このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
昭和40年代の初め。一の瀬真理子は、千葉にある女子高の2年生で17歳。
9月、大雨で運動会の後半が中止になった日の夕方。家でレコードをかけながら寝てしまった。
目覚めたとき、レコードの音が聞こえない。それどころか、周囲の様子が何か変だ。部屋のなかが変わっているだけでなく、自分が来ている服も違う。窓の外はありふれた住宅街だが、かつて見たことのない風景だ。
なぜかしら真理子は、まったく見知らぬところへ来てしまったのだ。
そこへ制服の女子高生が帰ってきた。
鞄のかわりにバッグを抱えている。制服はマリンブルーのようなしゃれた色でデザインもあか抜けている。胸元には向日葵のネクタイ。目も口もはっきりとした顔立ちの美少女である。
真理子の「ここはどなたのお宅ですか?」という問いに、その娘は「ふざけているの?−おかあさん」と応える。
わかったことは、眠ってから目覚めるまでの間に、25年という時間が過ぎてしまったことだ。真理子はこの間に、夫と17歳の娘がいる高校の国語教師になっていた。夫も国語教師で、娘の美也子は、真理子と同じ高校へ通っているとのこと。
突然25歳も年をとり、しかも高校教師という職業をもっているとあれば、とても現状に対応できるものではなさそうだが、幸い今は春休みである。新学期までの間に、同僚の名前を覚え、生徒の名前を覚える時間がある。
真理子は、とにかく学校へ溶け込もうと、真剣に取り組んだ。
新学期がスタートすると、学校というところは行事が目白押しである。真理子は、夫や娘の協力をえながら生活に慣れていく。
学校生活については、青春ドラマのように話が展開する。著者の教師時代の経験が生きている。現代の話でありながら、あたかも昭和の時代の雰囲気を漂わせているのは、著者のノスタルジックな思い入れだろうか。
さて、本書でとりあげている記憶喪失は「一過性全健忘」というもので、直前1日程度の記憶がなくなるといった例はままあるらしい。しかし、25年間というのは極めてまれというか、おそらく前例がないのではないだろうか。
この間にさまざまなものが変わった。電気製品類は恐ろしく進歩した。現代社会における25年の空白は、独力で生きようとしても、その意気込みを奪うのに十分だ。
さまざまな壁に当たりながらも前向きに生きていく真理子に、思わず声援を送りたくなる。母親世代にも高校生世代にも支持されたという理由が分かる気がする。心の温かくなる一冊だ。
2012.7.22
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |