このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


北陸本線 旧線
呉羽駅〜旧富山停車場(初代富山駅)

探訪日2013年5月7日・2014年4月13〜14日
2014.05.31UP 2015.04.25修正
詳しくは 北陸本線 Wikipedia をご覧ください




明治32年に田刈屋に仮開業した「旧富山停車場(初代富山駅)」です

延伸してきた北陸本線は、呉羽トンネル掘削工事に時間がかかる・神通川の改良工事・富山以遠の延伸ルートも決まらないでいました
富山駅の場所も未定なので呉羽山を大きく迂回して神通川の西岸・田刈屋に仮停車場を作りました

北陸本線を一通り歩き終わり「旧富山停車場(初代富山駅)」を調べたら、 富山市郷土博物館 の博物館だより平成10年発行「第26号 富山市の鉄道100年その1」「第27号 富山市の鉄道100年その2 富山駅開業」がありました
その他の事は、なかなか情報が集まらないでいました

富山市立図書館に問い合わせると『日本図誌大系 中部2』『富山市史 通史 下巻』『鉄道の記憶』に掲載されているとの回答をいただきました
地元の図書館で3冊を確認すると大まかなルートが判明し、探訪することにしました
探訪後に国会図書館や国土地理院のHP(最初はシステム変更中で閲覧できず)で追調したら色々なことが分かりました

赤線:元線とは−1899年(明治32年)3月20日に田刈屋に仮営業した旧富山停車場までのルート
黒線:新線とは−1908年(明治41年)11月16日に呉羽トンネルから魚津駅まで営業開始したルート(現上り線)
黄線:新下り線とは−1960年(昭和35年)5月31日に呉羽駅〜富山駅間が複線化時に腹付された線路
とします


※ 航空写真は国土地理院のHPよりダウンロードしました ※

昭和27年11月9日に進駐軍が撮影した航空写真です
この1枚の写真からも色々なことが分かりました

赤枠画像をクリックすると画像が切り替わります





呉羽駅


馬面踏切
呉羽側踏切上部で北陸新幹線と交差する富山側
何か分かるかなと思いましたが、元線の外側に新下り線を腹付しただけだった


元線分岐点
北陸新幹線 新呉羽トンネル 新高岡側 付近
トンネル出口の右下辺りが元線分岐点  右奥の建物はテニスコート

元線は右奥のテニスコートを過ぎた辺りから左にカーブしていた
呉羽トンネル手前の新下り線は複線化時に掘り込まれた”残土の一部は元線へ捨てられた” と思う
 
赤線:1899年(明治32年)3月20日に田刈屋に仮開業した
   「旧富山停車場」へ向かう赤色の元線

黒線:1908年(明治41年)11月16日に呉羽トンネルから魚津駅まで
   開業した黒色の新線
黄線:1960年(昭和35年)5月31日に呉羽駅〜富山駅間が複線化時に
   腹付された黄色の新下り線
 

1908年(明治41年)秋頃、工事中の写真

右:11月16日に開通の新線と呉羽トンネル
左:旧富山停車場へ向かう元線
  よく見ると列車が近づいてきている


埋立てられて樹が生い茂る掘割区間
右奥に呉羽トンネル呉羽側坑門が見える水が溜まる掘割区間 数メートル下に元線が眠る

畑の中の一番低い所に掘割区間があった
近所の方曰く「掘割には煉瓦の擁壁があり、それが崩れていたのを覚えている」
畑の中の堀割区間は最近埋められたようです 北陸新幹線の呉羽トンネルの残土で埋めた とか?

さらに進むと
 この付近からは大昔に埋立てられて宅地になっています
桜と竹の間を覗くと
埋立てられた元線跡に建つ家
蓮向かいの元線脇に建つ、大正期建築のモダンな家
築90年?



元線跡に建つ石材工場


踏切跡〜元線跡に建つ花屋さん
花屋さんの話し「昔は踏切裏に店があった、廃線に伴い店を現在地に移転した、線路跡は用水を渡り奥の学童クラブへ延びていた」
石材工場の駐車場と花屋さんの間に踏切があった引き戸のガラス下辺当たりが路盤か


崩された築堤区間
花屋さん〜牛ヶ首用水橋梁跡〜築堤を崩した跡に建つ学童クラブ    ↓牛ヶ首用水

石材店から踏切を通過し花屋さんを突っ切り学童クラブと続いていると言われたが半信半疑でした
学園から振り返ると一直線に並んでいることが分かった
↑馬渡川橋梁跡

富山市郷土博物館 博物館だより平成10年発行「第27号 富山市の鉄道100年その2 富山駅開業」には、
馬渡川橋梁の橋脚の痕跡が載っているが、馬渡川の拡幅と護岸工事で消滅している

