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思 い が け ず 見 つ け た 廃 線 跡 を 行 く

-成宗電気軌道 成田駅前〜不動尊前−



TAKA  2006年01月07日





 皆さん東京の人が「初詣」と言えば、明治神宮・川崎大師・成田山など色々なところを思い浮かべるでしょうし、又行かれるでしょう。でも毎年私は正月に旅行に行くために初詣は基本的に行きません。しかし今年は旅行から帰ってきた後、仕事の付き合いで6日に某鉄道会社主催成田山初詣に動員されました。
 昔は鉄道建設と寺社仏閣は深い関係が有り、寺社仏閣への参拝客輸送を狙って建設された鉄道は数知れません。関東では大師電気鉄道・京成電気鉄道など関西では参宮急行電鉄等数多く有ります。
 今年私が初詣に行った成田山も、鉄道マニア的には旧国鉄時代から運転されている「成田臨」、今は盛んではないが京成電鉄による成田参拝輸送など、成田山と鉄道は切っても切れない関係に有ります。
 
 今回は「関東鉄道めぐり」では初めての廃線跡で成宗電気軌道成田駅前〜不動尊前間を取り上げます。
 私が行った初詣の成田山ツアーでは、平日のツアーでありその日の内に役所に出さなければならない書類を抱えていた為、行きは貸切バスで行きましたが成田山初詣〜昼食の後、団体と分かれて徒歩で京成成田に向かい京成で東京に戻る事になりました。
 そこで「電車道」と言う道路名標と何か怪しげなトンネルを見て、「何か怪しいな?」と思いながら歩きましたが、レンガ造りのトンネルの所に成田市による「成宗電車のトンネル」と言う碑文が立っており、それで初めて「此処が成宗電車が走っていた跡だ」と気付き、時間も無かったので慌てて写真を取ってきました。
 成宗電軌鉄道は今の千葉交通の大元になる会社ですが、紆余曲折を経て今に至った会社です。その会社の歴史を踏まえながら今回の廃線めぐりをして見たいと思います。


 「1」成宗電軌鉄道の歴史

 (参考HP)「 成田電気鉄道(成宗電気鉄道の後身)の歴史 」「 路面電車が有った街へ〜成宗電車
 成宗電気鉄道は、千葉県最初の電気鉄道として、成田山新勝寺と約1kmはなれた成田鉄道(今のJR)成田駅と成田山新勝寺及び宗吾参堂を運ぶ為に作られたと言われています。成宗電気鉄道は成田山新勝寺門前町の反対に合いながら、明治43年に成田駅前〜不動尊前・明治44年に成田駅前〜宗吾参堂間を開業させています。
 (参道商店保護の為、成田山門前に鉄道が乗り入れる事に関しては、門前町・成田山共に一貫して反対した為、成田鉄道・京成電鉄共に今の位置に成田駅を設置した。実際京成の駅位置は揉めに揉めて決まらず、成田開業時は花咲町の仮駅での開業・5年間の営業を余儀なくされている。成宗電気は参道乗入を強行した唯一の例である)
 その後成宗電気鉄道は成田電気鉄道と名前を変えたり、投機筋に買収され第1次大戦時の資材高騰時に車両・レール等を一部売却されたり、資材完全売却の為の廃止が画策される等の苦難を経た上に、大正15年に行われた京成電鉄成田延伸の直前の大正14年に京成に買収され、京成の関連会社になっています
 成田電気鉄道自体は千葉県営鉄道多古線・八街線を買収し(押し付けられたとも言えるが)成田鉄道と改名しますが、戦争の荒波の中で、昭和15年に飛行場建設の為に八街線が、昭和19年には国策に京成が関与したセレベス開発鉄道への資材転用の為に多古線が、成宗線も不要不急路線として廃止されています。
 成田鉄道自体はバス会社として残存し、最終的には千葉・成田地域のバス会社として千葉交通と社名を変えて今も現存しています。


 「2」成宗電軌鉄道の廃線跡を尋ねて -不動尊前〜成田駅-
 
 さて本命の廃線跡の訪問記ですが、今回上記の様に廃線跡訪問を狙って行った訳でなく時間も無かったので、訪問箇所は成田山から京成成田駅までの経路に該当する「不動尊〜成田駅前」間しか廻れませんでした。その為成田駅前〜宗吾参堂間に関しては、詳しく紹介している「 路面電車が有った街へ〜成宗電車 」「 房総の廃線〜成宗電気鉄道 」を御参照下さい。

