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七天神の由来

七天神の由来

童子天神   御手習

かけまくも天満大自在天神と申し奉るは本地十一面観世音菩薩
の里ニ此土ニ陀現有之ハ人皇五十四代仁明天皇承和十二年乙丑菅原
の家に生れ給ふ御父ハ是善公御母ハ伴氏也五歳の春御手習始め
に新ぞ詠したもふ
    見る石のおもてニ物ハ争ぬなり
       竹のやうじもつかハざりけり
祖は文殊のおもてなれバかりにも物事まじきよしの御いましめ守るべし
守るべし御十一歳のはる梅の詩を始て作り給ふ
月のひかりは晴れたる雪の如し
梅花は照れる星に似たり


父君見ぬひて世にたぐひなき事ニ思召ける

藻屑天神

菅公ハ日の本の大僧古今第一の忠臣ニおはせ共時平大臣の訣ミに
より延喜元年正月廿五日右大臣の官を止めよし太宰の権の帥ニ
左遷の宣旨を被下ける罪と給ふして辺地のちりに 変り給ふ御嘆
きの鉾り帝の御父宇多の上皇へ一首を送り給ふ

    流れ行く我はもくずと成りぬとも
         君しがらみとなって留めよ

貴賎のなげきハいふに不及心なき草木迄も飛梅のむかしを
今に伝へける又

    梅ハ飛桜ハかなし世の中に
         何とて松ハつれなかるらん
と詠じぬれバ放口の御底の松一様にかれしとなるらん

繩敷天神

筑前国袖の湊ハ隠れなき名前也心つぐしの御泪ほす方も
なき菅公は御船より上らせ給へど為敷たまハん物さえなし心なき
沙人共も放り御いたわしくおもひて鉤船の繩をたぐり輪のごとくして為敷
参らせし由役人其所に御社を建立し繩場の天神と祭奉る
むかしを今ニ写し絵の繩敷の天神と申す也
又讃州瀧の宮

の里人ハ今ニ七月廿五日に踏寄をなしてまつり奉る是を瀧の宮踊
りといふて近国よりも参けいする也


(大宰府に流される際に舟の舫い綱を巻いて敷物にしたとの伝承を踏まえたもの)





牛天神
  
御神徳をうやまふ 奉日参又ハ月参詣ニ貴賎袖をつふぬる中に
もうし天神とて御えん日成をとりわけたうとふ事ゆへ有暮
御生れ牛の御年成ゆへ彦に御詠じなぐさませたまふ配所ニても
御目登の牛有り朝夕御不使不浅申しが御葬送の御車ひ
き参らせ登前に至りてたちまち倒れ飛したるよし詣縁ふ
かき毛物也本地衰弱を考れば牛ハ観音爰作牛ハ法身の観念
なれば神仏一女の縁日殊更利生もすみやり成べし

渡唐天神
聖一国師筑紫永天寺に住し有し時菅公爰中にまみへたまふて師
の禅法の弟子とならんと給ふ和尚答へて仏鑑禅師とて今の世
のもろこし鍾山寺にましますかしこに参じ給ふべしと仰せけれバう
なづきて去り給ふ明日夜又爰中に現じ給ひ我神力にて庵ニ渡り仏
鑑の法衣を授りもとの給ふ其御形ちを見れバあやしき巾服を召され
梅の花をかざし給ふ爰中の尊許をうつし留めて渡唐の天神
云う也世にうたがひふかき人此えを見て
林和靖といふ賢人成とおもふハ
あやまりなり

(道真は生前、唐へは渡らなかったが唐で禅僧に参禅し、袈裟を貰って帰国したとの伝説がある。それに基いて描かれた渡唐天神像が残っている。遣唐使の停止を唱えた人が実は唐へ渡っていたという設定になっているのである。渡唐天神像は中国風の仙冠、道服を身にまとい、花が咲いた梅の枝を手にする。肩に掛けた袋は南宋の禅僧無準師範に与えられた袈裟を示唆する。顔の表情はいたって穏やかである。特異な姿の天神像は、昔から疑問はあったとみえ、江戸時代には中国の伝説上の名医扁鵲、中国の詩聖林和靖(りんなせい)、渡来人王仁(わに)といった人物の図像が、渡唐天神像へ転用された候補として挙げられていたという。)




柘榴天神

つみ給ふして配所の露と消へ給ひし菅公の異ひえい山法性坊
の許に至り給ひ我天帝のゆるしを得諸々者のむくい帝都を
おどろかさんと給ふ其時朝底より師を召る々ともかなはす参り給な
とのたもふ尊 答て春ニ住なごう勅命三度に及びなバもたしがた          
きと有ければ菅神いのれる御けしきにて御前成御 しに出たるざくろ
を取て御口にてかみくだき妻戸に吐かけたまふに猛火ともへ上るを
尊意其まましや水の印をむすびたまへバ其火たちまちきへぬ焼残
りしつま戸今にえい山に有り是ニ付て林うじの説有れ共仏神
の御事ハ凡恵の及ばぬ事也


勅使天神

延暦五年八月十九日筑紫安楽寺に始めて菅公の神殿を立てられ
勅使廟前に向ひ左遷の宣命を焼捨もとの御位に一階を
まし正二位送り給ふ又一條院正暦元年正一位太政大臣を送り給ふ
勅使神前にて誓をよみあげ候時二其に御こえありて
昨為北闕被悲士
今作西都雪恥尸
生恨死歓其奈我
今須望足護皇基

君恩を謝したまふ御伝也此の御事をも況や角許義有れ共古人の
傳る所をよしとすべし
天満大自在天神
天暦元年七月に神託有て北野右近馬場に詞をたれ給ふより
此方千本の松のときはかき給ふに御神徳ハ日々にいやまし一度び
歩ミをはこぶ北東御利生に預けずといふ事なし鳥羽院の御時
    といふ女房女院につかハれしが有時御衣の失たるがなき
名おいてせん方なシの様子にまぎれ御社に詣で都ぞよミける
    思ひ出やなき名まつ身ハうかりきと
       あら人神に成りしむかしを
神の御心にや叶ひ候ん其様やがて御衣を盗ミしものおのれと
名のり出しと也
松永貞院は和奇の達人成りしが猶も神恵を頼ミて北
野人日参背けるが古   んずる様の異爰に俳諧といふニ
字をさすくるとの給ふと見へてゆめさめぬ夫よりはいかいの名高き
宗道と成給ふ此の国のみならず庚薩天錫といふ人も天神
の利生を得て四国余州第一の傳人とよばれぬ

天神鍠

によぜがもん。いちふつさいしゅぼざいわう。八万四千ほうぞう
らんとう。はんにゃはらみつ 。だい一ぼんてんわう。第二たい
しゃくでんわう。第三えんらわう。しゃかむに仏どう。三千
太平世界。くわうふくじゆ。きやう一切しやぶつ。ふきや
らいはいくやう。えみやうしゆぼさいわう。一切みやうじんわう。
三千大千世界。くやう。しやぶつ。ふきやうてんじんきやう。
しんこん
おんだうしんしんそわう
我母のむ人をむなしくなすならば
あめば下にて名おやながさん
此鍠うた三べんつ々となへあくじさいなん不来




(菅原道真を描いた像にはさまざまなパターンがある。
束帯天神
公家の正装である衣冠束帯を身に着けている。
怒り天神
怒りの表情をあらわにしている。)



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