畑〜馬渡川〜元線跡に建つ学園
畑〜奥の学園への築堤は完全に崩されている昭和の終わり頃までしっかり築堤は残っていた


宅地化区間 1
築堤は学園を超え地鉄 射水線跡を超えた辺りから地上に降ります
地上に降りた元線跡は早くから地権者?に返されて畑などに開墾されて跡形も無くなりました
その畑も地鉄が住宅街を分譲して廃線跡を歩くことが困難です
左の学園から右の青い家ぐらいまで築堤はあった
時代は違うが地鉄 射水線とは平面交差していた!?地元の方曰く「送電線に沿って行けば線路跡があるよ」

四方街道 踏切跡&開渠跡?
もっと手前かも?

元線は駐車場辺りを通っていた  奥には神明神社の木々が見える
青いフェンスの所に住宅を建築中  もう直ぐ木々が見えなくなる



クッキリ残る神明神社 脇
富山県 県道7号新線脇にあるヤマト運輸の入口付近を通過
敷地の奥は神明神社の横手

元線跡は神明神社の直ぐ横手の用水に沿って通っていると考えていた
黄線:神社側と考えていた  赤線:実際の元線位置
畑を耕していた方曰
「神社側より土が硬かった」 「神社から遠い母屋側の畑から石(バラスト)が多く出てきた」

ビニールハウス裏の屋根が斜めになった小屋が元線跡

神明神社隣の石坂公民館には色々と資料があるらしいが、係りの方が不在で確認することが出来なかった
石坂公民館神明神社の桜の木の右下に母屋と石が多く出てきた畑がある



宅地化区間 2
真中の道路が元線跡と思うが、左正面の家が元線跡左正面の家の左側には右にカーブした堀がある

右にカーブした堀を抜けると建物の左側に石像があった
石像の裏には、継手のような物が・・・ 何?

開渠跡

公園内の滑り台から生垣辺りが元線跡

道路に転用した元線跡  桜の下を貫けた辺りから旧富山停車場構内

終戦後と現在の道路状況を比べてみました

石坂の街中を探訪中に話を伺おうと声をかけ方に国鉄OBのU氏を紹介していただきました
そちらで石坂町 郷土史「わがまち 石坂」を見せていただきました
そこには下の地図がありました!
148 スキャン画像
郷土史は市立図書館にも寄贈してあるとのことなので翌日図書館を訪れました


旧富山停車場(初代富山駅)
この田刈屋(石坂・駒見)に明治32年3月20日旧富山停車場が開業した

桜の下を貫けて振り返る
マンションを過ぎ、左右の民家から旧富山停車場 構内になる

旧富山停車場 構内に建設された富山地方気象台
気象台左奥に旧富山停車場 構内は延びる

終戦後まで転車台のピット?は存在したが、気象台の入口付近に埋没した?

D52ならこのクラスのピットでもよいが、B6クラスだとでかすぎるかも・・・

停車場 構内の今
新線開通後は、旧日本陸軍 工兵第九大隊練習廠舎 ⇒ 富山市立工業高校 ⇒ 市営住宅 ⇒ 払い下げられて住宅地になりました

旧富山停車場 ホーム端付近

記念碑
「富山停車場跡」の跡地に建つ記念碑のような顔をして
鎮座しているが、実際は構内より四方街道を挟んだ
反対側の道路に建てられている


旧富山停車場 構内航空写真
旧富山停車場
石坂町 郷土史「わがまち 石坂」の地図から現在の道路との比較で停車場 構内の範囲とした


旧富山停車場(初代富山駅)ホーム跡の場所の確定について
旧富山停車場が開業した後に現在の富山駅の場所が決まった
神通川の改修工事中、新旧河道の島状の地に現在の富山駅は作られた

北陸本線新線は、呉羽トンネルの手前で右にカーブさせ、高山本線との合流点で左に曲げる必要があったのか?
トンネル手前の右カーブをもっと緩くして現在の富山駅まで直線で結んでも良いような気がする
終戦後の航空写真を見ても殆どが田んぼだ

でもそこには仮営業中の旧富山停車場がある
停車場構内に新線は通せても流石に営業中の駅のど真ん中・線路に交差させるように新線を引くことができなかった
旧富山停車場のホームを避けるために新線は呉羽トンネルの手前で右にカーブさせ、少し南を回らせた
と、思う!



最初の昭和27年11月9日に進駐軍が撮影した航空写真からまだまだ色々な事が分かります

『 呉羽トンネル〜富山駅 』に続きます




お話しを伺った方々ありがとうございました
とても貴重な情報を頂きました




このページには多数の想像があります ご意見を ぐっち までください
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください