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トップページ不定期刊・きょうのトピックス不定期刊・きょうのトピックス2014年(平成26年)分1989

1989(2014年〔平成26年〕1月8日公開)

 今日は現在の日本の年号である平成が始まった日である。1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇(1901〜1989。在位期間:1926〜1989)が崩御されたのを受けて皇太子(当時)の明仁親王が即位し、翌日から年号を平成に改めたのである。つまり、平成時代は今日四半世紀を超えたのである。
 「平成時代の四半世紀はまさに激動の時代だった」と評する方は多いだろうが、これは明治時代(1868〜1912)にも大正時代(1912〜1926)にも昭和時代(1926〜1989)にも言えることであり、平成時代だけに当てはまることではない。また、平成時代の四半世紀の出来事も振り返るには膨大な量になるし、1989年(昭和64年/平成元年)の出来事を紹介することもよく行われていることなのでここではしないでおく(1989年〔昭和64年/平成元年〕の出来事はこちら〔随時書き加えているのでその点はご了承願いたい〕でも紹介しているし…)。そこで今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では本サイトが取り扱っている分野、すなわち中国地方の道路とラジオ、市区郡町村の1989年(昭和64年/平成元年)の大きかった出来事を一つずつ紹介したいと思う。

道路編

山陰地方で相次いだ高速道路の開通

 この年の中国地方の高速道路の開通は山陽地方(岡山・広島・山口各県)で建設が進んでいた山陽自動車道については一切なく、反対にこれまで高速道路がほとんどなかった山陰地方(鳥取・島根両県)で相次いだ。
 まず10月18日に開通したのは浜田自動車道(中国横断自動車道広島・浜田線)の旭インターチェンジ(浜田市旭町丸原)〜浜田インターチェンジ(浜田市長沢町)間である。開通当初は旭インターチェンジ以遠の道路事情が芳しくないため利用者は少なかったのだが、その2年後の1991年(平成3年)12月7日に千代田ジャンクション(山県郡北広島町有田)〜旭インターチェンジ間が開通すると交通量は少ないものの島根県石見中部に位置する江津市・浜田市・邑智郡邑南町と広島市を結ぶ重要な幹線道路になった。現在は旭インターチェンジ〜浜田インターチェンジ間の途中に設置された浜田ジャンクション(浜田市後野町)から江津市中心部に向かって山陰自動車道(国道9号線江津道路)が延びており、江津市からの利用もしやすくなった。
 一方、12月14日に開通したのが米子自動車道(中国横断自動車道岡山・米子線)の江府インターチェンジ(日野郡江府町佐川)〜米子インターチェンジ(米子市赤井手)間である。中国横断自動車道広島・浜田線は平成時代に入った時点で広島自動車道と称される部分(広島ジャンクション〔広島市安佐南区沼田町伴〕〜広島北ジャンクション〔広島市安佐北区安佐町飯室〕間)が開通しており、故に旭インターチェンジ〜浜田インターチェンジ間の開通が中国横断自動車道広島・浜田線として初めての開通とはならなかったのだが、中国横断自動車道岡山・米子線はそれまで全く供用区間がなく、江府インターチェンジ〜米子インターチェンジ間が中国横断自動車道岡山・米子線として初めての開通となったのである。更に鳥取県には1987年(昭和62年)まで中国横断自動車道岡山・米子線以外に国土開発幹線自動車道の計画がなかったことから米子自動車道江府インターチェンジ〜米子インターチェンジ間が鳥取県初の国土開発幹線自動車道の開通区間になったのである。ちなみにこの年は山形県と大分県でも初めて国土開発幹線自動車道が開通しており、日本の都道府県で国土開発幹線自動車道がないのは徳島県だけになった(徳島県で初めて国土開発幹線自動車道が開通したのは5年後の1994年〔平成6年〕)。江府インターチェンジ〜米子インターチェンジ間しか開通していなかった当時の米子自動車道は国道181号線の有料バイパスといった趣でしかなく、利用は少なかったが、その後米子自動車道が中国自動車道(中国縦貫自動車道)と接続し、更に米子市から東と西に山陰自動車道(大半は国道9号線のバイパスとして建設)が延びると京阪神地方と山陰地方中央部を結ぶ重要な幹線道路に成長した。
 この他山陰地方ではこの年、後に山陰自動車道の一部に組み込まれることになる国道9号線の米子バイパスや松江バイパス、浜田バイパスが部分開通している。いずれのバイパスも自動車専用区間を持っているが、このように考えると1989年(昭和64年/平成元年)は山陰地方の道路面における高速交通時代の幕開けになった年と考えても良いのかもしれない。

