛家湾
付近の道路も完全舗装され、金杯号は蘭州発特快44次のテールライトとの距離をどんどん縮
めながら走っていった。感動のあまり携帯で那須啓氏に電話するものの不在のため、私と一
緒に中衛を訪れたリーベン車両K氏に中衛に来た事を報告する。彼も「えっ!中衛!」と驚く。
しかし、その次の言葉が「山陰・山口お召はダーミァンも行くからよろしく!」との事。せっかく感
動しているのに…一転、心にもやもやが広がる。
 中衛市内に入り、"ここまで来たらもうすぐ"と言う気持ちが5人の脳裏に浮かんだ頃、ハプニ
ングが起きてしまった。中衛市内で聞いた道が違っていたのだ。中衛から中寧という街に出る
と高速道路があり、あとは1時間で青銅峡に到着する予定が、どうしても中寧の街に着かない
のだ。その直前にセンさんとの会話の中で「中国でもカーナビがあると便利だね」というと「誰か
に聞けばそれでOK!カーナビなんて要らないヨ!」と話していたのに…中衛で道を聞いた商
店の人が何も買わないのに道を聞いたので、わざと遠回りの道を教えたらしいのだ。たかだか
40キロの道を1時間30分かけて到着。やっとの思いでICの場所を確認してから夕食。さすが
にセンさんの顔にも疲れがにじみ出でいた。結局、青銅峡のホテルには23:30に到着。嘉峪
関を出てから15時間、1000キロを越える旅でした。本当にセンさん、お疲れ様でした。


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