このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
トップページ > ちゅうごく道路紀行 > JR三江線並行道路を行く >JR三江線並行道路を行く・第6章
JR三江線並行道路を行く・第6章(2018年〔平成30年〕3月2日公開)
粕淵駅から明塚駅へ
粕淵駅(邑智郡美郷町粕渕)の(北口)駅前広場を出て右折し、美郷町道上川戸・粕渕線(国道375号線旧道)を三次方面に進んでいく。この旅の起点に戻る格好になるのだが、次の明塚駅(邑智郡美郷町明塚)に行くにはそれ以外道がないのである。
坂を上りながら江の川支流の早水川を早水橋(全長:30.0m)で渡り、三江線を粕渕橋(全長:7.6m)で跨ぐと間もなく
丁字路、すなわち邑智郡美郷町久保/粕渕橋南交差点(信号機・交差点名標なし)
に差しかかる。ここで右折し、美郷町道郷口・野井線に入る。丁字路の脇には大きな案内標識があるのでそれを目印にすると良い。
さて、美郷町道郷口・野井線に入るとすぐに江の川に架かる三江線の鉄橋が見えてくる。第一江川橋梁と称するその鉄橋は何と歩道が併設されているという珍しい鉄橋でもある。橋梁の北側(下流側。下り方向〔江津→三次〕であれば左側、上り方向〔三次→江津〕であれば右側になる)に設置されているのだが、かつては浜原駅(邑智郡美郷町浜原)の西方にある浜原大橋(全長:153.8m)から石見簗瀬駅(邑智郡美郷町簗瀬)の東方約700mのところにある吾郷(あごう)大橋(全長:120.0m)まで約7kmにわたって江の川に架かる橋がなかったことから歩道を併設することになったようである(注1)。
美郷町道郷口・野井線から見る第一江川橋梁。歩道は奥側(下流側)にある。
三江線における歩道併設鉄橋と言えば第4章で触れた第三江川橋梁(但し歩道はトラスの下部に設置。列車はトラスの上部を通過)があったが、第三江川橋梁の歩道は1991年(平成3年)に近くに宇都井大橋(全長:174m)が開通したことを契機に通れなくなったのに対し、この第一江川橋梁は1992年(平成4年)に近くにあけぼの大橋(全長:243.0m)が架かった後も歩道は通行できるようになっている。もし第一江川橋梁の歩道をあけぼの大橋開通を契機に封鎖したら邑智郡美郷町野井と邑智郡美郷町中心部を徒歩で往来するのが不便になることからあけぼの大橋開通後も通れるようにしたのであろう。恐らく三江線廃止後も住民の利便を図るために歩道の通行は認められるのではないのだろうか。
西方から撮影した第一江川橋梁。(第一江川橋梁と重なっているため見えづらいのだが)その向こうにあけぼの大橋が見える。
ところで、三江線の江の川に架かるトラス橋と言えば最終開業区間に三つあり、それ以外の区間ではこの第一江川橋梁しかない。
第二江川橋梁。石見都賀〜宇都井間にある。
第三江川橋梁。宇都井〜伊賀和志間にある。
第四江川橋梁。伊賀和志〜口羽間にある。
なぜ昭和時代前半に開業したところに昭和時代後半に開業したところによく見られるトラス橋があるのか。実はこの江川第一橋梁は1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨で流されたことがあるのである。流出前の橋梁は桁橋だったのだが、桁橋だといくつも川中に橋脚を建てなければならなくなることから橋脚を少なくできるトラス橋で再建されることになったのだろう(注2)。なお、再建に際して河川改修も併せて行われたため復旧には約2年半かかっている。
あけぼの大橋で江の川を渡るとすぐに変形四差路の
邑智郡美郷町野井/あけぼの大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)
に差しかかる。ここで右奥の美郷町道吾郷・浜原線に入る(右手前の道は美郷町道野井線)。
邑智郡美郷町久保/粕渕橋南交差点(信号機・交差点名標なし)
から
邑智郡美郷町野井/あけぼの大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)
までの美郷町道郷口・野井線は邑智郡美郷町中心部と江の川左岸地域を結ぶ幹線道路であるにもかかわらず、平成時代に整備されたにもかかわらず中央線が引かれるほどの幅ではないのだが、普通自動車同士のすれ違いには難渋しない。交通量が少ないことを見越して上下2車線での建設は考えなかったのであろう。
江の川左岸を通る美郷町道吾郷・浜原線に入ると程なくして道は狭くなる。江の川左岸にある邑智郡美郷町野井・明塚に住む方にとっては大切な生活道路ではあるが、交通量が見込めないことや邑智郡邑智町(1955〜2004)→邑智郡美郷町の財政規模が小さいこともあって整備は進まないでいるのだろう。記すまでもなく今年4月1日からはこの道を邑智郡美郷町中心部と江の川左岸に点在する集落を結ぶ路線バス(三江線廃止代替バス)が通ることになるのだろうが、どんな車両がこの道を通るのだろうかと考えたくなってくる。
この辺りの三江線は美郷町道吾郷・浜原線とはいくらか離れていることや間には田畑や民家、草木があること、美郷町道吾郷・浜原線より低いところを通っていることから美郷町道吾郷・浜原線から三江線の線路や三江線を走る列車を見ることはできない。やっと美郷町道吾郷・浜原線から三江線の線路や列車が見られるようになるのは
第一野井踏切(邑智郡美郷町野井)
の少し手前辺りからである。その辺りに邑智郡邑智町中心部に通じる渡し船との乗り換え駅として野井仮乗降場が1972年(昭和47年)秋から1年間程度設置されていたようであるが、詳細ははっきりしない(注3)し、痕跡もないという。また、探索も難しいところである(私有地や線路に入るわけにはいかないし…)。だから今回の旅では取材しないことにした。
第一野井踏切
を過ぎたところで
第一野井踏切
の警報機が鳴り、遮断棒が下りた。この旅で初めての三江線の列車との遭遇である。
稼働中の 第一野井踏切
走ってきた列車は浜田発浜原行下り列車(425D(注4))であった(下の写真)。
3回に分けて行ったこの旅で三江線の列車を間近に見たのは実はこれが最初で最後であった。三江線の一日の列車本数は江津〜浜原間及び口羽〜三次間が5往復、浜原〜口羽間が4往復。記すまでもないが昼間には何時間も列車が来ない時間帯があり、列車と遭遇する機会は限られてくる。まあ今回の旅は三江線に並行する道路の現状と三江線の各駅の様子を紹介すべく取材することが目的であり、列車には主眼を置いていなかったのだが…。
第一野井踏切
を過ぎて緩やかな坂を下ると右側から美郷町道野井線が合流してくる。
邑智郡美郷町野井/あけぼの大橋西詰交差点(信号機・交差点名標なし)
で分かれた道である。遠回りになるので今回は通らなかったのだが、美郷町道吾郷・浜原線よりも西側を通り、江の川に近いところにある集落の大切な生活道路になっているようである。
ところで、邑智郡美郷町のうちの邑智郡邑智町だった地域(行政区域は現在の邑智郡美郷町のうちの明塚・吾郷・石原・内田・奥山・乙原〔おんばら〕・粕渕・片山・櫨谷〔かたらがい〕・上川戸・亀村・京覧原〔きょらんばら〕・久喜原・久保・熊見・九日市・小谷・小林・小松地・酒谷・信喜〔しき〕・志君・地頭所・惣森・高畑・高山・滝原・千原・野井・浜原・別府・港・簗瀬・湯抱〔ゆがかい〕)を車で通っていて興味をひかれることの一つは県道標識(正式名称は都道府県道番号)に似た意匠の町道標識がいくつも見られることである。下の写真は
第一野井踏切
の南方で撮影した美郷町道野井線の標識であるが、知らない人が見るとここにも県道が通っているのかと思ってしまいそうである(注5)。路線数の少ない地方の市町村ならではの標識なのだろうが、もし邑智郡美郷町を訪れた時は気にしておいて頂きたい。
邑智郡美郷町野井/第一野井踏切南交差点(信号機・交差点名標なし)
で美郷町道野井線と合流した美郷町道吾郷・浜原線は三江線と江の川の間を狭い道で南下していく。それは400mほどのことで、
第二権現踏切(邑智郡美郷町野井)
を渡って三江線の東側に移り、
第二権現踏切
の百数十m先にある
第一権現踏切(邑智郡美郷町野井)
を渡って再び三江線と江の川の間に入る。その状態で邑智郡美郷町明塚に入ると程なくして続けざまに二度三江線の高架の下をくぐる箇所がある。そこには高さ制限(3.0m)がかけられているが、そこまで予告は一切なく、現地まで来ないと分からないことなので注意して頂きたい。
続けざまに二度三江線の高架をくぐった後、しばらくは三江線と江の川の間を狭い道で南下する美郷町道吾郷・浜原線であるが、間もなく周囲が開けてきて明塚の集落が近くなったことを感じさせる。
第二明塚踏切(邑智郡美郷町明塚)
で三江線を渡り、三江線の東側に移ると間もなく進行方向右側にコンクリートブロックで作られた待合所が見えてくる。それが明塚駅である。
明塚駅(あかつかえき)
明塚駅の待合所
明塚駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。明塚駅の愛称は黒塚となっている。
明塚駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡美郷町明塚 |
駅名の由来 | 駅がある大字の名前。 |
開業年月日 | 1967年(昭和42年)4月1日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで西側を利用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) | 起点(江津)から45.0km 終点(三次)から63.1km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) | (下り線)石見簗瀬駅から2.3km (上り線)粕淵駅から3.1km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) | (下り列車) 423D…午前7時31分(江津発三次行) 425D…午後2時29分(浜田発浜原行) 429D…午後4時54分(江津発三次行) 431D…午後6時17分(江津発浜原行) 435D…午後8時47分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前6時31分(浜原発浜田行) 422D…午前7時54分(三次発浜田行) 424D…午前11時50分(三次発石見川本行) 430D…午後5時19分(浜原発江津行) 434D…午後7時15分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | 明塚水力発電所 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 |
付近を通る国道路線 または県道路線 | なし ※強いて挙げれば県道40号川本・波多線になるが、県道40号川本・波多線に出るまで1.6kmほどかかる。 |
備考 | ・旧三江北線(江津〜浜原間。1955〜1975)では最も新しい駅である。 ・三江線の駅では唯一近くに国道路線も県道路線も通ったことがなく、なおかつ国道路線または県道路線から最も遠く離れた駅である(最も近いところにある県道40号川本・波多線に出るまで1.6kmほどかかる)。 |
明塚駅は初代三江線石見簗瀬〜浜原間が開通して30年近く経った1967年(昭和42年)4月1日に開業した駅で、旧三江北線(江津〜浜原間。1955〜1975)では最後に開業した駅となる。設置された理由は邑智郡美郷町明塚が交通不便な土地だったことであろう。明塚駅開業前の邑智郡美郷町明塚はどういう状況の土地だったのかを記すと次の通りになる。
・最も近い江の川の対岸に渡るための橋は明塚駅の南西約1.3kmのところにある吾郷大橋しかなかった。よって邑智郡邑智町中心部に出るには遠回りしなければならなかった。
・川本・江津・浜田方面に行く場合の最寄駅となる石見簗瀬駅まで2km以上離れていた。
・地域内を国道路線または県道路線が通っていなかった。
・最も近い国道路線または県道路線は吾郷大橋を通る県道169号川本・邑智線(1958〜1977。路線名称は廃止当時のものを記載)であり、その県道169号川本・邑智線に出るには1.6kmほどかかった。
このように書くと交通不便な状況から抜け出したいという地域住民の思いが感じられるのだが、その結果実現したのが明塚駅であった。家の近くから邑智郡邑智町の中心部・粕渕は当然のこと、川本・江津・浜田方面に楽に行けるようになったことは大きな喜びを持って迎えられたことであろう。それから半世紀。「島根県統計書」(島根県企画振興部統計課刊)によるとここ数年の明塚駅の一日の平均乗車人員は0〜2人だという(注6)。過疎化で人口が減り、そして利用も減った。今では田園地帯の中で寂しくたたずむ停留所となってしまった。
明塚駅を巡ってどうかと思うことは他にもある。それを挙げると次の通りになる。
・秘境駅として知られるようになったこと。確かに列車の本数は少ないし、車で行こうと思ったら狭いところを通らないといけないし、付近には人家が少ないのでそのように感じる方がいるのだろうが…。
・待合所は開放式であること。しかも待合所の壁には穴がいくつも開けられており、雨の日や雪の日、強い風の日、寒い日は利用しづらいことが想像される。旧三江北線で最後に設置された駅ということもあるのだろうが…。
どのように考えるかは人それぞれであるが、明塚駅周辺に住んでいる方々はこれらのことをどのように感じているのであろうか。
のどかな田園地帯の真ん中にある明塚駅の歴史を記す上で絶対に欠いてはならないのは開業5周年を迎えて間もない1972年(昭和47年)7月に梅雨末期の集中豪雨で浸水被害を受けたことである。そのことは待合所の東側壁面の左上に取り付けられている水位表示看板で示されている。
明塚駅の水位表示看板(左。分かりにくくなっているが白色と青色の境まで浸水した)とその設置位置(右。赤矢印の先に看板がある)
上の写真から明塚駅の待合所は上部を残して水没したことが分かるのだが、その高さは自分の背丈を超えていた(恐らく2m以上)。明塚駅のプラットホームから江の川までは数十mあるのだが、そういうところにある待合室の大半が浸水したことを考えるとどれだけの雨が降り、どれだけの水が島根・広島両県の各所から流れてきたのだろうかと考えてしまう(明塚駅付近における江の川の源流〔山県郡北広島町高野〕からの距離は既に150km近くに達しているわけだし…)。
実はこういう看板はこの旅の始まりとなる三次駅(三次市十日市南一丁目)にもかつてあったのだが、残念ながら2015年(平成27年)に完成した現在の駅舎には見当たらなかった(私の見落としかもしれないのだが…)。そして明塚駅以西の三江線の多くの駅にあるこの看板も三江線の廃止に伴う施設取り壊しで順次姿を消していくものと思われる。あと4年半ほどでこの未曽有の大災害から半世紀となるのだが、(当時を知る人がだんだんいなくなることを思えば致し方ないことではあるのだが)このまま忘れ去られてしまうのだろうか。毎年のようにどこかで甚大な被害をもたらす集中豪雨が起きていることを思うと風化させてはならないと思う。「天災は忘れた頃にやってくる」という名言もあるくらいだし…。
明塚駅から石見簗瀬駅へ
明塚駅に通じる小道の入口から美郷町道吾郷・浜原線を更に南下する。開けた場所を通っているためか道幅はそんなに狭くはない。
やがて進行方向左側に発電所が見えてくる。その発電所は中国電力明塚水力発電所(邑智郡美郷町明塚)と言い、浜原ダム(邑智郡美郷町滝原・上川戸)のダム湖・浜原貯水池で採った水を導水管で運び、発電するというものである。完成したのは1953年(昭和28年)のことであるが、建設の背景には高度経済成長の中で電力需要が増え、既存の発電所だけでは賄い切れなくなったことがあったのだろう。
そこでこんなことを考える方がいるかもしれない。
「だったら明塚駅と潮駅(邑智郡美郷町潮村)の間にトンネルを掘ったら三江線はもう少し距離を縮められたのではないか」
実はそういう経路も考えられていたようである。
第5章
の「粕淵駅(かすぶちえき)」で鉄道敷設法別表第95号に「島根県滝原附近ヨリ大森ヲ経テ石見大田二至ル鉄道(現在の地名に直せば邑智郡美郷町滝原付近から大田市大森町を経て大田市中心部に至る路線)」という路線が記載されていたことについて触れたのだが、明塚〜潮間を短絡する経路をとった場合、鉄道敷設法別表第95号に記載された鉄道路線の起点となる邑智郡美郷町滝原を通ることになるのである。その場合、邑智郡美郷町滝原は交通の要衝として、邑智郡北東部の中心地として発展していたかもしれない。
しかし、この経路には次に挙げる問題点が存在した。
・途中で掘ることになるトンネルの長さは1km近くになること。
・人口集積地である粕渕や浜原を無視すること。
・滝原には村役場がないし幹線道路が通り、なおかつ交差していない(注7)ので中枢性が粕渕や浜原に大きく劣ること。
かくして邑智郡美郷町明塚と邑智郡美郷町潮村を短絡する経路は採用されなかった。費用がかかってなおかつ人口集積地に住む方々の反発を食らうような経路は採用されるわけがなかったのである。鉄道は利用されないと経営が成り立たないし意味がないものであることを考えると当然の結果だと思うのだが、ならばなぜ邑智郡美郷町粕渕・浜原ではなく邑智郡美郷町滝原を経由することを考えたのだろうか。邑智郡美郷町滝原を経由させれば勝算があるとでも思ったのだろうか。そのことを発想した人はとっくの昔に逝去されていることだろうから真相は永遠に謎のままになることであろうが…。
それはさておき、中国電力明塚水力発電所の横を通過した美郷町道吾郷・浜原線は右に曲がって三江線を
第一明塚踏切(邑智郡美郷町明塚)
で渡る。またもや美郷町道吾郷・浜原線は三江線と江の川の間を進むことになる。間もなく明塚橋(全長:46.0m)で明塚水力発電所排水路を渡るのだが、この明塚橋には重量制限(9トン)がかけられている。この重量制限も現地まで来ないと全く分からないのだが、前記の高さ制限の件といい、この重量制限の件といい、邑智郡美郷町はこの町道吾郷・浜原線をどのように位置付けているのだろうかと考えたくなる。
明塚橋を渡ると美郷町道吾郷・浜原線は江の川と三江線に挟まれた中を狭い道で通り抜けていく。三江線には覆道が設けられており、災害の危険性が高いところであることを感じさせているが、並行する美郷町道吾郷・浜原線からはあまり見えないため気付かない人がいるかもしれない(下の写真)。
吾郷大橋から撮影した三江線の覆道
1km以上三江線と江の川の間の狭いところを進んできた美郷町道は
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
で県道40号川本・波多線と合流する。この旅においては
邑智郡美郷町上川戸/丸郡橋西詰交差点(交差点名標なし)
で県道166号美郷・飯南線と別れて以来の県道路線となる。
ところで、この
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
は丁字路でありながらここで左折(下り方向〔川本→粕渕・三瓶山・雲南〕)または右折(上り方向〔雲南・三瓶山・粕渕→川本〕)する県道40号川本・波多線が優先道路とされ、美郷町道吾郷・浜原線には一時停止規制が敷かれている。それはそれで良いのだが、次に挙げる問題がある。
・そこで左折(下り方向)または右折(上り方向)する県道40号川本・波多線に急な屈曲を入れざるを得なかったこと。これは
邑智郡美郷町吾郷/吾郷大橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)
についても同じである(
邑智郡美郷町吾郷/吾郷大橋北詰交差点〔信号機・交差点名標なし〕
の場合は右折が下り方向、左折が上り方向となる)。
・吾郷大橋は水色に塗られたトラスが印象的な橋だが完成したのは1954年(昭和29年)3月と既に60年以上が経過していること。
・吾郷大橋は上下2車線幅(注8)であり、大型車同士のすれ違いに難渋する恐れがあること。
南方から撮影した吾郷大橋
県道40号川本・波多線は邑智郡各地と島根県の県庁所在地・松江市を結ぶ幹線道路になり得る存在であるし、島根県を代表する山である三瓶(さんべ)山(標高:1,125.8m)に通じる道の一つであるし、三江線亡き後は国道261号線や国道375号線とともに三江線が通っていた地域の幹線道路として更に有用な存在になることが期待されている。そういう中で入口に急な屈曲があり、完成から60年以上が経過して老朽化が懸念され、大型車のすれ違いが難しそうな橋があることを島根県はどのように考えているのだろうか。島根県がこの問題に取り組むのは邑智郡川本町・邑智郡美郷町境付近に残る未改良箇所を解消してからになるのだろう(恐らく2020年代中期以降)が、果たしてどうなるのだろうか。
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
からの県道40号川本・波多線は
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
までの美郷町道吾郷・浜原線と同じく三江線と江の川の間を通っているのだが、美郷町道吾郷・浜原線と違うのは上下2車線の快適な道になっていることである。前に書いた通り邑智郡各地と島根県の県庁所在地・松江市を結ぶ幹線道路として位置付けられて、整備が進められていることがうかがえる。このまま走っていきたいところなのだが、わずか250mほどでこの快適な道とはしばらくお別れしなければならなくなる。というのも石見簗瀬駅とその次の乙原駅(邑智郡美郷町乙原)は県道40号川本・波多線の旧道を通らないと行けないからである。