ラジオ編

ある公開生放送番組の終焉

 エディオン広島本店本館(広島市中区紙屋町二丁目)にかつてサテライトスタジオがあったことを覚えている方は少なくないと思うのだが、この年の春の改編でそこから放送されていた中国放送ラジオ(RCC、広島市中区基町)制作の生放送番組が終了し、17年近い歴史に終止符を打った。エディオン広島本店、1989年(昭和64年/平成元年)時点のダイイチ本店のサテライトスタジオといえば1972年(昭和47年)5月に始まり、最盛期には中国地方と香川・愛媛・福岡各県の民間中波放送局7社でネットされていたほどであった「柏村武昭のサテライトNo.1」(1972〜1988年〔昭和47〜63年〕放送)を思い出す方が多いと思うのだが、「柏村武昭のサテライトNo.1」が1988年(昭和63年)春の改編で15年11ヶ月の歴史に終止符を打った後に同じ場所で始まった公開生放送番組が「ニンニキ日曜500(ごーまるまる)」であった。中国放送の本名正憲アナウンサーがパーソナリティーを務める番組だったのだが、あまりにも「柏村武昭のサテライトNo.1」が偉大すぎたのか、中国放送の社員がパーソナリティーを務めているせいもあるのか人気が出ず、わずか1年で打ち切りの憂き目に遭ったのである。これにより中国放送は公開生放送番組から一旦撤退したのだが、当時日曜日夕方の楽しみがなくなったことに寂しさを感じた方はかなりいたのではないのだろうか。
 その後エディオン広島本店本館のサテライトスタジオはしばらく使われず、1990年代中期に広島ホームテレビ(HOME、広島市中区白島北町)と中国放送ラジオが使ったこと(広島ホームテレビの場合は公開録画)もあったのだが、いずれも短命に終わり、その後はよしもと紙屋町劇場に転用されて現在に至っている。一方で中国放送ラジオは1994年(平成6年)にNTT基町クレドビル(広島市中区基町)の6階にサテライトスタジオを設置し、「なんでもジョッキー」(1975〜2003年〔昭和50年〜平成15年〕放送)などで公開生放送を行っていたのだが、これも2004年(平成16年)8月に閉鎖しており、現在中国放送ラジオは公開生放送番組を一切設定していない。中国放送としては経営事情を理由に挙げるのだろうが、17年近くに及ぶエディオン広島本店本館サテライトスタジオからの公開生放送番組の終焉は一つの時代の終焉と考えても良いのではないのだろうか。

市区郡町村編

この年発足○周年を迎えた市町村

 「不定期刊・きょうのトピックス」の記念すべき第1回「 今年○周年を迎えるもの 」で今年、すなわち2014年(平成26年)に発足○周年(○には5で割り切れる自然数が入る。なお、上限は100とする)を迎えた中国地方の市区町村を紹介したが、ならば1989年(平成元年)に発足○周年を迎えた市町村はどれだけあったのかを挙げると下表の通りになる。

