雑草鉄路
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〜 雑 草 鉄 路 〜

鉄道旅行について筆者がとうとうと語る自己満足のコーナー


戸狩スキー旅行(1985年3月11〜16日)

 高校を卒業する3月に、男7人でスキー旅行に出掛けました。
 普通、スキーツアーといえば、バスかなんかで行くのが常識でしょうが、この時の旅行幹事は 私。で、当然のように、信州までの往復は鉄道を利用、と相成ったわけです。
 7人もいれば、誰かが「えー、電車ァ?バスにしようぜ、バスに」と言い出しても 良さそうなものなのですが、今冷静になって考えてみると、どうしてそうしたクレームが 誰からも出なかったのか、実に不思議なのです。「ふーん、鉄道ね。で、何時に集合?」みたいな、 何となくまとまってしまった、という記憶があるのです。
 推察すれば、みんな受験に 必死になっていて、私ひとりが旅行の計画にウキウキしてて、すべて私に任せきりに なっていた、ということなのでしょうか。 ま、この時行った7人の殆どが、結局は浪人の憂き目に会うわけなのですが。

 さて、この時の旅行記も、18歳当時の私は詳細に書き残しています。なんとA5ノート にたっぷり40ページ。今から思えば何てことない出来事でも、当時は全く楽しかった ものなのです。青春真っ只中の18歳。二度と戻れぬ、感性豊かな時代です。
 ここでは40ページのうち、鉄道と関係のないスキー場でのエピソードはごっそり省き、 往復の鉄道乗車の部分に絞って抜粋していきます。
 メンバーは、既に何度となく 六甲山人工スキー場に共に出かけていた悪友のIBA、高倍率をものともせずに、見事 航空大学に合格したタカオ、「ヒュッシュ、ヒュッシュ」の掛け声の時「ヒュッシュ」、プロレス 好きの松本、クラス一のしんひゅく男の奥田、後に北海道でさんざん世話になることになる たくや、そして私と、一くせも二くせもある奴がずらりと7人揃っていたのでした。

文章は1985年作品

●往路

 大阪駅の11番ホームに上がると、急行「銀河」が出発を数分後に控えて、待機していた。 時刻は21時10分過ぎ。我々の乗る急行「ちくま3号」の出発まで、あと一時間以上もある。 「銀河」が出た後は新潟行き急行「きたぐに」が11番線から出て、そのあとようやく 「ちくま3号」の発車という運びになる訳である。
 僕らはひとまず、ちくま3号の自由席を待つ人々の行列に並んだ。行列といっても、僕らの 前には5、6人しかいないから、多分楽に席を取れるだろう。もっとも、その為にわざわざ 一時間も前に来たのだから、当然といえば当然だが…。
 列に入って荷物を置いたら、もう安心だ。IBAとタカオとたくやは、夜の大阪の街を 見てくると言って駅を出て行った。僕も行こうかと思ったが、訳あって思いとどまった。
 やがて急行「銀河」が出発し、代わって急行「きたぐに」が11番線に入ってきた。
 これこそが、僕がIBAらと大阪の夜に行くのをやめた原因であった。「きたぐに」が 客車列車14系でいるのもあと数日、しっかりと見届けておこうと思ったのである。
 ちなみに、この出発の日が3月11日、帰ってくるのが3月16日の朝、そして「きたぐに」が 客車から電車列車に変わる『60.3ダイヤ改正』が3月14日である。つまり、僕らの旅行中 に全国ダイヤ改正が行われる訳で、こんなことも初めてである。
 僕は14系「きたぐに」を、隅から隅まで見回した。B寝台に寝てみてはふむふむ、A寝台 のベッドを窓から覗いてはうーん、自由席のイスをリクライニングさせてはやれやれ。しかし 今日になって初めて14系の座席に座ったが、なるほど『簡易』リクライニングがすぐ自然に 戻ってしまう感じで、このリクライニングは役に立たんなという印象だった。

