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第6章 
 動労千葉は
なぜ闘うことができたのか

① 労働組合とはなにか
 たった一年で10人のうち3人が職場をおわれ、クビを切られる。職場の団結は破壊され、資本の奴隷としてしか存在を認めない—この国鉄分割民営化攻撃に対して闘うことができない労働組合は、はたして労働組合なのか。
 このことを問われた動労千葉は、「どれだけの組合員が処分されるか、クビになるか予想はつかないが、労働者の最後の武器=ストライキで徹底的に闘う」ことを選択した。たしかに労働運動には、妥協や譲歩は当然ある。しかし絶対に譲れない原則があるのだ。それが動労千葉をしてストライキを決断せしめた理由である。
 分割民営化から2年後、動労千葉の当時の委員長・中野洋氏は、労働組合について次のように語っている。
「労働組合というのは労働条件の維持・改善を図っていくことは当然ですが、それだけではない。あえて言えば、今動労千葉の組合員であることは、何かと差別されます。たとえば昇職試験とか、ボーナスカットとか。労働者は低賃金だから少しでも賃金を多くほしいと思うのは当たり前です。賃金闘争は労働組合の大きな柱でもあります。
 しかし、労働者は搾取され、非人間的扱いを受けているからこそ労働組合に結集して、人間らしく、人間として誇りをもって生きていきたいと願うわけです。仲間を裏切ったり、足をひっぱったり、そういう人間にはなるまいと強く主張してきました。 給料は安くとも、出世しなくてもいいではないか、人生の中で、最後まで仲間を裏切らなかったと、それが一番大事なことだと思います。動労千葉は、一人ひとりの組合員がそれを意識している組合だと思う。」(機関紙『動労千葉』別冊 1989年発行)
 そして国労指導部、協会派や共産党・革同、動労カクマルと動労千葉が全く違うのは、「労働組合観」だ。それは当たり前のことではあるが「労働組合は、幹部のためにあるのではなく組合員のもの」「俺たちの労働組合」というものだ。そして、「労働組合は、労働者が本来もっている力、労働者の階級性に掛け値なしに依拠して闘う」—これが動労千葉の労働組合観だ。
②時代認識をいかにつかむか
 当時、国鉄分割民営化攻撃をどうとらえるのか、どう認識するのかをめぐって労働組合の対応は全く違っていた。
  動労カクマルの認識は、分割・民営化攻撃にかける敵の狙いを、ある意味で「認識」していた。しかしその結論は動労千葉と全く逆だった。「冬の時代に闘うなんて、労働者階級の闘いに敵対する行為だ」と分割・民営化の尖兵になって生き残ろうとした。
 国労指導部は、当初は「分割民営化なんかできっこない」などとタカをくくり、その動向を国鉄護持派の国鉄官僚や自民党・田中派の国会議員にゆだねた。そして国家権力が総力で攻撃を開始するやいなや完全に対応不能になった。
 また国労本部は国鉄分割民営化に対して、「国民のための国鉄改革」論、「国鉄の民主的再建」論を対置し最後の最後まで分割民営化攻撃の本質を見据えようとはしなかった。その結果、「攻撃が激しく厳しい時代、たこつぼに入るしかない」という対応に終始した。とりわけ共産党は、戦後革命期にレッドパージで壊滅的な攻撃を受けたという恐怖感から、動労カクマル顔負けの「働け運動」を「処世術」とし、一切の職場闘争を放棄し、闘いの圧殺者としてその姿をさらけ出した。 
 では、動労千葉の時代認識はいかなるものだったのか。「支配階級の側が盤石な時には、労働者がどんなに闘っても敵はびくともしない。しかし危機の時代には、われわれの闘いようによって敵を揺るがすこともできる。労働者階級の側からみれば、チャンスの時代なんだ」(中野洋著『俺たちは鉄路に生きる2』)と、攻撃の厳しさを真正面から見据えると共に、敵の弱点、矛盾点をつかみ、そして闘いの展望をつかむということである。
 だから動労千葉指導部は、組合員ばかりか組合員の家族にも、攻撃の恐るべき本質、闘いにたちが立った後にくるあらゆる困難をも包み隠さず明らかにし、「我々はもう労働者としてはどんな反動があろうともストライキで起ちあがる以外にない」「千人あまりの組合でも、団結して闘ったら必ず展望は切り開かれる」と訴えたのである。
この時代認識が動労千葉の組合員全体のものになっているからこそ、どんなに厳しい闘いであっても明るく闘っているのである。
③体制内労働運動と階級的労働運動
 総評の中軸であり、戦後労働運動の最も戦闘的な伝統を誇った国労も、結局は10万人首切りと職場を監獄にする攻撃に対して、ストライキによる反撃の一つもできず、組織と団結はガタガタにされた。国労本部は最後まで現場組合員に依拠することはなかった。現場の組合員の怒り、ストライキで闘いたいという組合員の要求を全て無視または圧殺し、ひたすら国鉄当局や政府との「交渉」や「取引」(動労千葉ストに対するスト破り等)あるいは国会での駆け引きなどに全てを委ね、結局最後は破産したのだ。これが、「国家権力の許容する範囲内での労働運動」=体制内労働運動の本質なのである。
 国労には、ほとんどの左翼党派が全部存在していた。それぞれが分会や支部などの機関を握り、互いに闘いを競い合いことによって、国労の戦闘性は保たれていた。国鉄分割・民営化という帝国主義の体制の存亡をかけた攻撃がきたとき、つまり体制の打倒がテーマになったとき、何一つ闘うこともできず屈服したことは、全ての左翼党派が体制内「左翼」でしかなく、ニセ社会主義、ニセマルクス主義党派でしかないことを突きつけられたのである。今ではほとんどの左翼党派が消滅し、残っていたとしても左翼党派としては存在しえていないのだ。
 その意味で、動労千葉が唯一闘いぬくことができた核心は何かといえば、マルクス主義に立脚し、それを具体的に労働運動として実践する階級的労働運動であるということだ。
④反合理化職場実力闘争が土台
 分割・民営化攻撃の過程も、動労千葉の支部は職場支配権を完全に握っていた。職場闘争をやる力を持っていたのだ。「仕事を楽することだけが労働組合運動」ではなく「やることはやる。その代わりに言うことは言う」「労働者は社会を動かしているのだ」という労働者の誇を一番大事にする労働組合運動だ。それは今も貫かれている。
 国労はマル生闘争勝利以降、現場協議制に依拠して闘ってきた。しかし動労千葉はそれに依拠せず、あくまで職場からの実力闘争で闘ってきた。団体交渉のやり方も国労とは違う。団交が決裂しても、「ああそう。じゃあ俺らは俺らでやらせてもらう」と、すぐに順法闘争を対置し闘争に入る。線路が悪くなったら、「これは合理化の結果だ」と運転中にスピードを上げない安全運転闘争に入る。それによって、次のダイヤ改正の時に、安全に運転できる運転時分に変えることを強制したり、線路を直さざるをえない状況を強制したりする。
 つまり動労千葉は、72年の船橋闘争以降、「合理化絶対反対を貫き、運転保安を確保する」という反合・運転保安闘争路線を軸に職場で闘ってきた。だが故に、分割民営化攻撃に対してもストライキで闘うことができたのである。