県名周年市区町村名発足年月日備考
鳥取県100周年鳥取市1889年(明治22年)10月1日市制町村制施行時に発足。
西伯郡淀江町1889年(明治22年)10月1日市制町村制施行時に発足(当時は汗入郡所属)。
西伯郡日吉津村1889年(明治22年)10月1日市制町村制施行時に発足(当時は会見郡所属)。
東伯郡泊村1889年(明治22年)10月1日市制町村制施行時に発足(当時は河村郡所属)。
80周年八頭郡若桜町1909年(明治42年)4月1日八頭郡赤松・菅野・若桜各村が統合して発足。
75周年気高郡青谷町1914年(大正3年)4月1日気高郡青谷村が町制施行して発足。
八頭郡智頭町1914年(大正3年)6月1日八頭郡智頭村が町制施行して発足。
35周年東伯郡東伯町1954年(昭和29年)2月1日東伯郡浦安・八橋両町及び上郷・古布庄・下郷各村が統合して発足。
西伯郡名和町1954年(昭和29年)4月1日西伯郡御来屋町及び光徳・庄内・名和各村が統合して発足。
東伯郡北条町1954年(昭和29年)6月1日東伯郡下北条・中北条両村が統合して発足。
岩美郡岩美町1954年(昭和29年)7月1日岩美郡岩井・浦富両町及び網代・大岩・小田・蒲生・田後・東・本庄各村が統合して発足。
30周年日野郡日南町1959年(昭和34年)4月1日日野郡伯南町及び石見・高宮・多里・福栄各村が統合して発足。
日野郡日野町1959年(昭和34年)5月1日日野郡黒坂・根雨両町が統合して発足。
八頭郡八東町1959年(昭和34年)5月15日八頭郡丹比・八頭両村が統合して発足。
島根県100周年松江市1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
飯石郡吉田村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
鹿足郡津和野町1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
鹿足郡柿木村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
85周年隠岐郡西郷町1904年(明治37年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は周吉郡所属)。
隠岐郡五箇村1904年(明治37年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は穏地郡所属)。
隠岐郡知夫村1904年(明治37年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は知夫郡所属)。
隠岐郡都万村1904年(明治37年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は穏地郡所属)。
隠岐郡布施村1904年(明治37年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は周吉郡所属)。
65周年八束郡美保関町1924年(大正13年)1月1日八束郡美保関村が町制施行して発足。
60周年大原郡加茂町1929年(昭和4年)10月1日大原郡加茂村が町制施行して発足。
40周年飯石郡頓原町1949年(昭和24年)4月29日飯石郡頓原村が町制施行して発足。
35周年大田市1954年(昭和29年)1月1日安濃郡大田・久手両町及び川合・鳥井・長久・波根東各村と邇摩郡久利・静間両村が統合して発足。
江津市1954年(昭和29年)4月1日那賀郡江津・都野津両町及び浅利・跡市・川波・川平・江東・二宮・松川各村が統合して発足。
安来市1954年(昭和29年)4月1日能義郡安来町及び赤江・荒島・飯梨・大塚・島田各村が統合して発足。
邇摩郡仁摩町1954年(昭和29年)4月1日邇摩郡仁万町及び大国・宅野・馬路各村が統合して発足。
八束郡東出雲町1954年(昭和29年)4月1日八束郡揖屋町及び出雲郷・意東両村が統合して発足。
30周年八束郡玉湯町1959年(昭和34年)1月1日八束郡玉湯村が町制施行して発足。
20周年隠岐郡海士町1969年(昭和44年)1月1日海士郡海士村が町制施行して発足(当時は海士郡所属)。
八束郡島根町1969年(昭和44年)4月1日八束郡島根村が町制施行して発足。
那賀郡金城町1969年(昭和44年)11月3日那賀郡金城村が町制施行して発足。
簸川郡湖陵町1969年(昭和44年)11月3日簸川郡湖陵村が町制施行して発足。
簸川郡佐田町1969年(昭和44年)11月3日簸川郡佐田村が町制施行して発足。
簸川郡多伎町1969年(昭和44年)11月3日簸川郡多伎村が町制施行して発足。
岡山県100周年岡山市1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足。
英田郡西粟倉村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は吉野郡所属)。
英田郡東粟倉村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は吉野郡所属)。
都窪郡清音村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は窪屋郡所属)。
都窪郡山手村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は窪屋郡所属)。
苫田郡阿波村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は東北条郡所属)。
苫田郡上斎原村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は西西条郡所属)。
苫田郡富村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は西西条郡所属)。
真庭郡新庄村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は真島郡所属)。
真庭郡中和村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は大庭郡所属)。