 やがて「きたぐに」が22時10分に発車、少し経って急行「ちくま3号」が入線してきた。 車両は12系で、14系の「きたぐに」に比べると、やはり少々見劣りする。
 ドアが開いて、僕らは2つのボックスを横に2つ、取る事が出来た。進行方向に向かって 右側に、たくやと奥田と僕、左側にはIBAとヒュッシュとタカオと松本が座った。 席さえ取ればやれやれ、あとは長野に着くのを待つのみである。
 22時20分、ちくま3号発車。僕自身、夜行列車に乗るのは58年8月13日の急行「日南」 号以来、実に1年7ヶ月振りである。その為か、胸は高鳴る。
 少し経って車掌さんが検札に来た。僕らの使う信州ワイド周遊券を見て、
「スキーか。やっぱり、周遊券の方が安うなるんかいなあ」
「ええ。それに、これなら邪魔くさくなくてええしね」
「そやなあ。急行券もいらんしなあ」
と言って通って行った。ちなみに、周遊券だと10500円。普通切符だと神戸=戸狩間、換算 キロ516.1キロの学割5440円で往復10880円、急行料金が行き帰りで2400 円だから計13280円と、その差2780円もの差がついて明らかに周遊券の方が安い。 (筆者注・今では、このワイド周遊券は廃止されてしまっている。“使える”トクトクきっぷ だったのに…。)
 車内は大阪で既に殆ど埋まったようで、新大阪、京都でも客を乗せると、自由席は満員になった。 しかし長距離夜行列車では客の乗り降りは指して気にかからない。
 ヒュッシュやタカオらが、缶ビールを開けてアルコールを補給し始めると、奥田を除く全員が ビールの宴会を始める。
 明日着くとすぐにスキーを始めるのだから汽車内では出来るだけ 眠ったほうがいい、と前もってIBAらと話していたが、ビールが入ってもみんな眠くなる 気配は全くない。向こうのボックスはアルコールで気分が盛り上がったのか、世間話に花が 咲いている。僕らのボックスでも、3人でしりとりを始める。
 やがて時刻表では通過扱いになっている名古屋駅に「ちくま3号」は停車。たくやらが不思議がるので 運転停車(旅客扱いをしていない、業務上の停車)について説明をした。名古屋を出たあたりから 車内は減光して蛍光灯の明るさが半分になった。いよいよ「ちくま3号」は真の『夜行』となり 眠りの態勢になった。
 向こうのボックスの奴らはまだ眠れない、と言ってぺちゃくちゃと 喋っていたが、こちら側ボックスのたくやと奥田と僕は明日に備えて眠ることにした。たくやと 協議の結果、寝ずに起きておくのは帰りにして今回はとにかく睡眠をとろう、という事になった のである。
 横になれるのは横に人間のいない奥田のみで、たくやと僕は座ったままの状態で 眠らなくてはならない。その為眠ろうとしてもなかなか寝つけず、眼を開けたり閉じたり、体の 向きを変えたりでせわしない。BGMには、たくやの持ってきたカセットから佐野元春の音楽が流れ る。時折向こうのボックスから、ヒュッシュや松本の話す声が聞こえる。あいつら、このまま 寝んつもりやろか?
 前でひとりごろんと横になっていた奥田がトイレに行く、そのすきを 狙って僕が寝転んだ。ここは誰にも渡さんぞ、と思っていたら奥田がトイレから帰ってきた。 ちぇっ、仕方ねえなと起きようとした時、奥田は寝ぼけていたのか、僕がさっきまで座っていた場所に 腰掛けるとそのまま寝てしまった。しめしめ、これで文句言われずに横になれるぞ…


 目覚めると、いの一番に「ほんまに、よう寝る奴っちゃなあ」と言って笑うのが聞こえた。
 次ぎにIBAが「大柿はさすが旅慣れとるなァ、こんな場所でも寝られるんやからなあ」などと 言うのが聞こえた。
 起き上がって窓の外を見ると、辺り一面雪景色で、雪が朝日にキラキラと 輝いている。ああ、ここはもう信州なんやなあ…。白銀の車窓を見ていると、いつもの旅の時 よりも一層、神戸を遠く離れた“旅”というものの実感が湧いてくる。実際、白銀の土地を 汽車で旅行するなんて事は、僕自身、初めての事なのである。
 タカオらが「大柿、たくやの足元に頭突っ込んで寝とったで」と言う。確かに、一時そのような 格好で眠ろうとしていたような…。
 急行「ちくま3号」はやがて、6時54分、定刻に 長野へ到着した。ここからは飯山線に乗り換えて、ローカル線を一路戸狩へと向かうわけである。
 長野で30分程の余裕があったので、みんな朝食をめいめい取り込んだ。僕とたくやとIBAは サンドイッチに熱々の缶コーヒー。残りの連中は駅そばをすする。信州そばの本場であるから、 きっと美味であろう。もっとも松本とヒュッシュは、後日、恐ろしい信州そばを口にすることに なるのだが…。
 7時21分、4両連結のディーゼルカーは長野を発車、豊野で信越線と 分岐して雪深い飯山線へと入ってゆく。
 飯山線は綺麗な雪の風景を展開して、僕とIBAと たくやは車窓に魅入った。のどかな田園風景は雪をかぶって、その雪解けの水は信濃川を湛えて いる。その為か、信濃川の水は茶色に濁っている。しかし、周りの町や田畑はどこまでも白い。 その背景に雄大に広がっている山脈は、雪が山の容形をくっきり浮かび上がらせて、この上なく 美しい。線路際の道を、地元の小学生らが通学してゆく。
 IBAは田んぼの稲の切り株にだけ 雪が積もってできるイボイボ状の水田を見ると異様に気色悪がっていた。全く変わった奴である。
 飯山線下り131D列車は8時27分、定刻に戸狩駅に到着、神戸からの11時間半の往路の旅 に終止符を打った。




 こうして戸狩スキー場に着いた我々は、4日間にわたってスキーに興じました。もちろん、 あれやこれやと楽しいエピソードなどもあったのですが、それらはごっそり省いて…
 スキーをたっぷり堪能したあと、戸狩スキー場を後にして、1985年3月15日、 列車で神戸へと戻る復路から、旅行記の再開です。


文章は1985年作品

●復路

 戸狩発長野行き列車は、19時55分発が最終だ。それまでにまだ時間があったので、駅前の 喫茶店に入って夕食を取る。
 その茶店の中にはなんと、あの幻の、神戸ではとっくの昔に 消滅してしまっている、インベーダーゲームがあるではないか。
 松本らが喜んで 爆笑したのは言うまでもない。たくやに至っては、
「こんなゲームで100円も取るとは、 ええ根性しとるやないけ」とまで言っていた。しかし結局は、みな昔を懐かしんで幻の インベーダーを楽しんでいた。
 そのインベーダーのある茶店を出て、すぐ隣のみやげ屋で土産を買っている内に、いよいよ 発車時間が近づいていた。
 一同、荷物を抱えて戸狩駅ホームに入る。山のふもとからは、 とても明るい光が見えている。白色にオレンジがかかった、とても強い光。
「あれはゲレンデの光やな」
と誰かが言った。あそこの下では、まだ大勢滑っとるんや ろなあ…と思うと、4日間の出来事があれよ、あれよと脳裏を駆け巡って行く。
 やがて2両連結のDC(ディーゼルカー)が到着、僕らを乗せて、ゆっくりと発車していった 。戸狩駅員の姿が、徐々に遠ざかって行く。戸狩よ、さようなら…。
 長野までの車内では、4日間の思い出話に花が咲いた。
「大柿の“土産の見本ばかり集め”と“スキー板が勝手に滑って行った”のは、ほんまに おもろかったなあ」
「いやあ、ヒュッシュの“腰振りダンス”もなかなかやったで」
「奥田の『やりたい!』攻撃には、全く悩まされたなあ」
と、笑いが絶えなかった が、現地で大学不合格の知らせを受けたたくやだけは、浪人の話を持ち出しては暗いセリフ を吐いていた。
 列車は21時07分、長野に到着した。しかしここから先は、23時 26分発の大阪行き急行「ちくま2号」に乗るまで列車はない。とにかく駅を出て、2 時間余りをどこかれつぶすことにしようという事になった。
 大きく重い荷物は 駅のホームに置き、「ほんまに大丈夫かなあ」という不安を抱きつつ、我々は手ぶらで 長野駅の改札を出た。
 駅前の「善光寺通り」を右に曲がってしばらく進むと、まだ 営業中のゲームセンターが一軒あった。「しゃあない、ここで暇をつぶすか」と言った のは、やはりゲーム好きのIBAだった。結局そこで1時間余り時間を潰して我々は ゲームセンターを後にした。それにしても、今回の旅行中もやはり、我々からゲームを 切り離す事はできなかったなあ。
 そこから『娯楽街』という、何やらなまめかしい 雰囲気のネオンや看板が並ぶ通りを経由して長野駅前へ戻った。
 松本とヒュッシュ が、駅前の屋台のそば屋を見つけた。
「どうせ汽車の中では、食べ物は売って ないのやろ」
「そやなあ、行きもなかったし。晩になったら腹減るから、今のうちに 食うとくことにしょうか」
という訳で、全員が『信州そば』と書かれた赤ちょうちん の屋台に入っていった。
「へい、らっしゃい」
おっさんの威勢良い声が響く。 「天ぷらうどん。」松本とヒュッシュが即座に答える。残りの面々も、よし俺も食おう、 何を頼もうかな、という体勢にまで入っていた。しかし何故か、値段の表示がない。
 その時だった。まだ注文していない残りの誰かが尋ねた。「いくらですか」
すると、店のおっさんは何食わぬ顔で言った…「600円です」
 次の瞬間、タカオ、たくや、IBA、そして僕の4人は、すーっとのれんをくぐって 屋台の外へ顔を出した。4人の眼が合った。そして当然のごとく、屋台を離れて行った… 既にうどんを注文してしまっていて、出るに出られぬ松本とヒュッシュを残して!
 数分後、二人は屋台を出てきた。僕らが「どや、600円するうどんはうまかったか?」 すると二人は、口を揃えてこう言った。
「めっちゃ気分害したわ!」
我々は一斉に笑った。しかし二人はまだ「気分を害し て」いた。
「何であんなうどんが600円もするねん、ダボ〜!」
「すぐ前に派出所があったのになあ…ポリ公、あんな悪徳商法を黙って見過ごしとるんかいな」
「実は手ェ組んどるんちゃうか。600円のうち200円くらいポリ公の手に 回ってたりして」
等など、二人はずっとぼやきまくっていた。(筆者注・物価および 我々の金銭感覚は、1985年当時のものである。)
 ヒュッシュはその後さらに、駅のキヨスクで本を 立ち読みして、店員に「兄ちゃん、買わんのだったら読まないでちょうだい」と文句を 言われ、
「ほんまに泣きっ面にハチやで」
と、もはや笑うしかないといった 感じであった。
 そうこうするうちに、「ちくま2号」は入線、我々は改札すると同時に ホームまで駆け出し、自由席の2ボックスを何とか取った。

