北海道旅行と「北斗星」
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



北海道旅行と「北斗星」


1992年8月5日〜15日





 初めて北海道を訪れた 「86.7 北海道旅行」 以来、すっかり 北海道に魅せられてしまった私は、その後も何度か北海道を訪れます。

 「86.7」でご紹介した 通り、当時札幌には高校時代の友人、IBAとたくやが下宿していました。私は、彼らの迷惑も 省みず、彼らの部屋に上がり込んでは北海道旅行の基点としていたのです。

 とはいえ、「86.7」の後に敢行した北海道旅行は、1989年2月と1990年3月の、 いずれも冬の旅。道内の移動は、たくやの運転する車を主役に、スキーをしたり流氷を追いかけたりと、 もはや旅のスタイルは「鉄道旅行」と 言えるものではありませんでした。


 当時、もう私の中では、「鉄道旅行は卒業した」という認識でいました。そう転意させた最大の要因 は、国鉄の民営分割化でした。国鉄時代のローカル線に乗ったときは、 ガラガラの古い車両がゴトゴトと走るさまが、私の中に何ともいえない “旅情”を強く訴えかけたものでした。採算とか輸送効率とかいったものを超越してしまっていた 何かに、私は大いなる魅力を感じていたのでした。1987年にJRが誕生し、あちこちの路線に どんどん新しい車両が投じられるニュースを見るにつけ、逆に私の鉄道への思いは冷めていきました。

 そんなわけで、人生において最も時間が豊富にあったはずの大学4年間で、私はついにただの一度も 「鉄道旅行」に出かけることはありませんでした。


 時間は流れて1992年。大学を卒業して、就職3年目の夏。個人的な事情でやや長い“夏休み”を 取ることになった私は、久しぶりに北海道を旅しようと思い立ちました。もうIBAは就職して 東京に移っていましたが、たくやはまだ大学院生として札幌に在住のまま。「これが最後のチャンス」 とばかりに、IBAを誘って北海道へと飛んだのでした。

 以下は、このときの私の旅行スケジュールです。

1日目(8月5日) 単独行動「一人旅編」。上野から夜行急行「八甲田」で北上 (列車泊)
2日目(6日) 函館→洞爺湖、昭和新山→夜行急行「利尻」で稚内へ (列車泊)
3日目(7日) 稚内→サロベツ原野→利尻島→夜行急行「利尻」で札幌へ (列車泊)
4日目(8日) 南大夕張再訪→札幌でIBA、たくやと合流 (たくや下宿泊)
5日目(9日) ここから「3人旅編」始まる。車で小樽→積丹岬→札幌 (たくや下宿泊)
6日目(10日) 車で札幌→富良野→足寄駅を経由しオンネトー (キャンプ泊)
7日目(11日) オンネトー→屈斜路湖、摩周湖→開陽台 (キャンプ泊)
8日目(12日) トドワラ→カムイワッカ→小清水原生花園 (キャンプ泊)
9日目(13日) 網走→層雲峡→旭岳温泉→札幌 (たくや下宿泊)
10日目(14日) 夕張石炭歴史村→IBAと2人で寝台特急「北斗星」にて帰京 (列車泊)
11日目(15日) 上野到着

 観光とドライブの旅と鉄道旅行が微妙にミックスされた、何とも形容しがたいスケジュール。 一人旅と仲間旅が混在するのは「86.7」と同じパターンです。上記スケジュール中、赤字で 示したのが「鉄道旅行」の領域といえる部分。ここでは11日間の旅程のうち、「鉄道旅行」の部分だけに絞り込んで 旅行記を簡単に綴っていこうと思います。


 ◎4日目 南大夕張再訪

 「86.7」の北海道旅行で、最も強い印象を私に残したのは南大夕張でした。私にとっての最後の旧型客車列車、 三菱石炭鉱業線の乗車。その瞬間だけ、私はタイムマシンで、ノスタルジック・ワールドへと旅立っていました。 限りないファンタジックな世界へと私は導かれていました。

 忘れられない思い出の地、南大夕張。しかし、もうそこには鉄道は走っていませんでした。 南大夕張炭鉱の廃山とともに、三菱石炭鉱業線も廃止になったのでした。1987年7月、私が訪れてから ちょうど1年が経ったときでした。