真庭郡美甘村1889年(明治22年)6月1日市制町村制施行時に発足(当時は真島郡所属)。
75周年赤磐郡瀬戸町1914年(大正3年)4月1日赤磐郡物理村が改称した上で町制施行して発足。
65周年苫田郡加茂町1924年(大正14年)7月1日苫田郡加茂村が町制施行して発足。
後月郡芳井町1924年(大正14年)10月1日後月郡芳井村が町制施行して発足。
60周年津山市1929年(昭和4年)2月11日久米郡福岡村と苫田郡津山・津山東両町及び院庄・西苫田・二宮各村が統合して発足。
40周年児島郡灘崎町1949年(昭和24年)4月1日児島郡灘崎村が町制施行して発足。
35周年赤磐郡吉井町1954年(昭和29年)3月1日赤磐郡佐伯北・周匝・山方各村が統合して発足。
総社市1954年(昭和29年)3月31日吉備郡総社町及び阿曽・池田・久代・新本・山田各村と都窪郡常盤村が統合して発足。
勝田郡勝央町1954年(昭和29年)3月31日勝田郡勝間田町及び植月・古吉野・高取・吉野各村が統合して発足。
川上郡川上町1954年(昭和29年)4月1日川上郡手荘町及び大賀・高山両村が統合して発足。
久米郡久米南町1954年(昭和29年)4月1日久米郡弓削町及び神目・竜山・誕生寺各村が統合して発足。
高梁市1954年(昭和29年)5月1日川上郡宇治・落合・高倉・玉川・松原各村と上房郡高梁町及び川面・巨瀬・津川各村が統合して発足。
新見市1954年(昭和29年)6月1日阿哲郡上市・新見両町及び石蟹郷・草間・熊谷・菅生・豊永・美穀各村が統合して発足。
小田郡美星町1954年(昭和29年)6月1日小田郡宇戸・堺・美山各村と川上郡日里村が統合して発足。
30周年苫田郡奥津町1959年(昭和34年)4月1日苫田郡奥津・苫田・羽出各村が統合して発足。
広島県100周年広島市1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
佐伯郡吉和村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
豊田郡瀬戸田町1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
双三郡君田村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は三次郡所属)。
双三郡作木村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は三次郡所属)。
双三郡布野村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足(当時は三次郡所属)。
山県郡筒賀村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
65周年賀茂郡河内町1924年(大正13年)4月1日豊田郡大河村が改称した上で町制施行して発足(当時は豊田郡所属)。
豊田郡本郷町1924年(大正13年)4月1日豊田郡本郷村が町制施行して発足。
60周年深安郡神辺町1929年(昭和4年)3月1日深安郡川北・川南両村が統合して発足。
45周年豊田郡安浦町1944年(昭和19年)1月1日賀茂郡内海・三津口両町及び野路村が統合して発足(当時は賀茂郡所属)。
40周年賀茂郡豊栄町1949年(昭和24年)4月1日豊田郡豊栄村が町制施行して発足(当時は豊田郡所属)。
35周年庄原市1954年(昭和29年)3月31日比婆郡庄原町及び敷信・高・本田・山内北・山内西・山内東各村が統合して発足。
府中市1954年(昭和29年)3月31日芦品郡府中町及び岩谷・栗生・国府・下川辺・広谷各村が統合して発足。
三次市1954年(昭和29年)3月31日双三郡十日市・三次両町及び粟屋・神杉・河内・酒河・田幸・和田各村が統合して発足。
賀茂郡黒瀬町1954年(昭和29年)3月31日賀茂郡上黒瀬・下黒瀬・中黒瀬・乃美尾各村が統合して発足。
御調郡久井町1954年(昭和29年)3月31日御調郡久井・坂井原・羽和泉各村が統合して発足。
大竹市1954年(昭和29年)9月1日佐伯郡大竹・小方・玖波各町及び栗谷村と佐伯郡友和村松ヶ原が統合して発足。
神石郡神石町1954年(昭和29年)11月3日神石郡高光・牧両村が統合して発足。
山県郡千代田町1954年(昭和29年)11月3日山県郡壬生・八重両町及び川迫・本地・南方各村が統合して
25周年豊田郡東野町1964年(昭和39年)4月1日豊田郡東野村が町制施行して発足。
20周年豊田郡豊浜町1969年(昭和44年)11月3日豊田郡豊浜村が町制施行して発足。
15周年東広島市1974年(昭和49年)4月20日賀茂郡西条・志和・高屋・八本松各町が統合して発足。
山口県100周年阿武郡川上村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
玖珂郡本郷村1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行時に発足。
85周年大島郡久賀町1904年(明治37年)1月1日大島郡久賀村が町制施行して発足。
60周年山口市1929年(昭和4年)4月10日吉敷郡山口町及び吉敷村が統合して発足。
50周年下松市1939年(昭和14年)11月3日都濃郡下松町及び久保・末武南・花岡各村が統合して発足。
40周年吉敷郡小郡町1949年(昭和24年)11月1日山口市のうちの小郡上郷・小郡下郷の区域が独立して発足。
35周年長門市1954年(昭和29年)3月31日大津郡仙崎・深川両町及び通・俵山両村が統合して発足。
美祢市1954年(昭和29年)3月31日玖珂郡柳井町及び伊陸・新庄・日積・余田各村が統合して発足。
柳井市1954年(昭和29年)3月31日豊浦郡豊田前町と美祢郡伊佐・大嶺両町及び於福・西厚保・東厚保各村が統合して発足。
大津郡油谷町1954年(昭和29年)5月1日大津郡宇津賀・菱海・向津具各村と大津郡日置村蔵小田の一部区域が統合して発足。
豊浦郡豊田町1954年(昭和29年)10月1日豊浦郡西市町及び殿居・豊田下・豊田中両村が統合して発足。
美祢郡美東町1954年(昭和29年)10月1日美祢郡大田町及び赤郷・綾木・真長田各村が統合して発足。
30周年玖珂郡美川町1959年(昭和34年)4月1日玖珂郡美川村が町制施行して発足。

