このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
平成23年7月撮影
奥多摩湖(正式名称は小河内貯水池)
訪れた平成23年7月は、水位がかなり下がっており、名物のドラム缶橋も危険のため使用中止になっていた
日原街道から見た、日原川橋梁と奥多摩工業
鉄筋コンクリートのアーチ橋で、営業当時の写真を見ると周りに木々は伸びておらず大きなΩカーブのコンクリート路盤が見て取れた
休止から54年経過した遺構である
ガラスや座席は無くなっていたが、今もなお残るゴンドラ
駅舎の窓ガラスは割れているものの、銘板や券売窓口はしっかり残っている。
これで看板が残っていたら完璧
トワイライトゾーンに入り込んだ雰囲気である
奥多摩から日原街道を経て日原鍾乳洞に向かう途中に、頭上にトロッコが走る鉄橋を見ることができる。この先の日原の石灰石採石場と氷川(奥多摩駅)の工場を結ぶ奥多摩工業の曳索鉄道氷川線で、線路の上を無人の曳索により石灰石を乗せたトロッコが現在でも走っている。ネットで調べてみたが、残念ながら傍でこの鉄道を見ることは、地形上で出来ないそうである。
小河内ダムから奥多摩周遊道路入り口へ向かう途中に、トンネルを出た左右に川野のドライブインがある。左側の駐車場に車を止め、商店脇の坂を上っていくとすぐにケーブルが張られた鉄塔と川野駅が見上げられるが、ここからは駅跡には行かれない。
近くの人に聞いて駐車場の反対側にある坂道を登ると、駅舎跡に続く運動場への道路が危険のため閉鎖されている。結局川野駅跡にはたどり着けず。
車を走らせてケーブルが張られている対岸に向かう。深山橋・三頭橋を渡って奥多摩周遊道路入り口料金所跡を過ぎると、すぐ左に駐車場があり真ん中になんと左の写真の鉄塔があるではないか。
橋脚上は立ち入り禁止
橋脚周りの路盤には、土も埋もれながらも線路が残っている
右の写真の右奥には、氷川駅を出てからの初めてのトンネルが見える
戦前に東京市(現:東京都)は人口増に伴う水不足に対応するために、多摩川水系の上流たる旧:東京市小河内村を中心とした一体に貯水池機能を持った人造湖を計画した。戦中に工事は一時中断したが戦後にまた再開し小河内ダム建設のために、国鉄氷川駅(現:奥多摩駅)〜小河内ダム脇の水根駅にかけての6.7kmの貨物専用線を敷設。昭和27〜32年の5年間、旧国鉄から借用したC10・C11型蒸気機関車により、セメント・砂・砂利等を積載した貨車を運搬した。ダム竣工後に観光路線としての営業を念頭に、西武鉄道が譲渡を受けたが採算上の問題から旅客営業を断念。現在は奥多摩駅の隣にある石灰石を採掘している奥多摩工業株式会社が水根貨物線として所有しているが、廃止線ではなく休止線扱いになっているとのことである。(参考:Wikipedia)
氷川側から撮影
日原トンネルの手前に採石場があり、トロッコが見える
日原側から撮影
下を都道が走る
ここはまだ現役なので「失われた鉄路」
ではないか
平成23年7月撮影
奥多摩湖の奥の奥多摩周遊道路入り口付近に、昭和37〜41年の4年間だけ運行された奥多摩湖ロープウェイの遺構が残されている。ここも休止から45年ほど経過しているが、駅舎・索道・鉄塔・ゴンドラが今もなお復活を望んでいるがのごとき残っているのが不思議である。
終点の水根駅の手前の鉄橋とトンネル
湖畔にある奥多摩 水と緑のふれあい館に展示されていた写真によると、この先の三井石油GS前の空き地が水根駅跡のようである
シャッターが閉まっていて中には入れなかったが、道路から見るところ駅跡には、線路等は残っていないようである
(貨物線の場合、駅といってもホームや駅舎はもともと無いことが多い)
橋梁上に残る線路 橋梁の手前のトンネルに残る線路
中山トンネルを出ると右上の小河内ダムの一部が見える。
左側の駐車場に車を止めると、右側に橋梁が。道路脇には橋梁までの通路が付いており、路盤まで簡単に上がれる。
路盤とすぐそばのトンネル内には線路が残っている。
白髭トンネルを出たすぐ右上にある橋梁 小河内ダムの一部
奥多摩駅前から奥多摩湖へ行く道路の途中、桧村橋の手前の奥多摩むかし道へ右折。
ちょっと走ると集落の上に、ガーダー橋が見える
今でも年2回、SLが走る只見線沿線に似た雰囲気
日原街道入り口の一つ先の郵便局の前の道を右折して登って行くと小型のコンクリート橋が。
ここには線路は残っていませんでした
奥多摩駅から奥多摩工業の脇の道を通って橋を渡り、右折して氷川国際ます釣り場の上の橋上から撮影
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