その分岐点、すなわち邑智郡美郷町簗瀬/吾郷バイパス東口交差点(信号機・交差点名標なし)
は
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷大橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
から初めて左に分岐する道であることと傍らに川本警察署吾郷駐在所(邑智郡美郷町簗瀬)の案内標識が設置されていることに注意すればすぐに見つかる。
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷バイパス東口交差点(信号機・交差点名標なし) の傍らにある川本警察署吾郷駐在所の案内標識(標識は下り方向のもの)
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷バイパス東口交差点(信号機・交差点名標なし) で県道40号川本・波多線からそれ、美郷町道簗瀬線(県道40号川本・波多線旧道)に入る。坂を下るとすぐに左折し、三江線を 吾郷踏切(邑智郡美郷町簗瀬) で渡り、山と三江線の間を進んでいく。やがて辺りが開けてきて民家が道の両側に見えるようになると間もなく右側に石見簗瀬駅の駅舎が見えてくる。
石見簗瀬駅(いわみやなぜえき)
石見簗瀬駅の駅舎
石見簗瀬駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。石見簗瀬駅の愛称は岩戸となっている。
石見簗瀬駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡美郷町簗瀬 |
駅名の由来 | 駅がある大字の名前。 |
開業年月日 | 1935年(昭和10年)12月2日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | 駅舎 |
プラットホームの形式 | 単式ホームで北側を利用している。 昔は島式ホームだったが、列車本数減少に伴う列車交換施設廃止により南側の線路は撤去された。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) | 起点(江津)から42.7km 終点(三次)から65.4km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) | (下り線)乙原駅から2.9km (上り線)明塚駅から2.3km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) | (下り列車) 423D…午前7時26分(江津発三次行) 425D…午後2時24分(浜田発浜原行) 429D…午後4時48分(江津発三次行) 431D…午後6時12分(江津発浜原行) 435D…午後8時41分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前6時37分(浜原発浜田行) 422D…午前8時0分(三次発浜田行) 424D…午前11時56分(三次発石見川本行) 430D…午後5時25分(浜原発江津行) 434D…午後7時20分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | 川本警察署吾郷駐在所 吾郷郵便局 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 簗瀬王子神社(境内に美郷町天然記念物に指定されている幹回り約6.5mの大きなムクノキがある) 天津神社 |
付近を通る国道路線 または県道路線 | 県道40号川本・波多線 ※石見簗瀬駅のすぐ北側を通っている。かつては石見簗瀬駅のすぐ南側を通っていたが吾郷バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡美郷町に移管され、美郷町道簗瀬線になっている。 |
備考 | ・初代三江線第四期開業区間(石見川本〜石見簗瀬間)の終点。浜原延伸までの2年近く終着駅となっていた。 ・令制国名である石見を付けたのは開業当時既に京都府に梁瀬(やなせ)駅があったことから混同を回避したかったことが考えられる。 ・「やなぜえき」は山口県にもある。但し漢字表記は「柳瀬駅」である。 |
石見江津駅(現:江津駅〔江津市江津町〕)から江の川に沿って延びてきた三江線(いわゆる初代三江線)が邑智郡吾郷村(行政区域は現在の邑智郡美郷町明塚・吾郷・奥山・乙原・簗瀬。1889〜1955)の中心部・簗瀬に到達したのは1935年(昭和10年)の暮れのことであった。邑智郡吾郷村の中心部にできた駅だから名称は吾郷駅か石見吾郷駅になるのが妥当なところではあったのだが、なぜか駅名は中心部の大字・簗瀬を採ったのである。邑智郡吾郷村の由来となった吾郷は初代三江線が全く通らない江の川右岸にあったことから江の川左岸を通る鉄道路線の駅に「吾郷」を採用するのはどうかという声が上がったからであろう。
それで決定…と行きたかったところであるが、簗瀬駅としたことでもう一つ問題が生じたのである。それは京都府内に既に梁瀬駅があったことであった。読み方や漢字が異なるけれど混同される恐れは十分考えられる。そこで令制国名である石見を付けて石見簗瀬駅とすることになったのである。
しかし、それでも混同する人がいたのだろう。駅名標をよく見ると修正シールを貼って訂正した跡があった。恐らく駅名標製作業者が誤って「石見柳瀬」か「石見梁瀬」と書いてしまったのを訂正したのだろう。
石見簗瀬駅の駅名標(左)とその拡大写真(右)。「簗」と書かれたシールで訂正されているのが見える。
初代三江線の浜原延伸まで2年足らずの間終着駅だったことや邑智郡吾郷村の中心部にある駅だったこともあり、石見簗瀬駅は駅舎と列車交換施設を持つ駅とされた。すぐ北側を江の川が流れている関係上プラットホームは島式とし、駅舎とプラットホームの間は上り線に設置された構内踏切を渡らなければならないようになっていた。実は石見簗瀬駅は石見川本〜粕淵間(後に粕淵駅の列車交換施設撤去により石見川本〜浜原間になる)で唯一の列車交換可能駅だったので列車本数が多かった頃はここで一日に何回も列車の交換が行われていたのであろう。
石見簗瀬駅の構内踏切の跡。奥に見えるのが現在使われている線路(旧下り線)である。
しかし、過疎化による人口減少やモータリゼーションの進展、日本国有鉄道(国鉄。千代田区丸の内一丁目。1949〜1987)の経営悪化に伴う合理化で列車本数は削減された。そして駅員はいなくなり、交換施設は撤去された。一方、邑智郡吾郷村はいわゆる昭和の大合併で邑智郡邑智町の一地域に格下げされて中枢性を失い、郵便局や警察官駐在所(注9)は今もあるものの地域の象徴たる小学校(邑智町立吾郷小学校〔邑智郡美郷町簗瀬〕)は2004年(平成16年)に美郷町立邑智小学校(邑智郡美郷町粕渕)に統合されたため廃校になってしまった。そして今年4月1日の三江線の廃止。邑智郡美郷町吾郷地区に住む方々はこの状況をどのようにとらえているのだろうか。