 そして1992年8月、最初の訪問から6年後の夏に、ふたたび南大夕張を訪れたのでした。

 私は、南大夕張のホームに静かに佇むディーゼル機関車と懐かしい旧型客車に身を寄せながら、 風に揺れる夏草の墓標を眺めていました。
 辺りはとても静かでした。周囲には誰もいませんでした。 廃止されて5年が経つ南大夕張の駅は、荒れ放題に荒れていました。

 最後にその任務を静かに終えてから5年ものあいだ放置されたままの列車は、 窓が割れ、塗装が剥がれ、木の床は抜け、あちこちに蜘蛛の巣が張りめぐらされていました。

荒れ果てた旧・南大夕張駅に放置されたままの 車両懐かしい三菱石炭鉱業線の客車内



 かつて駅舎があった高台は、建物が撤去され、雑草が繁る小丘になっていました。温泉ホテルは崩壊し、瓦礫だけが残されていました。

 ガタゴトと音をたてながら石炭を集積していた場所には、なに一つ残されることなく 夏草だけが風に揺れる墓標となって生い茂っていました。

 町には、人が住んでいるのかいないのか分からない炭住がぽつりぽつりと、所在なげに立っていました。 もう夕張の町のどこを歩いても、石炭の匂いはまったく残っていませんでした。

 南大夕張の駅に置いていかれた列車は、石炭の歴史とともに、取り残され、見捨てられ、 忘れ去られた過去の遺物となって、痛んだ身をそっと横たえていました。

道路越しに旧・南大夕張駅と車両群を眺める



  ◎6日目 足寄駅

 上記スケジュールの通り、この旅行で4日目までは私だけの「一人旅」。5日目からは、IBAと たくやを交えての「3人旅」です。

 6日目に入っていよいよ、たくやの車で札幌を離れ、一路道央を目指してのドライブが始まりました。 富良野めぐりと狩勝峠ごえを挟み、道すがら足寄駅に立ち寄りました。そのときに撮ったのが、下の 写真です。

鉄道には乗っていないが…足寄駅前で記念撮影



  ◎10〜11日目 寝台特急「北斗星」

 楽しいドライブの旅も終盤に差し掛かった9日目。そろそろ北海道からの帰り道のことが心配になって きました。

 当初の予定では、特急料金をケチって、札幌から夜行急行「はまなす」で青森まで戻り(当時はまだ 「北海道ワイド周遊券」だったので、急行自由席はタダで乗れたのです)、青森から東京までは 延々と鈍行列車で帰っていくという、目も眩むようなプランを立てていたのでした。

 長旅に疲れきっていたIBAが、「鈍行はちょっとなあ…。北斗星で帰られへんか」と切り出し、 旭川駅のみどりの窓口で問い合わせたところ、「A個室寝台なら空いてる」とのこと。人気の北斗星で、 しかも夏休み。思いもよらぬ事態でした。直前になって、誰かキャンセルしたのか?

 ともかく、疲労から思考回路が混乱し始めていた我々は、二つ返事でA個室寝台を確保。貧乏 各駅停車のはずが、なぜか超リッチ「北斗星」A個室寝台の旅と相成ったのでした。

「北斗星」個室A寝台の部屋で居心地がよすぎて熟睡してしまった



 何を隠そう、私はこれまでさんざん鉄道旅行に繰り出していながら、毎度々々貧乏旅行に 徹していたため、寝台列車などというものに乗ったことがなかったのです。

 人生初めての寝台列車の旅が、「北斗星」個室A寝台とは…。しかし、個室車内で 取った夕食が「カップラーメン」だったというのは、我々の面目躍如といったところでしょうか。

 夕食の後は車内を散歩し、意外と空いていた「B個室寝台」をはじめ、各レベルの部屋をつぶさに 観察して回りました。

 部屋に戻り、個室常備のビデオで「寅さん」を見ているうちに、あまりの寝心地のよさから 途中で熟睡していました。ふと気がつくと、もう列車は青函トンネルの中。 可能な限り起きて、「北斗星」の旅を満喫しようと思っていたのに、 勿体無いことこの上ない。

「北斗星」の通路で旅情に浸る筆者「北斗星」のサロンカーで佇むIBA



 朝になり、「サロンカー」でくつろいでいるうちに、やがて列車は上野駅へ。

 IBAと一緒に回った数ある旅行の中でも、最もリッチな(らしくない?)旅だった「北斗星」。 「さすがに寝心地が良すぎるぐらい良かったなあ」と私の感想。「A寝台のくせして、結構 狭かったなあ」というのがIBAの感想でした。

 次回は家族と一緒に、最新札幌行き寝台特急「カシオペア」に乗ってみたいものです。


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