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副題を「ある製糸工女哀史」という。昭和43年、著者が10数年の取材によって発表したノンフィクション文学である。
その後、映画、テレビなどで映像化され、時々の話題を集めた。映画では飛騨からの出稼ぎ工女の悲惨な面が強調して描かれているが、原書は、日本の貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々や、その時代的背景を浮き彫りするように描かれている点が評価されている。
資源のない日本において、明治の富国強兵政策を支えたのは、生糸の輸出であった。生糸は唯一国内で原料が調達できる輸出品で、輸出総額の50パーセントほどを占めていた。
その製糸業の中心だったのが長野県の諏訪地方である。明治から昭和初期にかけて、岡谷の町には製紙工場の煙突が林立していたという。
生糸生産のためには多くの人出を必要とした。岐阜県飛騨地方、山梨県富士北麓地方など、米の生産が不適な地方がこれら工女の供給地だ。
飛騨から信州へ行く工女は列をなして国境の野麦峠を越えた。次に帰ってくるのは年末の雪道である。峠には茶屋があって、鬼婆が守っている。ただ優しいだけではない鬼婆だが、厳しい峠越えで、いざというときには頼らざるをえない。
明治の初め、こうした工女たちは、いわゆる「口べらし」として信州へ送られた。ほとんど無給の状態でも、寝るところと食事さえあればよい、といったところだ。
しかし、時代が進むにしたがって工女不足が顕在化し、腕の良い工女の引き抜き合戦が始まるようになると、工女のなかにも格差がうまれてくる。好条件で雇われる者もいれば、結核で命を落とすものもいる。
やがて、工女の待遇改善要求が巻き起こり、罷業にまで発展するが、悲惨な結果に終わる。
ただし、時代のなかで翻弄されていたのは工女だけではない。これだけ人権無視の経営をしながら、製糸工場側もさして潤っていたわけではない。米国の生糸市場の乱高下に翻弄されて多くの工場が倒産したのだ。
本書は単なる悲劇物ではなく、冷静な目で明治大正という時代を見つめている。
資料は、個々の工場や工女の実態が、具体的数値で示されていて興味深い。
2012.8.11
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