美郷町道簗瀬線(県道40号川本・波多線旧道)に沿って延びる簗瀬の町並み(左:東方/右:西方)
石見簗瀬駅の島式ホーム。活用されているのは右側だけであり、左側には既にレールがないのが分かる。
上り線だった箇所に残る砂利(バラスト)。木製の枕木もまだ残されている。
構内踏切跡地から撮影した石見簗瀬駅の駅舎
そして石見簗瀬駅にも絶対に忘れ去ってはいけないある出来事を示す物件があった。それがあるのは駅舎の入口の左側であった。
石見簗瀬駅駅舎玄関脇にある水位表示看板(左)とその拡大写真(右)
上に示した二つの写真から1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨で駅舎玄関の扉より高いところ、更に記すなら玄関に掲げられている駅名看板の下半分までが浸水したことがうかがえる。1972年(昭和47年)7月中旬の梅雨末期の集中豪雨がどれだけひどい災害だったかを今に伝えているのだが、この水位表示看板も三江線の廃止により消えてしまうのであろうか。「明塚駅(あかつかえき)」で書いたことと同じことを書くのだが、「天災は忘れた頃にやってくる」という名言もあるくらいだから絶対に風化させてはならないと思う。
石見簗瀬駅から乙原駅へ
石見簗瀬駅の(南口)駅前広場を出て右折し、美郷町道簗瀬線(県道40号川本・波多線)を西に進む。美郷町道簗瀬線(県道40号川本・波多線)の沿線には空き地や田畑も少なくないが民家が建ち並んでいる他川本警察署吾郷駐在所や吾郷郵便局(邑智郡美郷町簗瀬)があり、引き続き簗瀬の集落の中心部を通っていることを感じさせる。道幅は1.5車線ほどである。こういう道路事情では県道40号川本・波多線は邑智郡各地と三瓶山や松江市を結ぶ広域幹線道路としての重責を担えないのは明らかであり、それ故に三江線の北側にある江の川左岸土手に島根県は県道40号川本・波多線のバイパスの建設を企図したことが分かる。
吾郷郵便局の先にある
簗瀬踏切(邑智郡美郷町簗瀬)
で三江線を渡り、三江線と江の川左岸土手(県道40号川本・波多線)の間に出る。そのまま道なりに進むと、県道40号川本・波多線が三江線と美郷町道簗瀬線を乗り越す簗瀬橋(全長:45.2m)の下をくぐる。その先で坂を上り、江の川左岸土手に出る。なお、町道の路線名称はここ、すなわち
邑智郡美郷町簗瀬/簗瀬王子神社西交差点(信号機・交差点名標なし)
で簗瀬線から乙原・簗瀬線に変わる。
ところで、
邑智郡美郷町簗瀬/簗瀬王子神社西交差点(信号機・交差点名標なし)
を巡ってこんなことを話していた方が私の身近にいた。
「1980年代前半から半ば頃にかけてのある時、邑智郡美郷町簗瀬を車で通過したことがあったのだが、粕渕方面から川本方面に行く場合は簗瀬の集落の中を通り、川本方面から粕渕方面に行く場合は江の川左岸土手を通っていた。確か
邑智郡美郷町簗瀬/簗瀬王子神社西交差点(信号機・交差点名標なし)
に川本方面から来た車に対して江の川左岸土手を直進するように指示する標識(指定方向外進行禁止)と簗瀬の集落への進入禁止を指示する標識があった。いつか確かめようと思っていたが平成時代になるともう江の川左岸土手を県道40号川本・波多線とする改良工事が進められており、真偽は確認できなくなっていた」
つまり、
邑智郡美郷町簗瀬/簗瀬王子神社西交差点(信号機・交差点名標なし)
〜
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷バイパス東口交差点(信号機・交差点名標なし)
間の県道40号川本・波多線について下り方向と上り方向は別の道を通っていたということである。県道40号川本・波多線に指定されているのは上り方向の道であり、結果県道40号川本・波多線を下り方向で走破できなかったということになる(注10)。もしこういう交通規制が実際に行われていたのなら簗瀬の集落に住んでいる方や用のある方はかなりの不便を強いられたことになるのだが、道路事情や生活環境保全を考えれば致し方はないだろうと思う面はあるものの真偽のほどはどうだったのだろうか。
それはさておき、
邑智郡美郷町簗瀬/簗瀬王子神社西交差点(信号機・交差点名標なし)
からの美郷町道乙原・簗瀬線(県道40号川本・波多線旧道)は三江線と江の川の間を通り抜けていく。道幅は1〜1.5車線で、普通自動車同士のすれ違いにも難渋しそうである。江の川支流の火打谷川を火打谷橋(全長:39.1m)で渡ると三江線は左に離れていき、山と江の川の間を進むようになる。記すまでもないが進行方向左側は崖になっており、災害の危険性もある。
江の川右岸の栗原という集落に通じる美郷町道栗原線を分岐する
邑智郡美郷町簗瀬/栗原橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
に差しかかった辺りから再び三江線が左側に沿うようになり、三江線と江の川の間の狭いところを進んでいく。対岸の栗原地区や赤い二つのアーチが印象的な栗原橋(全長:249.8m。記すまでもないが美郷町道栗原線である)、江の川が見えるところがあるが、狭くて曲がりくねった道である。いくら通過交通が山の中を通るバイパスに移ったとしても気が抜けない。
700mほどそんな道が続いた後、辺りが開けたところで丁字路、すなわち
邑智郡美郷町乙原/乙原北口交差点(信号機・交差点名標なし)
に差しかかる。
邑智郡美郷町簗瀬/栗原橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
からは初めての交差点なのだが、ここで直進すると県道40号川本・波多線吾郷バイパスに入るため乙原駅に行くには遠回りな経路をたどらなければならなくなる。乙原駅に行くには
邑智郡美郷町乙原/乙原北口交差点(信号機・交差点名標なし)
で左折しなければならない。なお、
邑智郡美郷町乙原/乙原北口交差点(信号機・交差点名標なし)
から町道の路線名称は乙原・簗瀬線から乙原線に変わる。
邑智郡美郷町乙原/乙原北口交差点(信号機・交差点名標なし)
で左折して美郷町道乙原線に入るとすぐに県道40号川本・波多線吾郷バイパスの乙原橋(全長:50.0m)の下をくぐる。その先が乙原の集落ということになるのだが、民家は簗瀬の集落ほど多くはない。進行方向左側には過疎化や少子化により2012年(平成24年)春に廃園になった乙原保育所があるのだが、そこは今おおち山くじら(公式サイトは
こちら
)という会社が入ってイノシシ肉の加工場として利用している。
乙原簡易郵便局の前を通り、道の両側の民家の密度が高くなってくると進行方向右側に美郷町スクールバスの乙原駅前停留所の待合小屋が見えてくる(下の写真)。そのすぐ先に
丁字路、すなわち邑智郡美郷町乙原/乙原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)
があるのだが、そこで左折すると100mほどで乙原駅の(西口)駅前広場に到着する。
乙原駅(おんばらえき)
乙原駅の待合所。山裾の高台にあることが分かる。
