私と橘宣行との出会い
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私とタチバナとの出会い

パパガー特別寄稿


  ●奇快な新入部員

 私が大学の野球同好会に入部して、一ヶ月以上経った5月のことでした。
 もう試合にもいくつか出て、ようやくチームにも慣れてきたころ、阪神帽 を被った、見るからにやんちゃ坊主がそのまま大きくなった、といった感じの 新入部員が入ってきました。
 そいつは、その日初めて練習に参加したにも かかわらず、もう何年もチームに居座っているかのような顔をして、「ヘイヘ〜イ。 バッチ来んかいバッチ〜。」とダミ声を張り上げていました。バッターが打った 打球に「ハッ!」とか「ヤッ!」とか言ってゴロゴロとボールに飛びつくのです が、そのグローブには一つも球が入っていません。「何やあいつ、変な奴っちゃ なあ」私は、同期の部員とふたりで、ゲラゲラ笑いながらその新入部員のこと を眺めていました。
 その新入部員こそが、後にチームの空気を180度 変えることになる橘宣行その人であったことは、言うまでもあり ません。
 しかしながら、部員みんなが新入部員・橘をすぐに受け入れていった かというと、そうではありませんでした。当時の我々は、非常に真面目で 静かな、本格野球同好会でした。私が入部してしばらくは、練習や試合で 笑い声を聞いたことすら、あまり記憶にありませんでした。非常に黙々と、真摯に 野球に取り組んでいたのです。
 そんな真面目部員ばかりのところへ、橘の 存在は明らかに異質なものでした。練習が終わった着替えの時に、いきなり 「お前らチ○ポでかいか。俺のはでかいぞ。ホレ。」・・頼むから寄って こんといてくれ、という感じでした。試合中も、そのヤジの強烈なことといった ら、「ヘイヘーイ。ピッチャー、救急車が待っとるで。ピーポピーポ。」相手 がフライを取ろうとする瞬間に、「プ〜。」・・・殆ど、三角ベースをする小学生の ガキ同然でした。試合にでても、そのプレイのちゃらんぽらんさから、他の 部員らと険悪な雰囲気になるのに、そう長い時間はかかりませんでした。
 そんな訳で、当初の橘は、チームでは少々浮いた存在になっていました。



  ●橘、我が家へ来襲

 そんな橘から、「今日、お前んとこに泊めてくれへんか」と電話が 舞い込んで来たのは、私が家でくつろいでいたある日曜日のことでした。
「ああ、ええで」と返事はしたものの、電話を切った瞬間、えらい奴を呼ぶ ことになったなあ、と思ったものです。家族に「今日、友達が泊まりに来る からな。・・ちょっと変わった奴なんやけど」と、私はいいました。メチャメチャ 変な珍獣やねん、と本当のことを言う勇気は、当時の私にはありませんでした。
 やがて、顔も服も真っ黒に汚れたドンゴロス星人が我が家にやって来ました。 我が家、大喧騒の巻の幕開けです。母が、「橘くん、まあご飯でもどうぞ。」と 膳をだすと、「ありがとう、おばちゃん。」と言ってバクバク食いはじめまし た(後に母は、私の友達に“おばちゃん”と言われたのは、後にも先にも橘だけだ、と述懐 している)。親父が酒を勧めると、「ハンキュー、ベリー、アニマル」と力の 抜けるギャグを飛ばして、家族じゅうをコケさせます。(補足すると、ハンキュー はサンキューのしゃれ。アニマルは、当時プロ野球の阪急ブレーブスにいた 外国人投手。)
 後で話を聞くと、その日橘は、チームに入ってきた マネージャーのことを追って、大阪から相生までバイクで行って帰ってきた そうです。当時の橘は原付に毛が生えたような、50ccのバイクに乗っていました。 50ccバイクの制限時速は30キロですが、橘にそんなスピードが守れるわけが ありません。大阪を出て、43号線の時点ですでに、速度違反で免停になってい たそうです。相生ではマネージャーに会い、あわよくば口説いてやろう と目論んでいたようですが、本人には会えたものの、結局期待していた釣果は なく、神戸で力尽きて我が家に転がり込んできたのでした。
 その夜、町内 が寝静まったあとも、私は(橘の近所迷惑な大声を心配しながら)彼と話し込んで いました。まったく正反対な性格の二人ですが、野球が好きなこと、「心の旅」 や「サボテンの花」のチューリップがお互い好きなことが判明したこと、超常 現象がすきなこと、など、結構共通点も多かったのです。その日を境に、 橘に対する見方や接し方が、少しずつ変わっていくことになります。ふたりで よくビリヤードに興じたり(当時は「ハスラー2」がヒットした時期でした)、 気まぐれで剣道同好会にまぎれ込んだり、橘の部屋に転がり込んだりすることが 多くなっていくのです。