 「ちくま2号」は、あと数分で長野を発車する。
この期におよんで、ヒュッシュと松本は、いまだにあの“600円そば”の事で 「気分害したわー」を連発している。たくやは、行きの「ちくま3号」と同じように、 佐野元春のテープを流し出した。タカオはまた、何かぼやいている。
 僕はその頃、IBAを時刻表で遊んでいた。一番長い駅名は?上から読んでも下から読んでも 同じ駅名は?等々。
 そして僕は既に、心の中である決意を固めていた。この帰りの 「ちくま2号」が翌朝8時27分に大阪に着くまでの9時間1分、絶対に寝ないでやろうと もくろんだのである。僕の、今までの不眠乗車の記録は、あの「大垣発東京行き」鈍行夜行 340Mの410.0キロ、8時間15分である。今夜、その記録を塗り替えてやろうと思った のである。

 23時26分、「ちくま2号」はいよいよ長野を発車した。これでとうとう、 この旅行のスケジュールの全てを消化した。「ちくま2号」が大阪に着く頃には、この 5泊6日の出来事が、全て思い出というものに変わっている事だろう。
 列車が発車するかしないかのうちに、松本とヒュッシュは早くも眠りに入っていた。 600円そばの、ぼやき疲れか?1日目の夕方に、“眼を開けたまま寝ていた”ヒュッシュが、 今は疲れ切って、完璧に熟睡している。
 たくやが、この4日間を懐かしむように言い出した。
「この旅行中に起こった『事件』を集めよか。まず大柿の『土産見本集め事件』やろ、 『スキー片っぽ滑って行く事件』…」
「俺ばっかりやないか。何ちゅうてもヒュッシュの 『腰振りダンス事件』やで。あっ、そうそう、今あったばっかりの『信州そば600円事件』 。奥田の『やりたい連発事件』もひんしゅくやったで」
「IBAの事件が意外に 少なかったなあ。あかんで、やっぱりIBAが事件を作らな…」
たくやがそう言うと、 IBAは「ふふ、当然当然!」と笑う。それにしても、2年の修学旅行時のIBAは確かに 素晴らしい活躍だった。『黒コート事件』に始まり、『ちょっと怒られに行ってくるわ事件』、 『壁に穴あり事件』、『お前はメガネをしたまま寝るのか事件』等々、 当時の話題をかっさらっていったものだった。それが今回は事件らしきものがなかったのだから、 物足りないといえば物足りない。
 そのIBAは、僕が車窓に目をやっていると、
「大柿はほんまに面白そうに外を見るなあ。こんな真っ暗の景色を見とって、面白いか? どういう風に見たら面白いんか、教えてくれへんか」
と訊いてきた。これはIBAを 汽車旅の世界に引き込むチャンス、と思って出来る限りの答えをしたが、恐らくIBAには、 その意味はピンと来なかっただろう。こればかりは、自分で自分なりの“面白さ”を見つけ 出さないと、いくら口で説明しても無理だ。汽車旅というのは、奥が深いのである。