乙原駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。乙原駅の愛称は帯舞となっている。
乙原駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡美郷町乙原 |
駅名の由来 | 駅がある大字の名前。 |
開業年月日 | 1935年(昭和10年)12月2日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで東側を利用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) | 起点(江津)から39.8km 終点(三次)から68.3km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) | (下り線)竹駅から2.2km (上り線)石見簗瀬駅から2.9km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) | (下り列車) 423D…午前7時19分(江津発三次行) 425D…午後2時17分(浜田発浜原行) 429D…午後4時42分(江津発三次行) 431D…午後6時5分(江津発浜原行) 435D…午後8時35分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前6時43分(浜原発浜田行) 422D…午前8時6分(三次発浜田行) 424D…午後0時2分(三次発石見川本行) 430D…午後5時31分(浜原発江津行) 434D…午後7時27分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | 乙原簡易郵便局 |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 沖丈遺跡 乙原八幡宮(美郷町の天然記念物に指定されている杉の大木がある) |
付近を通る国道路線 または県道路線 | 県道40号川本・波多線 ※石見簗瀬駅の500mほど西方を通っている。かつては乙原駅の北西約100mのところを通っていたが吾郷バイパス開通に伴う旧道処分で邑智郡美郷町に移管され、美郷町道乙原線になっている。 |
備考 | ・三江線では三次(みよし)駅(三次市十日市南一丁目)と並ぶ難読駅である。 ・初代三江線(最終的な区間は江津〜浜原間。後に三江北線〔1955〜1975〕に改称する)で開業当時からある駅だが地形的な事情(線路のすぐ横が山になっていること)もあるのか列車交換施設は唯一設けられなかった。 ・初代三江線で開業当時からある駅だが他の開業当時からある駅と違って駅舎は現存しない。かつては小さな駅舎があったが合理化により撤去された。 ・大分県にも「乙原駅」があるが、そちらは「おとばるえき」と読む。 |
考えてみれば初代三江線(後の三江北線)で開業当初からある駅はそのほとんどが自治体の代表駅であり、そうでない駅はあまりない。よく分からないと思う方がいると思うので初代三江線全線開通時点(1937年〔昭和12年〕10月20日時点)の沿線自治体と駅の一覧表を下に示すことにした。なお、自治体の代表駅については駅名の前に◎を付けている。
自治体名 | 駅名 | 読み方 | 所在地 | 起点からの 距離 (単位:km) | 開業年月日 | 列車交換 施設の有無 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
那賀郡江津町 | ◎石見江津 | いわみごうつ | 那賀郡江津町郷田 | 0.0 | 1920年 (大正9年) 12月25日 | — | 初代三江線の始発駅。 開業年月日は接続する山陰本線のものを書いている。 |
那賀郡川平村 | ◎川平 | かわひら | 那賀郡川平村南川上 | 7.0 | 1930年 (昭和5年) 4月20日 | ○ | |
邑智郡川戸村 | ◎川戸 | かわど | 邑智郡川戸村川戸 | 13.9 | 1930年 (昭和5年) 4月20日 | ○ | |
邑智郡川越村 | ◎石見川越 | いわみかわごえ | 邑智郡川越村渡村 | 22.3 | 1931年 (昭和6年) 5月20日 | ○ | |
邑智郡川本町 | 因原 | いんばら | 邑智郡川本町因原 | 28.9 | 1934年 (昭和9年) 11月8日 | ○ | |
◎石見川本 | いわみかわもと | 邑智郡川本町川本 | 32.6 | 1934年 (昭和9年) 11月8日 | ○ | ||
邑智郡吾郷村 | 乙原 | おんばら | 邑智郡吾郷村乙原 | 39.8 | 1935年 (昭和10年) 12月2日 | × | |
◎石見簗瀬 | いわみやなぜ | 邑智郡吾郷村簗瀬 | 42.7 | 1935年 (昭和10年) 12月2日 | ○ | ||
邑智郡粕淵村 | ◎粕淵 | かすぶち | 邑智郡粕淵村粕淵 | 48.1 | 1937年 (昭和12年) 10月20日 | ○ | |
邑智郡浜原村 | ◎浜原 | はまはら | 邑智郡浜原村浜原 | 50.1 | 1937年 (昭和12年) 10月20日 | — | 初代三江線の最終的な終着駅。 |
上表から自治体の代表駅ではなかったのは因原駅(邑智郡川本町因原)とこの乙原駅だけだったことがうかがえる。自治体ごとに駅を設置することと駅間距離を10km未満とすることを原則として駅の設置を進めた初代三江線であるが、もしそれを律義に守ると石見川越〜石見川本間は10.3km、石見川本〜石見簗瀬間は10.1kmとなることやある程度の人口があり、利用が見込めるという観測があったこと、そして駅の設置を求める声が高まったことから因原駅と乙原駅は設置されたのであろう。
しかし、因原駅と乙原駅は対照的な存在であった。因原駅は列車交換施設が設置されたのに対し、乙原駅は地形的な事情(線路のすぐ横が山になっていること)もあってか列車交換施設は設けられなかった(初代三江線の途中駅では唯一)し、因原駅を含めて初代三江線の駅は全て駅舎が建てられたのに乙原駅だけ駅舎は解体撤去された(注11)。自治体の代表駅ではなかったことと(地形的な事情はあったとはいえ)列車交換施設が設けられなかったことという立場の弱さを感じさせる。
乙原駅のプラットホームに通じる階段。その手前に駅舎があった。
そしてもう一つ気になったのが乙原駅の位置である。乙原駅は集落の外れの山裾にあるのである。乙原駅から乙原の集落を通り抜ける美郷町道乙原線(県道40号川本・波多線旧道)までは100mほどなのだが、何か集落の外れに押し込められた感が否めなかった。線路敷設の際に集落や農地を分断するような経路に強硬に反対する人がいて、それ故に山裾を通ることになったのだろうか。
乙原駅から撮影した乙原駅の駅前通り。集落までいくらか距離があることが分かる。
乙原駅のプラットホームに立つ。落ち葉や雑草、苔がわびしさを感じさせた。そのことを強く感じたのは(人により解釈が異なるので異を唱える方がいるかもしれないのだが)線路敷設時点から不遇なことに見舞われ続けた歴史があるからであろうか。それとも季節的なものであろうか。
