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上毛かるた<12.12.16記>
ここに群馬県の県民性を象徴する一つの事例を紹介する。それは”郷土かるた”に位置付けられている「上毛かるた」のことである。
毎年2月には群馬県の「上毛かるた競技県大会」が挙行される。これに向って12月頃から県内各地で前哨戦が展開されるのである。
前橋市永明地区子供会の熱戦13.1.14
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「上毛かるた」は郷土色豊かに作られている。群馬県にゆかりのある史跡・名勝・人物・産業・文化などの教育的要素を詠みこんだものである。
「上毛かるた」は小学校を中心に活用されている。生徒たちには意味の分からないものがかなりあるが、とにかく暗誦する。その後人生の歩みとともに理解していくのである。現に中高年になってから史跡や記念館を訪れる人が多い。「上毛かるた」は、まさに子供から年寄りまで愛着のある文化財となっている。
僕たち家族が栃木県から群馬県に引っ越したのは、1980年のクリスマスイヴであった。このとき小学4年生で転校した次女が、「上毛かるた」を買うことになった。ちょうど校内競技の真っ最中の時期である。その関係で僕たち家族全員が、すぐさま「上毛かるた」にお目にかかったことになる。
ところで「上毛かるた」に熱中する様は、テレビや新聞でも報道されたりして、尋常ではないなと思ったものである。「上毛かるた」とはいったい何者なのだ。県民をとりこにしている原因はなんなのだ・・・と長いこと疑問に思っていた。最近になってやっと調べる気になって図書館に行った。司書が薦めてくれた2冊の本を読んでみて、僕は今までの不勉強を恥じてしまった。なんとそれは戦後の復興期に劇的な形で作られたものと分かった。その本は次の2冊である。
「上毛かるた 50年の歩み」 財団法人 群馬文化協会
平成9年2月9日 発行 | 「上毛かるた その日本一の秘密」 群馬大学教授 山口幸男 監修
群馬大学大学院 原口美貴子 著
平成8年1月15日 上毛新聞社初版発行 |
前者は、「上毛かるた」を発行・管理している立場から解説しているもの。後者は著者自身が「上毛かるた」を愛用してきた立場から、その実体を明らかにした研究論文である。
ここでは、「上毛かるた」に対する素朴な疑問に、同じ愛用者の立場で答えてくれる後者の書物を借りて、「上毛かるた」誕生の概要を紹介する。
著者は「上毛かるた」に対して、あらゆる角度から切り込んでいる。そして全国的な実態調査と考察に4年間心血を注いでこの書をものにした。
1945年の2月、太田市が米軍機の猛爆に見舞われた。引き続き県内各市も焦土と化す。戦後ただちに活動を開始していた官公署と民間諸団体は、人々の支援を活発化させた。その団体の一つに「恩賜財団同胞援護会群馬県支部」という組織があった。救援はあらゆる分野にわたっている。
この組織の幹部に北京から引き揚げてきた浦野匡彦なる人物がいた。彼は郷土の復興のためには、国や民族を愛する心が大切で、そのためには、子供達に日本人が歩んできた歴史を教える必要があると考えた。その方法を考えあぐねていた時、台湾から引き揚げてきた須田清基なる人物に「それならかるたはどうか」と持ちかけられたのである。
須田は、上州の地理や歴史を読み込んだかるたを作れば、遊戯にもなり教育の助けにもなり、さらにはかるた遊びの中で、子供達が夢をもてるだろうと考えていた。浦野は、はたと膝を打った。さっそく須田の協力を得て、「上毛かるた」作りを決心する。ただちに題材を広く公募し、全県あげての大事業となったのである。
1947年1月11日、上毛新聞紙上で「上毛かるた」製作の構想を発表。そして1947年12月1日初版が発行された。続いて1948年2月11日、第一回上毛かるた競技県大会の開催に至る。矢継ぎの素早さには息を呑む思いがする。
読み札(裏に解説文)/取り札(絵札)
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「恩賜財団同胞援護会群馬県支部」はその後、「恩賜財団群馬県同胞援護会」と名称を変えた。1951年さらに文化活動の分野が独立して、「財団法人群馬文化協会」となり、「上毛かるた」の活動を受け継ぐことになった。そして現在も毎年2月に「上毛かるた競技県大会」が開かれており、今日に至っている。
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