  ●チームの中心人物へ

 2年になると、橘を相手にし得るパワーを兼ね備えた強力後輩たちが続々 チームに入部し、橘の活動拠点も徐々に彼らにシフトしていきました。その後の 彼の活躍ぶりは、おいおいこのコーナーでも紹介していくとして、チームは 橘を中心に、一段とパワーアップしていくことになります。良くも悪くも、 部員がチームに留まるか去って行くかは、すなわち橘を許容できるか否か、 が判断基準になっていました。橘の存在を面白がれるのは、自らもハチャメチャ さを内に秘めたパワフル人間ばかりで、どうしても橘を受け入れられない 真面目、平凡、堅物・・・といった類の者は、みな静かにチームを去って行き ました。結果として、チームに残るのは個性派の面々ばかり、という訳です。


  ●1989年 彫刻家宣言

 そんな橘が、 急に「彫刻家宣言」をしたのは、私たちが大学4年になって就職活動を始めた 1989年のことでした。彼は春休みに長野の方に出かけ、そこで塚脇淳という彫刻家 に出会い、彫刻に目覚めたのでした。元々橘は、絵や漫画を描くのがとても 上手でした。クロッキー帳に、宇宙戦艦ヤマトとかガンダムとかあしたのジョー とかの絵をびっしり描いているのを見せて貰ったこともありました。しかし、 それにしても彫刻家とは、我々から見ればあまりに突飛な選択でした。
 チームの飲み会で、橘は訝る部員たちを前にして、塚脇淳からの受け売りであろう 彫刻論を、得意げにぶっていました。「ええか、芸術っちゅうのはな、彫刻 っちゅうのはな、全くの自由なんや。決まった型なんかあらへんのや。何を 材料にして、何をつくってもええんや」 あきれ果てたような顔をした部員たち の顔を見ると、橘は「例えばこれ」と、空になったグラスに割り箸を一本刺し、 「これも彫刻や」としたり顔で言いました。「何を材料にして、何を作っても ええんや。それが彫刻なんや。」 すると、後輩の一人が、「とすると橘さん、 これも彫刻ですか」と言うと、おもむろに割り箸を橘の鼻の穴に突っ込みはじめました。 我がチームお得意の狂騒劇の始まりです。橘は両腕を別の後輩にはがいじめに されたまま、笑いながら「そうそう、これも、立派な・・・彫刻 ・・・・ドアホー!」・・・正直いって、このとき、まさか橘が彫刻家として 名を成していくかも知れないなどとは、これっぽっちも思いませんでした。



  ●心を打たれた彫刻作成の後ろ姿

 90年になって、私は就職して上京し、橘とも少しずつ疎遠になっていき ましたが、橘は相変わらず大学に残りながら彫刻を続けていました。そして、 91年3月4日に、私は橘に、人生を変えるほどの大きな転機のきっかけを 与えられることになります。
 その前日の日曜日、私は東京で暮らしていたにも 拘わらず、関西の仲間と兵庫県北部にまで出かけてスキーをし、最終の東京行き新幹線 に乗り遅れていました。結局私は、月曜日の会社をずる休みすることにし、 神戸にいる橘の下宿先に転がり込みました。日曜の夜、久々にひとしきり盛り上がり、 月曜の朝、橘は私に「会社休むんやったら、どうせ今日ヒマなんやろ。俺の 作業場に来いや」と誘いました。
 その日、私は橘の彫刻現場を初めて 訪れたのでした。懐かしいキャンパスののどかな雰囲気の中で、橘は我々に これまで彼が作った彫刻のいくつかを見せてくれました。まるで橘の身体の ような、ぼってりしたタンクから幾つものパイプが突き出ている、荒削りで不恰好なが らも不思議なパワーを秘めている彫刻でした。「まだ未完成やねん」というと、 橘はやがて、我々がいることも忘れてしまったかのように、一心不乱に続きの 作成にとりかかりました。そして、「ものを作るっちゅうのは、ホンマに面白いわ。」と、笑いながら私に 言ってきたのです。 橘のこの言葉は、今でも私の耳に残ったまま、ついて離れません。
 火花を散らしながら鉄板を切り抜いていく橘の 姿を見て、私は心の底から彼のことが羨ましくなりました。好きなことに没頭 している男の姿を、久しぶりに見たような気がしました。私は証券会社に就職して 1年が経とうとしていましたが、そのときにはもう、金融界のドロドロした 部分もいろいろ見ていました。一緒に働く社内の誰一人として、私に「羨ましい な、あの人みたいになりたいなあ」と思わせる人間もいませんでした。
 それが、相も変わらず時間が止まったようなキャンパスの中で、350円のコープ ランチを美味そうに食う橘の姿は、私の胸を鋭く突き刺してきました。私は 橘に、「ええのオ、お前は相変わらずで。お前の周りだけ、時間が止まっとる みたいやないか。」とつぶやきました。勿論それは、私の心の底からの、最大級の 賛辞でした。
 東京に戻って、いつも通りの社会人暮らしを繰り返していて も、橘が彫刻に打ちこむ姿は、脳裏から離れませんでした。そのうち、橘の 彫刻が賞を受けたとか、個展を開いたとかいう情報が、徐々に届くようになり ました。昔からそうでしたが、橘というヤツは、周囲の人間に、不思議なパワー を与えてくれます。何故かは分からないけれど、橘と接していると、「俺もやったるで!」みたい な感情が湧き上がってくるのです。
 そして私は、92年の春、転職をする決心を しました。本当に好きなことに、本当に首を突っ込んでみよう、そう決意する 気力を支えていたのは、91年3月4日の橘の姿に他なりませんでした。結局 私は92年9月に現在の就職先に入り込み、現在に至っています。橘がいなか ったら、今の自分はなかった、とまで言うつもりはありません。しかし、人生 において、かなりの部分で橘の影響を(いい方向に)受けたことは、間違い ありません。