落ち葉や雑草、苔が残る乙原駅のプラットホーム。写真は南西を向いて撮影しており、線路が延びていくのは江津方面となる。
駅から停留所に格下げされてしまった乙原駅ではあるが、救いは待合所にガラス窓やガラス扉が設けられ、吹きさらしの状態で列車を待たずに済むこととわずかながら利用があること(注12)であろう。
ガラス窓やガラス扉が取り付けられた乙原駅の待合所
乙原駅から竹駅へ
乙原駅の(西口)駅前広場から駅前通りを走り、突き当たりの
邑智郡美郷町乙原/乙原駅入口交差点(信号機・交差点名標なし)
で左折して美郷町道乙原線(県道40号川本・波多線旧道)に復帰する。集落の中の道であり、広くはない。
やがて民家の密度が低くなり、進行方向左側に山が迫ってくると程なくして江の川左岸土手、すなわち県道40号川本・波多線の通る土手への上り坂に差しかかる。そして突き当たりの
邑智郡美郷町乙原/角桶橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)
で左折して県道40号川本・波多線に復帰する。
邑智郡美郷町乙原/角桶橋北詰交差点(信号機・交差点名標なし)
からの県道40号川本・波多線は
邑智郡美郷町簗瀬/吾郷バイパス東口交差点(信号機・交差点名標なし)
で一旦お別れした時と同じ快適な上下2車線の道で、角桶(つのおけ)橋(全長:38.5m)と塞の神トンネル(全長:240.0m)を用いて江の川のすぐ近くまで山が迫っているところを回避している。角桶橋と塞の神トンネルは県道40号川本・波多線吾郷バイパスの西端部に位置するのだが、この辺りの県道40号川本・波多線吾郷バイパスの旧道はいくら地図を見ても見つからない。かつてのこの辺りの県道40号川本・波多線は三江線とともに江の川のすぐ近くまで山が迫っているところを通っていたのだが、人家や耕作地などが全くないことや落石や土砂崩れ、浸水の危険性が高いことから県道40号川本・波多線吾郷バイパスの開通をもって封鎖されたのであろう。この辺りの県道40号川本・波多線吾郷バイパスが開通したのは1990年代末期のことだからもう20年近い歳月が流れている。だからどこで旧道が現道に合流するのか、繁茂している草木に埋もれて判然としなくなっている。
塞の神トンネルからの下り坂を降り切ったところで県道40号川本・波多線は江の川支流の竹谷川を竹谷橋(全長:14.3m)で渡る。竹谷橋は上下2車線化されている(幅員:6.5m)のだが、実は今その東側に新しい橋が建設されている。新しい橋—ここではその名称は新竹谷橋とする—は竹谷橋が完成後半世紀以上経過し(1967年〔昭和42年〕3月完成)、老朽化していることや通っているところの土地が低く、浸水する恐れがあることが建設の動機のようであるが、完成するのは2020年代前半のことらしい。島根県の厳しい財政事情などが背景にあるのだろうが、三江線亡き後の地域の重要な幹線道路であることを考えると一日も早い整備が望まれる。
現在の竹谷橋(左)と建設中の新竹谷橋(中央)
竹谷橋を過ぎ、少し進むと、中央線がなくなり、道は狭くなる。そこから邑智郡川本町の中心部までは改良されている箇所もあるが基本的には狭い道が続く。更に竹谷橋から邑智郡美郷町・邑智郡川本町境の近く(注13)に架かる堀川橋(全長:25.2m)までは予告標識こそないのだが、時間雨量30mm、連続雨量130mmに達した場合通行止めになる異常気象時通行規制区間に指定されている。次の竹駅(邑智郡美郷町乙原)はその最中にあるのだからいかに厳しいところにあるかがうかがえる。なお、島根県ではこの辺りから邑智郡川本町の中心部の近くまで県道40号川本・波多線を江の川右岸に迂回させるバイパス(注14)を企図しており、そのことは2011年(平成23年)初めに中国新聞朝刊でも報じられたのだが、開通するのは恐らく早くても2020年代半ばのことになりそうである。
竹駅付近の県道40号川本・波多線
山と三江線・江の川に挟まれた狭い道を通って行くと 竹踏切(邑智郡美郷町乙原) に差しかかる。ここで三江線と交差し、県道40号川本・波多線は三江線と江の川の間に入る。竹駅は県道40号川本・波多線が三江線と江の川の間に入って100mほどのところの進行方向左側にある。
竹駅(たけえき)
竹駅の待合所
竹駅の駅名標
三江線活性化協議会が設置した看板。竹駅の愛称は鹿島(国譲り)となっている。
竹駅のデータ
項目 | 記事 |
---|---|
所在地 | 邑智郡美郷町乙原 |
駅名の由来 | 駅がある集落の名前。 |
開業年月日 | 1958年(昭和33年)7月14日 |
接続鉄道路線 | なし |
駅構内にあるもの | なし(プラットホームに待合所があるだけ) |
プラットホームの形式 | 単式ホームで東側を利用している。 |
起点または終点からの距離 (営業キロ) | 起点(江津)から37.6km 終点(三次)から70.5km |
前後の駅からの距離 (営業キロ) | (下り線)木路原駅から3.0km (上り線)乙原駅から2.2km |
JR三江線の列車の発車・到着時刻 (2017年〔平成29年〕3月4日現在) | (下り列車) 423D…午前7時14分(江津発三次行) 425D…午後2時12分(浜田発浜原行) 429D…午後4時37分(江津発三次行) 431D…午後6時0分(江津発浜原行) 435D…午後8時30分(江津発浜原行) (上り列車) 420D…午前6時48分(浜原発浜田行) 422D…午前8時11分(三次発浜田行) 424D…午前12時7分(三次発石見川本行) 430D…午後5時36分(浜原発江津行) 434D…午後7時31分(浜原発江津行) |
付近にある主要施設 | なし |
付近にある名所・旧跡・自然 | 江の川 明神岩 銅が丸銅山跡地 |
付近を通る国道路線 または県道路線 | 県道40号川本・波多線 |
備考 | ・三江線にある駅の中で二つしかない漢字一文字の地名を付けた駅である(もう一つは潮駅〔邑智郡美郷町潮村〕)。 ・江津本町駅(江津市江津町)・千金駅(江津市金田町)とともに初代三江線が三江北線に改称してから初めて三江北線に設置された駅である。 |
竹駅は邑智郡美郷町乙原の西部にある竹集落の外れにある駅である。竹集落に住む方々の利便性を考えれば 竹踏切 の北東に駅を置けば良いように感じるのだが、竹集落の外れに設置されたのは江の川の対岸にある邑智郡美郷町港に住む方々の利便性を考慮したからではないかと思われる。確かに竹駅のすぐ近く、すなわち 邑智郡美郷町乙原/港橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし) からは邑智郡美郷町港に通じる美郷町道竹・港線が県道40号川本・波多線から分岐しており、邑智郡美郷町港に住む方々が三江線を利用するためにこの道を通っていたことが考えられる。
竹駅のプラットホームから南西方向を望む。
右側の道、すなわち県道40号川本・波多線が最も盛り上がっているところに
邑智郡美郷町乙原/みなと橋南詰交差点(信号機・交差点名標なし)
がある。
写真右端の木や建物で見えないが、写真右端の木や建物の背後には邑智郡美郷町港に通じるみなと橋(全長:160.0m)がある。