⑥職場指導部の構えと
      日常的な活動
 動労千葉の第一波、第二波ストライキの最先頭に立ったのが職場の代表である支部長であった。日常的に組合員と一番密に関係を持っている支部長が、全員首になることを覚悟し、闘いの先頭に立ったことが、現場の組合員をものすごく奮い立たせたことは間違いない。またJR以降も国労のように脱退者がほとんど出なかった大きな要因は、「支部長ら解雇者のおかげでJRになっても俺らは鉄道で働いている」という意識が強力に形成されたからだ。
 そして動労千葉の強さの秘訣は、日常的な支部の活動の積み重ねである。各支部の執行委員が毎月、全組合員から組合費を直接徴収できる強さを持っていることだ。「財源を資本に握られていてはけんかができるわけがない」というのが動労千葉の絶対に譲らない考え方だ。当然、これは今も続いている。
⑤カクマルへの怒り
    労働者の生き方
 動労千葉が闘いぬくことができた底流には、79年の分離・独立以前からの動労カクマルへの激しい怒りがあった。「分割・民営化攻撃は許せない」と怒るのと同時に、労働組合の名で分割・民営化攻撃の手先になったカクマルの存在はなおさら許せないという怒りだ。「ここで俺たちが後退したらカクマルに屈服することになる。それだけは生き方の問題として絶対にできない」という意識が組合員に強烈にあった。この怒りが全組合員がクビをかけて腹を固めて闘いぬいた大きなバネになったことは間違いない。
79年動労革マル襲撃部隊

 




越中島人活センター

85年11/17日比谷 スト突入集会







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