  ●両親を説得

 橘自身も、今の彫刻家・橘宣行を作り上げるまでには、様々な 道程があったことと思います。92年9月、私が転職した直後に開いた個展 を訪れたとき、会場には彼と、橘の両親がいました。 両親は個展を祝いに来た、というよりは、橘に彫刻をやめさせるために来た、 という感じでした。「もう友達の皆さんは、就職して立派にやっているのに、 この子だけはいつまでもこんなことして・・・。彫刻で食べていくなんてアホ な考えは、もうやめたら・・・」 両親は橘に、彫刻をやめるよう説得しようと していました。橘は、「アホなことやってるのは、自分でも分かってるねん。 けど、俺は自分のやりたいことをやっていきたいんや。彫刻かて、凄いもんを 作れる自信もある。ビッグになる自信があるんや」と、涙ながらに訴えました。 こんなシリアスな橘を見たのは、後にも先にもこの時しか記憶にありません。 最後には個展会場のオーナーが、「お父さん、お母さん、ご心配は分かりますが、もう少し だけ、息子さんの好きにさせてあげてください。とことんまで、彼の気の済む ように、やらせてやって下さい。」そう語りかけ、両親もしぶしぶ了承しました。 ナニワ人情物語、拍手喝采のうちに幕、の瞬間でした。


  ●自由を貫く作品哲学

 その後の橘の活躍 は、周知のとおりです。最近の彼の作品は、「宇宙戦艦タチバナ」に「銀河 鉄道タチバナ」、さらには「グレートマジンガー・タチバナ」と、ますます 彼らしさを発揮してきたようにも思われます。大学時代の呑み会で「彫刻 っちゅうのはな、全くの自由なんや。決まった型なんかあらへんのや。何を 材料にして、何をつくってもええんや」と言っていた彼が、その言葉どおり 本当に好きなものを、己の欲求の ままに貫いている、その姿は、チームの象徴であった彼が、今もなおタチバナで あり続けていることの証左でもあるのです。
 そんな彼を見て、チームの 面々は今日も、「橘さん、相変わらずですねえ。橘さんの周囲だけ、まったく 時間が止まってしまってるじゃあないですか。」と言うのです。その言葉は 彼に対する、最大限の称賛であることは、言うまでもありません。橘の存在 そのものが、チームの象徴であり続けているのです。

 魅力たっぷりの彼に、 我々ガーガー夫婦もお世話になりました。94年2月、我々夫婦が結婚 二次会を開いたとき、司会役を頼んだのが橘だったのです。エド・サリバンの 格好をして、ユーモアたっぷりに会を盛り上げてくれたタチバナの姿は、新婦の友達から 大人気を博しました。いやはや、新郎の私がまったくかすんでしまうほどの 活躍ぶりでした。
 その橘も、1999年10月23日に、ついに結婚 しました。さて、彼の結婚生活は、一体どんな様子になるのでしょうか。 今後の彼の彫刻活動とともに、興味は尽きません。 でも、ただひとつ分かっているのは、橘はこれからも橘であり続け、彼は これからもチームの象徴であり続ける、ということです。そんな彼を見て、私はまた こう言う事でしょう。「お前は相変わらずやなあ・・・。お前の周りだけ、 時間が止まっとるやないか。」と。
 勿論、心の底から、最大級の賛辞と 羨望を込めて。








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