※島根県のうちの旧隠岐国の区域(海士・穏地・周吉・知夫各郡。現在の隠岐郡)は全域が離島であることを理由に島根県の他の区域(旧出雲国・旧石見国)と同時に市制町村制を実施することは見送られ、島根県の他の区域より15年遅い1904年(明治37年)4月1日の施行となった。

※山口県下関市も前身の赤間関(あかまがせき)市時代(1889〜1902)を含めると1989年(平成元年)4月1日に市制施行100周年を迎えたのだが、本サイトでは名称が異なる場合は現在の名称になった時点を発足時期とし、そこからの年数を計算する方針をとっているため上表には掲載しなかった。

 1989年(昭和64年/平成元年)は中国地方の大部分(島根県の旧隠岐国の区域を除く)で市制町村制が実施された年であるが、1989年(昭和64年/平成元年)に発足100周年を迎えた自治体は上表の通りかなりあった(4市3町21村)。2014年(平成26年)に発足125周年を迎える予定の自治体(「 今年○周年を迎えるもの 」参照)は4市1町3村だから大幅に減っていることに気付く。無論原因は平成の大合併だったのだが、このように見ると「行政の効率化」とか「財政事情の改善」を謳い文句にして市町村合併を推進したことが果たして良かったのだろうかという気にさせられる。

 1989年(昭和64年/平成元年)のことを覚えている方は少なくとも30代以上の方であるが、「あの年自分はこうしていたなあ」とか「あの年こういう出来事があったなあ」とかいろいろな思い出を持っている方は多いと思う。平成時代が四半世紀を迎えたのを契機に一度1989年(昭和64年/平成元年)当時の思い出を振り返ってはいかがであろうか。

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