 そうこうしている内にタカオも眠ってしまい、暫くたくやとIBAと3人でだべっていたが、 やがてこの二人も眠りに落ちた。結局、今日は寝えへんぞと言ってたたくやも、睡魔には 負けてしまった。
 みんなは、松本駅で19分間停車した時に起きて、おやつを買って 食べたのだが、午前1時07分、松本を発車して暫くすると、全員また眠りに入った。 勿論、寝まいと決心した僕はずっと車内や車窓を眺めている。
 ちくま2号はなおも 雪の信州路を走っていたが、どこら辺だっただろうか、トンネルに入って抜け出た時には 、外の景色に既に雪は無かった。ああ、とうとう雪の国にも別れを告げてしまったか…。

 午前2時21分、ちくま2号は木曽福島に到着、ここでは25分の中休止である。僕は紙を 取り出してホームをずっと歩き、駅のスタンプを押して来た。この旅行の間、カメラは持ってきたが 写真は1枚も撮らなかったので、何か記念になるものを残しておこうと思ったのである。
 スタンプを取って座席に戻ると、タカオらも起きて、トイレに行ったりしている。しかし、 みんなの顔は眠たそうだ。この間もずっと、松本は熟睡していた。
 やがて2時46分にちくま2号は発車、タカオたちもみんな再び深い眠りに落ちた。もう みんなは、ぐっすり眠っており、タカオやたくやらが時々起きては「大柿、まだ起きとんのか」 と言ってはまた眠るのだった。
 僕はしかし、なおもこの「旅」を続けている。みんなの 寝顔を見ることで、12系客車の「ちくま2号」の車内を見渡すことで…今もなお、旅を 実感していた。
 その間、色々な事が頭に浮かんでは、また次の事が頭に浮かび、まるで 走馬燈のようにくるくると、様々な思いが脳裏をよぎってゆく。みんなでスキーに行こう、 と言い出した時の事や、スキー場のカタログばかり眺めては笑いを誘っていた時の事、IBA に民宿から案内状が届いた時の事、キップを買ってウエアを調達し、いよいよあと数日で 出発となった日の、胸の高鳴り…。思い出が次々に、流れては消えて行く。

 ちくま2号は木曽福島を出た後、中津川・多治見 と運転停車をして名古屋へと向かう。みんなはまだ、夢の中だ。

 外の街の灯が次第に明るくなって、ネオンの灯がちらほらと見えるようになり、幾つもの レールが並行して走るようになった頃、「ちくま2号」は名古屋に到着した。時に午前5時05分。
みんなも眠い眼をこすって、目を覚まし出した。「あれ、ここはどこや」「名古屋か」 「あと三時間半か…」
 名古屋を出たと同時に、僕も耐え切れなくなり、遂に眠ってしまった。 不眠乗車記録は達成できなかった。しかし安堵の睡眠の中でも、やはり体は“旅”を感じていた。 そうだ、せっかくの夜汽車なのだから、眠らなければそれを体験したとはいえない…そう思ったのは、 1年7ヶ月前の急行「日南」での事だった。
 そして列車の中に朝日が差し込み、街の中でラッシュの人並みが見られるようになった頃、僕らは 半分ねぼけまなこで起き、おのおのの荷物を整理した。もう終着・大阪は目の前だった。 8時27分、「ちくま2号」は無事に大阪に到着した。
「ああ、終わったなあ…」
誰かが言った。
 僕らは三ノ宮に帰ってウエアを返却した後、それぞれの我が家へ帰っていった。 帰りの神鉄の中で僕が
「あ〜あ、今日からまた平凡な日々になるんやなあ」
と言うと、 たくやは
「いや、受験地獄の日々やで」
と言った。やはりたくやにとって、不合格は 大きなショックだったようだ。

 たくやが最後に言った言葉は本当に適切だった。今、 タカオを除く6人は全て、予備校でまさに『受験地獄』の日々を送っている。
 またそろそろ「来年の春には、どこかへ…」などという言葉がぽつぽつと出始めている 今日この頃である。

(完)



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