 (1)不動尊前駅周辺
 不動尊前駅は成田山新勝寺本堂から見ると、参堂の階段を下りて左に曲がった所のT字路を曲がった先の第二信徒会館・駐車場になっている所が、不動尊前駅が有ったと思われる場所です。
 昔の成田鉄道成田駅への参道ルートは参堂の階段を下りて右側の筈です。このルートは成田鉄道成田駅開業時に、参道商店街の再編成の為設けられた筈です。それなのにその努力を無にするようなこれだけ近い場所に成宗電軌の駅が出来て、成田鉄道(後は国鉄)・京成の成田駅に運ばれてしまっては参道の商店街が反対するのも当然の事です。

 ①不動尊前駅(正面の三重塔が成田山新勝寺) ②不動尊前〜第1トンネル間
    

 但し昔の成宗電気の線路跡は「電車道」と言う道路になっていますが、参道のメインルート、団体駐車場方面(国道51号線方面)への裏ルートに比べて、電車道は京成成田駅への最短ルートの割には飲食店・物販店等は信徒会館周辺チョット有るだけで、住宅しかない感じで完全に寂れています。
 丁度山越えのルートになるルートで、電車道は写真②の様にS字カーブにダラダラ坂と言う道です。この様な参道には不便なルートだったから、成宗電軌だけが新勝寺直近に駅を作る事がで来たのかもしれません。

 (2)第1トンネル・第2トンネル

 不動尊前からダラダラ坂&S字カーブを登り詰めた所に第1トンネルが有ります。第1トンネルは長さ12mで路面電車が複線で丁度納まる大きさで、上が道路になっているようです。流石に明治時代に出来たトンネルだけあってレンガ積みのトンネルで味が有ります。只土被りが薄い為か老朽化が進んでいるようで、補強の留め金がされています。何かトンネルを作らずに切通しでも良かったのではないか?と感じます。又第1トンネルの成田側の出口に「成宗電車のトンネル」と言う簡単な説明を書いた碑が立っています。

 ③第1トンネル(長さ12m)          ④第2トンネル(長さ41m)
    

 第1トンネルを抜けた所が、左側に成田山直営の幼稚園があり、此処に昔は駅があった様です。今は幼稚園の送迎バス用の屋根付きの乗り場が有りますが、その辺りに駅が有ったのかもしれません。
 第1トンネルから100m位行った所に第2トンネルが有ります。第2トンネルのほうは長さ41mで、上には半分掛かる形で家も立っており本格的なトンネルの感じです。しかし第1トンネルにしても第2トンネルにしても、明治時代に作られたレンガ積みのトンネルで有るにも関わらず、綺麗で道路と用途を変えども使用されている事に驚きます。産業遺産として十分保存の価値は有るのではないでしょうか?

 (3)第2トンネル〜京成成田駅

 第2トンネルを越えると盛土の区間になり、両谷底に住宅を見ながら京成成田駅に向かい一直線に進んでいきます。左側の谷には京成線の高架やジャスコが見えます。この風景を見ると成宗電車はかなり高い所を通っている事が分かります。これだけ短い距離にトンネル2箇所に盛土区間と言う事は、明治時代と言う時代から考えればかなり建設に難渋した事でしょう。(トンネルの残土で盛土を作ったとも考えられるが・・・)

 ⑤盛土区間〜第2トンネル間         ⑥盛土区間〜京成成田駅間
    

 ⑦京成成田駅(成宗電気は左側の道を登って来た)
 

 盛土区間を過ぎると京成本線の高架が見えてきます。成宗電車は京成線高架手前の信号を直進し京成線に沿って京成成田駅の駅前広場に入って行き、其処からJR成田駅に向っていた様です。只この辺りには既に成宗電軌を思わせる遺跡は既に残っていません。又信号脇(京成成田駅に向い左側)には千葉交通と同労働組合の建物が有ります。もしかしたら此処にも車庫・発電所(成田周辺の電気供給を行っていた)等何か成宗電気の施設が有ったのかもしれません。
 但し廃線跡が道路に転用され、その道路際がそんなに開発されずに残っていると言う例は珍しいと言えます。本来なら最短距離の成宗電軌廃線跡が参道として整備されても可笑しく有りませんが、多分既存の参道への出店者に配慮し電車道は中途半端に残されてきたのでしょう。その事が2つのトンネルと桜並木の築堤を残してきたのではないでしょうか?



 「3」成宗電軌鉄道の数奇な歴史を考える

 今回偶々この様に廃線跡を見てきた成宗電軌不動尊前〜成田駅前間ですが、距離に比して専用軌道で盛土区間1箇所とトンネル2箇所とかなりの土木構造物を構築して成田山本堂直近まで線路を持っていっています。明治末期と言う時代・地元の反対の中の建設と言う状況を考えればかなり思い切った線路建設だったと言えます。
 「成田の鉄道の歴史は新勝寺参拝と駅設置場所の対立の歴史」とも言える中で、新勝寺・地元とその野心的な線路設置を巡って対立した為、この地域最大のスポンサー成田山新勝寺の出資を受けずにこれだけの軌道を建設したのは、当時としてはかなりの冒険だったのでしょう。実際成田駅の年間乗降客数は成宗電軌開業時の明治43年で約68万人・京成開業直前の大正12年で約175万人存在し、その内相応の部分は成田山参拝客だったと推察できますので、成宗電軌は事業の目論見的には結構美味しかったのかもしれません。(只現実は成田山新勝寺・地元との対立・成田〜宗吾参堂間の利用低迷等から経営的には苦しかったようだ)
 その様な事が影響してか、完成後の成宗電軌の歴史は正しく「数奇な歴史」を辿ります。安定株主である新勝寺・地元の出資が無かった為に、東京の投機家集団が中心になり事業が発起・建設され、その為に施設売却・廃線等の策謀が何回も起きてしまい、成田の発展に寄与する形ではなく投機家の野心に振り回される形で運営されてしまいます。

 最終的には京成電鉄の成田乗り入れ直前の大正14年に京成電鉄に買収されます。只京成電鉄の意図も社史の中でも明らかに述べられていません。「観光地に進出する前に地元既存交通機関を支配下に置くのは常道」「成田駅前〜不動尊前間の成宗電軌専用軌道に乗り入れることで、京成電車を門前まで進める事」(青木栄一氏説)「本多貞次郎の北総地域進出の足がかりに買収」(佐藤信之氏説)等の諸説が有りますが、買収後成宗電軌が京成の手駒の一つとして変質していったと言う事は間違いありません。
 実態の所の京成の意図は青木氏・佐藤氏の説の掛け合わせ「成田山門前への乗り入れの為に、抵抗の有る用地買収を避ける為に成宗電軌を買収→地元の抵抗で乗り入れは困難になり京成は国鉄より不利な花咲町仮駅で5年間営業を余儀なくされる→京成は地元での妥協で現在位置への駅開設を迫られる→その為に京成にとり成宗電軌の専用軌道敷は存在価値が無くなる→その為千葉県営鉄道野田線払い下げ時の曰くから、千葉県から押し付けられたと推察される千葉県営鉄道多古線の受け皿と、それを奇禍とするバス路線買収・北総及び銚子地域への進出の手駒へと変質した」と言うのが正しい所であると思います。
 

 この様に成宗電軌は各種の利害人の思惑に左右され、正しく流浪の運営をされてきた鉄道で有ると言えます。その点で成宗電気の歴史は「数奇な歴史」とも「悲劇の歴史」であると言う事が出来ます。
 その歴史、特に新勝寺門前町直接乗り入れのための「兵どもの夢の跡」が成宗電軌なのかな?と感じました。只誰も大願を成就しなかった成宗電軌ですが、もし京成が大願を成就して成宗電軌軌道敷を利用して不動尊前に乗り入れた場合、逆に今の成田空港延伸を行う時に足手まといになった可能性が有ります。 その様な点から考えると「歴史に埋もれて道路に転用されて良かったのかな?」とも感じます。明治〜昭和初期の間の「寺社仏閣と私有鉄道の関係」を見る上でも成宗電軌の歴史は非常に興味の有る内容で有ると言えます。
 今回はお付き合いの成田山参拝ツアーで、この様な成宗電軌の廃線跡を発見する事が出来又歴史を調べる事が出来て、「成田山ツアーも無駄ではなかったな」と改めて感じました。

「参考文献」鉄道ピクトリアル:87年10月及び97年1月増刊号 「<特集>京成電鉄」





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