竹駅の特色としては幹線道路、すなわち県道40号川本・波多線のすぐそばにプラットホームがあるということが挙げられる。竹駅のあるところは土地が狭く、余裕がなかったためにこのようにせざるを得なかったのであろう。
竹駅のプラットホームに通じる階段。手前の道は県道40号川本・波多線。
プラットホームと県道40号川本・波多線の間に余裕がないことが分かる。
さて、竹駅は初代三江線が三江北線に改称されてから初めて三江北線に設置された駅の一つである。同時に設置されたのが第9章で触れる江津本町駅(江津市江津町)と千金駅(江津市金田町)であるが、なぜか竹駅は江津本町・千金両駅と異なって開放式の待合所がプラットホームに設置された。江津本町・千金両駅と異なって竹駅の待合所が向き合うのは山だから問題はないだろうという判断だったのかもしれないが、雨の日や雪の日、強い風の日、寒い日に列車を待つのは辛いものがあったのではないのだろうか。
開放式になっている竹駅の待合所
そんな竹駅の待合所の壁にはこんな貼り紙があった。貼られてからかなり経っているらしく傷みや滲みが見えるのだが、竹駅にちなんで「竹」という字が入った四字熟語をいくつも書いたものであった。
「竹」という字が入った四字熟語が書かれた紙
左側の紙に書かれているのは「稲麻竹葦」「花意竹情」「哀糸豪竹」「茂林脩竹」
右側の紙に書かれているのは「天高竹夢」「竹苑椒庭」「竹頭木屑」「胸中成竹」
あまり知られていない四字熟語ばかりであるが、こういう四字熟語もあるものだなと感じたものである。
この竹駅をもって長かった邑智郡美郷町の旅は終わりとなる。第7章では邑智郡川本町、そして三江線の起点がある江津市に入っていくことになる。
注釈コーナー
注1:歩道併設の鉄橋は珍しく、私が知る限りでは他に大阪府にあったJR城東貨物線淀川橋梁(旅客線、すなわちJRおおさか東線転用に伴う複線化工事のため2013年〔平成25年〕10月31日をもって歩道は閉鎖されたため現在は通れない)と広島県にある広島電鉄本線広電天満橋、徳島県にあるJR牟岐線那賀川鉄橋(歩道部は県道141号大林・那賀川・阿南線に指定されている。無論自動車の通行はできない)ぐらいしかない(他にもまだあるのかもしれないが…)。いずれも住民の利便を図るために鉄橋に歩道が併設されたものである。
注2:流出前の第一江川橋梁は全長約169mで、橋脚が五つあった。現在の第一江川橋梁は全長約217mで、橋脚は二つしかない。
注3:野井仮乗降場はいつ設置され、いつ廃止されたかがはっきりしていない(1972年〔昭和47年〕秋に設置され、1973年〔昭和48年〕秋に廃止されたらしい)。野井仮乗降場と邑智郡邑智町中心部を結ぶ代行渡船が設定された時に設置され、石見簗瀬〜浜原間に鉄道代行バスが設定された時に廃止されたらしいのだが、それが書籍などによりまちまちになっているのである(当時の島根新聞→山陰中央新報などにそういう記事はないのだろうか…)。なお、設置場所は粕淵駅から0.9km、明塚駅から2.2kmの地点であり、
第一野井踏切
の少し北側だったことははっきりしている。
※「島根新聞→山陰中央新報」と書いたのは野井仮乗降場が存在した時期、すなわち1973年(昭和48年)3月25日に社名を島根新聞社から山陰中央新報社(松江市殿町)に変更し、併せて題字も「島根新聞」から「山陰中央新報」に変更したからである。
注4:三江線での列車番号。山陰本線では上り列車になるため浜田〜江津間では376Dという列車番号になっている。
注5:島根県では他に大田市温泉津(ゆのつ)地区でも県道標識の意匠を用いた市道標識が見られる。
注6:2011〜2015年度(平成23〜27年度)について見ると明塚駅の一日の平均乗車人数は2011年度(平成23年度)と2012年度(平成24年度)はそれぞれ0人、2013年度(平成25年度)は1人、2014年度(平成26年度)と2015年度(平成27年度)はそれぞれ2人となっている。
注7:市制町村制施行後邑智郡美郷町滝原が属した自治体は邑智郡浜原村(1889〜1955)→邑智郡邑智町(1955〜2004)→邑智郡美郷町(2004〜)であるが邑智郡浜原村の役場は浜原に、邑智郡邑智町と邑智郡美郷町の役場は粕渕にそれぞれ設置されており、滝原に設置されたことはない。
また、邑智郡美郷町滝原を通る国道路線または県道路線はない。
注8:普通自動車同士のすれ違いには難渋しないくらいの幅があるが中央線がない状態を指す。ちなみに島根県公式サイトで閲覧できる道路台帳によると吾郷大橋の道幅は5.0mである。
注9:本文をご覧になっていれば気付いたかもしれないのだが、島根県では駐在所は「○○警察署××駐在所」という名称を使っている。ここでは警察官が駐在するところであることを明示するため「警察官駐在所」と書いている。
※ちなみに中国地方では鳥取県と岡山県が島根県と同じ「○○警察署××駐在所」という名称を、広島県と山口県が「○○警察署××警察官駐在所」という名称をそれぞれ使用している。
注10:上り方向への一方通行規制により下り方向での走破ができない国道路線や都道府県道路線は他にも多数存在する。中国地方における有名な例としては倉敷市内の国道429号線がある。
注11:「JR・私鉄全線各駅停車第7巻 北陸・山陰820駅」(1993年〔平成5年〕小学館〔千代田区一ツ橋二丁目〕刊)では乙原駅にはかつては駅舎があったが取り払われたことが記されている。時期ははっきりしないが恐らく昭和時代末期ではないのだろうか。
注12:「島根県統計書」によると最近の乙原駅の一日の平均乗車人数は3〜5人(2011年度〔平成23年度〕・2013年度〔平成25年度〕・2014年度〔平成26年度〕…3人、2012年度〔平成24年度〕…5人、2015年度〔平成27年度〕…4人)となっている。
注13:堀川橋付近の邑智郡美郷町と邑智郡川本町の境は堀川橋の架かる江の川支流の田水(でんすい)川を通っていない。堀川橋の数十m東側を通っている。しかし、島根県は堀川橋のたもとに境界標識を設置しているため堀川橋が邑智郡美郷町と邑智郡川本町の境にあると考えている人が少なくない。
堀川橋のたもとにある邑智郡川本町の境界標識。本来は数十m東方に設置されるべきものである。
注14:このバイパス—本サイトでは川本バイパスと称するものとする—は完成すると二度も江の川を渡ることになり、結果県道40号川本・波多線は20kmほどの区間で四度も江の川を渡ることになる。かなりの建設費がかかることは火を見るより明らかであり、中には邑智郡川本町谷戸(たんど)〜邑智郡美郷町吾郷間の江の川右岸に沿う道路を改良してそれを県道40号川本・波多線とし、一切江の川を渡らないようにしたほうが良いのでは…ということを言う方もいる。しかし、それは顧みられなかった。江の川右岸への経路変更は江の川左岸にある人口集積地を無視する格好になることや改めて江の川左岸に県道路線を発足させ、整備しなければならなくなることなどが主たる理由である。
一方、川本バイパスについて二度も江の川を渡る経路をとることになった背景には邑智郡川本町・邑智郡美郷町境付近の地形が厳しいことが考えられる。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |